劇評

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F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
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F/T13公募プログラム選評


  公募プログラムの講評を始めるにあたって、まずは、前年度の受賞作シアタースタジオ・インドネシア『バラバラな生体のバイオナレーション!~エマージェンシー』の演出家ナンダン・アラデア氏が新作を持って来日公演を予定していたそのひと月前に急死してしまったという思いもかけなかった事態にたいしてお悔やみ申し上げたいと思う。

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フェスティバル/トーキョー13 F/Tアワード選評


 2013年の年末、北京から東京にやって来た日は、少し肌寒いがとてもいい天気だった。

 東京は私の好きな街だ。乱雑、雑然としているけれど、華やかで様々な人が暮らしている、まさに現代都市である。アートを通して社会生活や政治を観察し、批判し、また、それらに介入するためにこの都市でフェスティバルを開催する、なんと興味深く挑戦的な任務だろうか。相馬千秋氏とスタッフたちは、見事にこの任務を全うしていた。私が手にしたのは、綿密に練られているが大胆奔放なプログラムだったのだ。

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F/T13公募プログラム総評

高橋 彩子

異文化・異文脈への鋭い眼差し〜『ダンシング・ガール』『地雷戦 2.0』『地の神は不完全に現わる』〜

 様々なスタイル・テイストの舞台作品があふれる現代において、観劇体験に何かしら共通する価値を見出すことができるとするなら、私は「未知との遭遇」を挙げたい。情報が溢れ、知ったつもりになることも多い現代だが、それまでには覚えたことのない感覚や他者の現実が、生々しさを伴って私達の前に立ち現れることこそ、観劇の醍醐味だと思うのだ。そして、F/Tにおいて、名前を聞いたことがないアーティストも数多く登場し、内容やクオリティの予想すら難しい「公募プログラム」はいわば、その最左翼的存在だった。

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先鋭を夢見る――フェスティバル/トーキョー12で観たアートと政治にまつわる所感


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 東京滞在の初日、私はセゾン財団の事務所に連れて行かれた。そこで、ヴィジティング・フェローとして森下スタジオで過ごす32日間のレジデンスで何が可能か話し合う予定だったのだ。

 まったく初めての来日だったため、日本のいかなる芸術的で文化的な体験を受け入れようとする気持ちがありながらも、シンガポールでは演劇およびその学問が政治的になっているという傾向もあり、心の奥底で描いていた優先事項の一つは、アートと政治、社会とアクティビズムの関わりを体感することだった。

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選評


 アーティストが「emergingする(*)」というのは、あるいは、アートの場に誰かが新たに「現れる」というのは、何を意味するのだろうか。アーティストは(年齢と経歴とは関係なく)今日の芸術に可能なことについて、何か新しいビジョンや方法論を見つけられるのか。同時代の芸術における議論の中で最も重要な問題はいかなるものであれ、それがアーティスト個人にとってはどれほど重要なのだろうか。今日の芸術において、アーティストは何が出来るのだろうか。

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イェリネクからの問い、イェリネクへの応答――「F/T12」について


 最初に、諸々の事情から、本稿を書きあげることが大幅に遅れてしまったことを、この場を借りて謝罪したい。「F/T12」の公式プログラムの中で、私はアミール・レザ・コヘスタニの作品を見ることができなかった。ポツドールは池袋では見逃したが、数週間前に京都で行われた公演は見ている。公募プログラムやテアトロテーク、シンポジウム等には、残念ながらほとんど参加することはできなかった。そういうわけで、ここでは主として、主催プログラムを中心にしながら、「F/T12」全体を、私なりの視点で振り返ってみたい。

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言葉と距離と


 われわれの抱える問題のひとつは、失語さえ発語出来てしまう、ということである。或いはこう言ってもよい。われわれは発語することでしか失語という体験を表現出来ない。それが「表現」でなければ、ただ黙っていればよい。そもそも失語とはそういうことだろう。だが、失語の沈黙を単なる怠惰や無為と見間違えられたくないとき、われわれはこう言うのだ。「わたしは言葉をなくした」と。このあからさまなパラドックスは、しかし殊更に糾弾されるようなことではなく、人間として、ごくごく当たり前の反応であり、よくあることであると言えばそれまでだが、しかし失語の発語という逆説を義務や権利と取り違え、そこに紛れもなくある筈のやむにやまれなさを忘却していったとき、その者は自らの「表現」に溺れ、胸を張って「わたしは言葉をなくした」と言い放ち言い募ることになってしまうだろう。ほんとうは戸惑いや恥辱を内に感じながら、それでもそう述べるしかない、ということであるのに、何かを言ったつもりになっているのだ。その姿は醜い。だがその者は自らの醜さを知らない。そうならないようにするためには、失語の発語という奇妙だが切実な行為を、そこに潜む意味を、何度となく問い返し、ただ発語しないという選択肢を折り曲げて、どうして「わたしは言葉をなくした」と述べないではいられないのかを、まず自分自身に対して、絶えず証明し続ける必要がある。もちろんその問いと証明のあり方は、一通りではないのだが。

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倫理の動物、動物の倫理――シニシズムへの態度


 2012年のフェスティバル/トーキョー(F/T)のテーマは「ことばの彼方へ」であったが、上演された八割方の作品を観て、あらためて振り返ったときに、例年よりもテーマを意識したと思われる作品が多かったように感じた。

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「不可視なペストの時代」の知覚装置


東京以北の日本はいま、目に見えない病に冒されている。その病は、ゆっくりとしかし確実に、国土を荒し、人体を侵し、正常な言語感覚を失調させている。政治家が、マスメディアが、御用学者が、「安全です」と宣言する。しかしその力強い安全宣言の連呼はもはや、言葉として、国民の不安感情を増幅させる反作用しか持ちえない。確かに表面的には安全だ。何も見えないのだから。しかし可視化できないものの水面下で、かつてないほど巨大な病が国内で猛威を振るっている。言葉を換えるなら、日本中はいま「不可視なペスト」に侵されている。

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ダンスのエコロジー
――F/T12におけるいくつかのダンス作品について


 「その土地にどんな草が生えているか、ということはその土地の踊りにも直接関係してくる」。インドネシアの前衛舞踊家として世界的に知られるサルドノ・クスモは、ダンスがその環境と密接につながっている事実を絶えず強調する人である。

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