劇評

ステップメモリーズ―抑圧されたものの帰還

F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
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イェリネクからの問い、イェリネクへの応答――「F/T12」について


 最初に、諸々の事情から、本稿を書きあげることが大幅に遅れてしまったことを、この場を借りて謝罪したい。「F/T12」の公式プログラムの中で、私はアミール・レザ・コヘスタニの作品を見ることができなかった。ポツドールは池袋では見逃したが、数週間前に京都で行われた公演は見ている。公募プログラムやテアトロテーク、シンポジウム等には、残念ながらほとんど参加することはできなかった。そういうわけで、ここでは主として、主催プログラムを中心にしながら、「F/T12」全体を、私なりの視点で振り返ってみたい。

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言葉と距離と


 われわれの抱える問題のひとつは、失語さえ発語出来てしまう、ということである。或いはこう言ってもよい。われわれは発語することでしか失語という体験を表現出来ない。それが「表現」でなければ、ただ黙っていればよい。そもそも失語とはそういうことだろう。だが、失語の沈黙を単なる怠惰や無為と見間違えられたくないとき、われわれはこう言うのだ。「わたしは言葉をなくした」と。このあからさまなパラドックスは、しかし殊更に糾弾されるようなことではなく、人間として、ごくごく当たり前の反応であり、よくあることであると言えばそれまでだが、しかし失語の発語という逆説を義務や権利と取り違え、そこに紛れもなくある筈のやむにやまれなさを忘却していったとき、その者は自らの「表現」に溺れ、胸を張って「わたしは言葉をなくした」と言い放ち言い募ることになってしまうだろう。ほんとうは戸惑いや恥辱を内に感じながら、それでもそう述べるしかない、ということであるのに、何かを言ったつもりになっているのだ。その姿は醜い。だがその者は自らの醜さを知らない。そうならないようにするためには、失語の発語という奇妙だが切実な行為を、そこに潜む意味を、何度となく問い返し、ただ発語しないという選択肢を折り曲げて、どうして「わたしは言葉をなくした」と述べないではいられないのかを、まず自分自身に対して、絶えず証明し続ける必要がある。もちろんその問いと証明のあり方は、一通りではないのだが。

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ポストリアリズムへの探求

セノ・ジョコ・スヨノ
翻訳:加藤ひろあき

 去る11月22日、にしすがも創造舎 (i) のグラウンドに大きな穴が一つぽっかりと口を開けていた。もともと耕作地であったように思われるその土地は手入れされることなく放置されていた。盛られた土の上にはシャベルが数本、ごろんと転がっている。そしていくつかの木箱、見たところコンテナのようなものが穴の横に無造作に置かれていた。わたしは最初、これはインスタレーションアートだろうと考えた。しかも、ごくありふれたインスタレーションだと。

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「不可視なペストの時代」の知覚装置


東京以北の日本はいま、目に見えない病に冒されている。その病は、ゆっくりとしかし確実に、国土を荒し、人体を侵し、正常な言語感覚を失調させている。政治家が、マスメディアが、御用学者が、「安全です」と宣言する。しかしその力強い安全宣言の連呼はもはや、言葉として、国民の不安感情を増幅させる反作用しか持ちえない。確かに表面的には安全だ。何も見えないのだから。しかし可視化できないものの水面下で、かつてないほど巨大な病が国内で猛威を振るっている。言葉を換えるなら、日本中はいま「不可視なペスト」に侵されている。

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