劇評

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F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
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選評


基本として、それぞれが提案する「コンセプト」が、どう表象されたか、どのように舞台表現となったか、いかに作品化されたか、その手続きに注目していた。質にばらつきはあっても、どの集団のコンセプトも、おしなべて注目すべき部分があり刺激的だ。実作者として興味深くそれを観ることができ、すべての集団に敬意を表したい。だからなおさら、それがどのように実現するのかを考えざるをえず、作品そのものに創作の過程が刻まれるのを見る。成功しているか、まだ、そこまで達していないか、集団としての創作力はどうだったか。あるいは、コンセプトだけが先行していないか。その見極めが審査の基準になる。というより、そもそも創作とは、あるいは「作品」とはそのようなものとして観客に届けられるものではないか。

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公募プログラム審査について


 公募プログラム審査にあたるのは今年が2回目だが、昨年以上に、国際フェスティバルの審査というのは実にむずかしいという思いを抱いたまま、また、「これを推そう」という決意ができないまま、審査会に臨むことになった。とはいえ、以下のようなメモをそれぞれの作品について準備し、あとは、審査会での議論の推移を見て、というつもりだった。以下、そのメモをまず再録するが、審査会の席上、あるいはそれ以降明らかになった事実誤認等も含まれているものの、誤字脱字の修正以外、一切編集していない。

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増殖し、身体を乗っ取る声たち(『キメラガールアンセム/120日間将棋』) 


 The end of companyジエン社(以下ジエン社)の『キメラガールアンセム/120日間将棋』の一番の特徴は、同時多発会話である。しかしその技法自体は平田オリザが有名にしたものであるが、ジエン社のそれは平田のそれとは結構な違いがある。まず平田が「自然らしさ」を目的とし、あくまで日常にありそうなシチュエーションで会話を同時多発させるのに較べ、ジエン社はそもそもの劇のシチュエーション自体が「日常」「自然らしさ」というものからは離れている。

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「価値の在処は明らかにしてくれた、しかし......」

上演の構成は、大まかに言って前半と後半に分けられる。
前半では、まず観客に500円玉を1枚ずつ配った上で、「その500円を払えば好きなように演出を付けられる」旨が説明される。俳優は、あらかじめ用意された短い台本を、観客からの指示を反映させつつ演じるのだ。やがて別の俳優たちも舞台に登場して「自分にもやらせてほしい」「こっちは2人で500円にします(*1)」等とアピールし始め、結局は3人で演技を競い合う。もっとも、指示が10、20と増えてくると、中には相互に矛盾するものや、いわゆる「無茶振り」も交じってくる。当然ながらこなしきれずに失敗したり、時には俳優同士で相談してまで指示に応じようとする姿は笑いも誘うが、観客の要求がどこまでエスカレートするのかという緊張感も付いて回る。

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空白の可視化、繋がり合う喜び


一方が「途中で一度も顔を合わせることなく公演を迎えるなんて、そもそも無理があるんじゃないか」などと危惧する声に、相手が「それなら、公演に至るプロセスそのものを見せていくことにすればいい」と応じるところから、上演は始まる。
二人の女性が上手と下手に座り込み、一方はペンで紙へ、もう一方はチョークで床へ、次々と何やら書き付けていく。そして舞台には2枚のスクリーンが吊り下げられており、片方にベルリン、もう片方にソウルでの光景が映し出される。それぞれ同じテーマに沿って撮っているらしく、固定されたカメラの前を繰り返し駆け抜ける様子や、バス停の前で自分自身が映り込むように風景を撮っている様子などが流れていく。

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この既視感はどこから来るのか


 20世紀を表象する言葉とはなんだろうか。戦争、革命、運動、マイノリティなど、挙げればいくつもでてくる。ただし、それらの言葉がもつ視点から時代を切り取ると、20世紀というものがもった、ある現象が鋭利に浮かんでくる。だからこそ、そこに一つ言葉を足してみると、移動という言葉がでてくるのではないか。
 むろん、人が移動すること自体は、有史以前からある。しかし、その形態を分析すると、20世紀から現在までの移動という問題は、また違った位相として現れる。19世紀に現れたヨーロッパからアメリカへと移動する大規模な人口は、20世紀になると多様な移動の流れを生み出した。また、強制連行やポスト・コロニアルという言葉に代表されるように、宗主国と植民地のなかでの移動もある。ただ、それらが貧困というものを大きなバネとしていたのに対して、夢を叶えるための移動というものが生まれたのが、20世紀末の特徴ではないか。いわば、単に貧しさから富裕層を目指すための移動ではなく、自己実現を求めた移動。

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災難競争の時代、まさに再現戦略

キム・ナムス

 映画《Hiroshima, Mon Amour》で男性の主人公がアドバイスするように、外から来た人の感覚には許されることと許されないことがあります。即ち、すべてを見ても、見なかったことになるかもしれないということです。許されたことは目に見えるが、それがすべてではないのです。許されなかったものを見るということは、再現されたものを超えて再現されなかったものと一緒になるということです。

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舞台芸術の最先端、災難のカオスを再現するー日本の代表的なダウォン芸術フェスティバル、Festival/Tokyo

ソ・ヒョンソク

フラッシュバック1

今村昌平監督の「カンゾー先生」の最後のシーン。職人精神で一生を生きてきたある島の医者が、自分を愛する女性と舟遊びに行く。突然海の向こうから第二の太陽が上がる。この奇妙な何かが歴史を変えた原子爆弾であるということが知られないまま、映画は幕を閉じる。(この映画はこのシーンの直前まで物語の背景が1945年だということははっきりしないので、赤い光は観客にも突然のことである。)無知の重さは一生守ってきた知性と熱情を空虚なものにする。「歴史的な現実」は皮膚と感覚を占領しながら一瞬で日常に浸透するが、相変わらず理解されないばかりだ。

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自国の演劇文化の「正常さ」を疑ってかかる-東京とルーマニアの舞台芸術祭から

岩城京子

 ある一定の国に長期間住みつづけ文化を享受していると、自国に蔓延る文化のすべてが「正常」であるという無反省な誤認に至りかねない。それは自分の家族の常識が正常であるという無根拠な思いこみに十代の子供が陥ってしまうのと同様の方程式であり、それこそ客観性がないゆえに、揺るぎない不文律のヴェールとしてその文化圏の人間を知らずに覆ってしまう。去る11月、日本とルーマニアという特異な2カ国の舞台芸術祭を立て続けに視察してまわったことで、いかにこうした「正常」さが、その国の社会的、経済的、政治的、時代的、土壌によって人工的かつ必然的に生成されたものであるかということを改めて痛烈に認識した。

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アジアにつながるF/T:非日本語圏の外国人からの視点

パウィット・マハサリナンド(タイ)

 1994年から2006年の間、私が日本を訪れたのは、バンコクからアメリカへ渡る途中に乗り換えで成田空港に降り立った程度のものだった。私のトランジットは、出発ゲートにいるタイ人女性と恋に落ちてしまうくらいに、頻繁なものだったのだ。日本語が理解できない限り旅をすることは難しいと耳にしていたし、円高のおかげで私の貯金にも大きな影響を及ぼしかねないうえ、ガイドツアーも楽しめたことがなかったこともあり、日本へ行くことを躊躇していた。

 それ故、日本の演劇は国際交流基金(以下JF)がタイへ持ってきた作品くらいしか観たことがなかった。JFがバランスよくトラディショナルなものとコンテンポラリーな作品を紹介してくれたことは、タイの演劇好きにとっては幸運なことだった。JFの予算は限られたものだったにもかかわらず、その時我々は歌舞伎と落語、そして平田オリザと野田秀樹の作品を観劇することができたのだ。とにかく、劇場やテレビの世界でプロとして働く私の元教え子たちは、平田オリザのワークショップに参加し、そこで学んだことを未だよく記憶している。そして後に、大学にあるブラックボックスシアターで上演された『東京ノート』を観劇しているのだ。同様に、タイの演劇好きや批評家たちの多くも野田秀樹の『赤鬼 タイバージョン』をここ10年来のベスト作品として評価している。

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