劇評

F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
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舞台芸術の最先端、災難のカオスを再現するー日本の代表的なダウォン芸術フェスティバル、Festival/Tokyo

ソ・ヒョンソク

フラッシュバック1

今村昌平監督の「カンゾー先生」の最後のシーン。職人精神で一生を生きてきたある島の医者が、自分を愛する女性と舟遊びに行く。突然海の向こうから第二の太陽が上がる。この奇妙な何かが歴史を変えた原子爆弾であるということが知られないまま、映画は幕を閉じる。(この映画はこのシーンの直前まで物語の背景が1945年だということははっきりしないので、赤い光は観客にも突然のことである。)無知の重さは一生守ってきた知性と熱情を空虚なものにする。「歴史的な現実」は皮膚と感覚を占領しながら一瞬で日常に浸透するが、相変わらず理解されないばかりだ。

フラッシュバック2

 3年前に韓国で公演されたことがある岡田利規の《三月の5日間》で、二人の男女はラブホテルの部屋で愛も情熱もなく、金がなくなるまでセックスをして別れる。世界と断絶された五日間を過ごして外に出たら、メディアはアメリカがイラクを侵攻したことを知らせている。もちろんその事実を知ったからとはいえ、彼らの現実が変わるわけではない。無気力の重さは欲望より大きい。

 公園に入ると、舞台も無く、すこし離れた空間に、椅子が観客の人数くらいに数十個も置かれている。公演のクライマックスに、この空いている椅子は突然退却する。予告もなく分からない力により、椅子は一瞬で一つの方向に巻き込まれてしまう。その超現実的な光景の不気味さは、数ヶ月前の災難を直接経験していない人にも、いきなり恐怖として増幅される。安逸な観客を覚ますレファランスは一つの強烈な歴史的現実だ。「津波」、「福島」。今回のフェスティバル/トーキョーの開幕作であるロメオ・カステルッチの「わたくしという現象」は、このように福島の衝撃を幻想的にあるいは「芸術的」に再現する。フロイトの洞察のように、悪夢を繰り返したらそのトラウマを克服できる力を得られるのか?

 今回のフェスティバルをみれば、福島の事態以降、日本の現在は緊迫している。否、本当に緊迫しているのは過去と現在ではなく、未来だ。現在の不安は未来の不確実性へ徐々に変わっていく。昨日の余波が明日どんな悲劇として拡散して現れるか分からない不安。さらに、やがて東京が史上最大の震災に襲われるという不吉な予測、20~30年後には日本という国が存続していないかもしれないという悲惨な恐れ。今日の日常がいつでも一日で無に死滅できるという恐るべき真実。人生の無常よりも強い破滅の力に対する無心な恐怖。無知による無気力、絶対的な無意味に対する絶対的な無知。歴史は「メディアイベント」を乗り越えた。日常は歴史的な現実に飲み込まれた。津波のように。そして皮膚を、顔を、精神を強く叩いた。無知の重さを、無気力の重さを乗り越える力が必要な時なのだ。福島の事態は現在進行形である。否、全ての日本人に本当にそうなのだろうか?

福島以降、進行形の悪夢

 今年のフェスティバル/トーキョーのスローガンは、福島の衝撃を芸術の中心と基盤として設定された。これによると、日本の観客達に必要なのは現実についての素直でオープンな対話だ。幻想ではない現実、隠喩ではない直説法が切実である。今年のフェスティバルで特に自国の若手アーティストたちに耳を傾ける理由もそれと無関係ではない。

 現実に近づく方法のスペックトラムを最も大きく広げたプロジェクトは、高山明の《Referendum - 国民投票プロジェクト》だった。基本趣旨は日本の現状に関する青少年たちの意見を聞くインタビュー映像を制作し、アーカイブ化する作業で、その場所はトラックになる。東京全域を移動するトラックの中には将来どういう仕事をしたいか、もし市長になったらなにをするか等、素朴な質問についての数十名の青少年の考えが整理されている。単純な質問は福島についての国民的関心の断面を表している。観客が入ってインタビューの映像を見ることができるこのトラックの予定された終着地点は福島だ。

 このような直説法の戦略とバランスをとる作品群は舞台の幻想で現実を語る若手アーティストの「演劇」作品だ。それらから見つけやすいのは、暗い未来像あるいは日常から離れた暗鬱な代替現実だ。舞台の代替現実は、今日の不確実性を照らす鏡になる。矛盾に聞こえるかもしれないが、有望な若手アーティストの演劇的ビジョンが、形式の変革とか叛骨的な態度よりは、現実に対する主題意識に集中することも福島の余波だと言えるだろう。いかなる造形的・作家的・構成的完成度も排除して直説法の政治学を繰り広げた《国民投票》が、舞台の外の空間にコミュニケーションの領域を拡張しようとしたならば、伝統演劇の慣習的な場所が提供する基本条件は言葉の内容に集中させる機能なのだ。保護された直説法の場というか。慣習と直説法は歴史的な現実を蘇らせる。

 岡崎藝術座の《レッドと黒の膨張する半球体》は日本国民が日本から出て移民者が多数になった未来の国家像を描きながら再現体系を乱し始める。宮沢章夫の《トータル・リビング》は日本とチェルノブイリを比べながら、順番も結論もない物語の破片の中から「慧眼」の糸口を探し回る。鳥公園の《おねしょ沼の終わらない温かさについて》は現実的でも非現実的でもない仮想の世界で、ある小さな共同体が死の兆候を受けとめる態度を冷たく描写する。暗鬱だ。

 これらの虚構的な現実では、世界の論理が少し歪んで反映される。窓の外に身を投げた人が蘇ってきたり、動物と人間の区分が混乱したりする。人物と俳優の隙間が突然広がり、舞台上の現実の堅固さが壊れることも頻繁にある。幻影を維持させるメカニズムはかろうじて揺れるが、とはいえブレヒトのように距離を置くことで観客の現実感覚が鋭くなるという公式が前提されるわけではない。「福島」という現実は距離を置くことも、それ以上どうにもならないのだ。むしろブレヒトの残像が割れた現実の隙間から、肉屋の肉のようにぼんやりと見えて、現実の不均質性について力無い嘲笑を浮かべている。批判的な距離を置くには虚構が重く、舞台の論理に同調するにはその縫い目が荒すぎる。舞台の慣習は混乱の過剰を伝える最適の条件になる。

 ピーチャム・カンパニーの《復活》は、アナログ放送の終了につれて電波送信の機能と共に戦後再建の象徴性を失ってしまった東京タワーの前で行われた公演で、福島の致命的な傷痕を思い出す。過去形の栄誉は現在の暗さに対する対立的な逆説になる。サイトスペシフィック演劇でもあるこの作品で、復元のための国家的かつ組織的な努力には帝国主義の影がはっきり映っている。福島事態をきっかけに急に体感される自衛隊の存在感、「頑張れ、日本」というスローガンなど共同体意識の復元を願う汎国家的な努力が、受け入れやすいものでないようだ。凝集への訴えは、それほど専制的な修辞に近づいているのか。

 今まで言及した「演劇」作品に登場する人物たちは、いずれも均質的な社会的アイデンティティを失った状態で自分の場所を見つけるために奮闘するが、その旅程は個人的な力量で克服できるほど簡単ではない。解決策はいつも自我の外部のどこかで微かに、とても微かに見える。過去の栄誉の痕跡を取り戻そうとする切ない努力は、何かの総体的な力にぶつかって挫折する。過去はむしろ現実の不条理をあばく幽霊になって彼らをいじめるばかりだ。たとえば《復活》では福島に残された犬が言及され、さらに1957年に南極で捨てられた犬の霊が呼び出される。公演はその時に生き残った二匹の犬「太郎」と「次郎」の銅像がある東京タワーの前で行われ、そのような苦しい過去の蘇りは不可欠になる。歴史は単純に繰り返すわけではなく、積み重なる不安の重さを現在形で換算する。 チェルノブイリ、広島、東京タワー、ディジタル放送、南極探検、フランダースの犬、自衛隊、旭日旗、移住民、精神分裂、自殺。トラウマはあらゆる記号を引き出す。それを理解するための小さな糸口としてなのだ。否、周りのすべての記号が一つのトラウマを指し始める。お互いに関係のないこの記号は公然と関係のつながりを作り出す。この繋がりは究極的に巨大な質問を鎮めることができるのか?:「なにを語ることができるのか」

芸術について何を語ることができるのか

 歴史の波が芸術の変化を導くことはできるのか?1960年代のオルタナティブな芸術が歴史を直視し、変革と転覆の無限の可能性を開いたように、福島は芸術的な革新を刺激できるのか?危機は日本のアバンギャルドの全盛期を復活させられるのか?芸術的な変革は現実を理解するための尖鋭な道具になり得るのか?歴史と芸術は新しい生命力を与え合えることができるのか?

 今日の緊迫さのなかでそのような質問は、対話とコミュニケーションの必要性の影で矮小化して眠っているようだ。せめて今だけは「どう語るか」の問題より「何を語るか」の問題が至急なのだ。まだ衝撃は進行形であるから。

 偶然でもなく、舞台言語の仕組みを最も果敢に解体するのは、今日の若いアーティストではなく、現代舞台芸術の生きる伝説たちだ。韓国にも紹介されたジェローム・ベルの2001年作《The Show Must Go On》が日本の出演者によりリメイクされ、ヨーロッパのアバンギャルド演劇の先駆者ルネ・ポレシュの近作《無防備映画都市》が招聘された。ダンスと演劇の元に対する根源的な質問は「古典」の形で配置されたと言えよう。それほど既存の美学的装置を再編成することには用心深い。

 福島となんの直接的な関連性もないこの「マエストロ」たちの作品以外にも、主催と公募に分けられる20作品の大部分は福島と無関係な主題意識を持っている。(公募プログラムにはジョン・グムヒョンの《油圧バイブレーター》とモダン・テーブルの《Awake》等、アジアの若手アーティストの既存作品が紹介された。)

 彼らに、「我々は何を語ることができるのか」という巨大な質問は統合的なテーマではなく、談論的な脈絡になる。福島は避けることもできない大気層になって、すべての作品に被せられる。福島と無関係に見える作品が、ひょっとしたら福島について、危機について、不安について、愛国心について、時代について、もっと鋭い洞察力を持てるかもしれない。テーマから離脱する隙間が興味深いのは異邦人の観点だけではないだろう。

 今回のフェスティバルで最も大きい破格が見つけられた妙な地点は、やはり福島とも関係なく、芸術に対するモダニズム的な省察とも無関係な作品である。芸術の形式についての質問は、「芸術性」とか「問題意識」を求めるときに最も無色な作品で逆説的に表れる。福島への質問はその前に作られた一つの問題作でめまぐるしい迷路に陥る。「バナナ学園純情乙女組」がその主人公である。

 最近日本の舞台芸術界で最も「目立つ」劇団として、「バナナ学園純情乙女組」というコレクティブ、否、ファンダムを選ばざるを得ない。これは20代前半の「オタク」二階堂瞳子が率いる公演・遊戯集団で、今回のフェスティバルに紹介された作品《バナ学バトル★☆熱血スポ魂秋の大運動会!!!!!》を含めて、彼らの公演は一言でいうとめちゃくちゃ無秩序である。それもおとなしい言葉で表現すればそうだという。小劇場の小さい舞台を占領する50余人のパフォーマーは、ほぼ一瞬も休まずに動く。早いテンポのポップ音楽に合わせて集団的なダンスをしていたり、集団乱交を演じたり、劇場のあちこちで観客をからかったり、パフォーマー同士でなにかを渡し合ったり、それでもなければ劇場のどこかの端っこで一人だけの行為に夢中になっている。主な衣装は制服だが、コスプレのような独特な衣装、または汗まみれの半分裸に混ざっている規範的服装は、もはや逸脱のシンボルになっていた。(多くの男性出演者もスカートをはいていた。)出力の低い安物スピーカを破りそうな勢いで沸き起こる音楽は、むしろ騒音を熱望させる。彼らが巻き込む舞台は一瞬でペンキ、洋服、野菜や果物の破片、色んな小物などでめちゃくちゃになる。客席も同じだ。「狂ったバカ」たちがずっとまき散らす水と汗・ペンキ・野菜・小物は、劇場をでたらめの料理のようなゴミ場に転落させる。騒いでる間に、観客の膝に座ったり、耳に叫んだり、お土産をあげるなど、いちいち気づくこともできない即興的な交流が休まず繰り広げられる。ここに振付・小物・舞台セット・キャラクターの様々なクリーシェが加わって、会場全体は名もない混乱になる。演劇的な崇高さはうるさい熱病に代えられる。とても清潔な東京中心部でこんなゴミの山に会えるとは。

 しかし、時間の軸を揺さぶるような無秩序の破裂を作動させるのは、驚くべきことに無慈悲な放縦さではなく、整頓された秩序である。ものすごい騒乱を支えているのは一糸乱れぬ精確さだ。小さい舞台を数十人が占領してあらゆる「狂気」や「醜態」を披露しても、その中で緻密な演出と堅固な統制の力が表れる。逸脱の身体が果敢に実行するのは破壊的カオスではなく、驚くほど、怖いほど精確かつ精巧な組織なのだ。騒乱はまさに一つの巨大な機械のような噛み合いの連続だ。観客を混乱に投げかける実体は狂った熱気ではなく堅実な約束だ。このような逆説が語るのがアバンギャルドの更生なのか死なのかは分からない。

 数ヶ月の練習を通さないと出来なさそうなこの精確さの源泉は、驚くべきことにアンサンブルの所属感ではなく、パートタイマーの一時的な自発性である。劇場をひっくりかえす数十人のパフォーマーは専門的な専属団員ではなく、ただ舞台を楽しむために集まった「バナナ学園純情乙女組」の「ファン」達、つまり「オタク」達だ。出演料も貰わず熱情を求めて舞台に立った彼らにとって、この集団行為は観客のための公演である前に自分のための逸脱の噴出口だ。外部の人にとっては「公演」である前に一つの興味深い社会学的、人類学的現象とも言えるのだ。量的に考えれば、三島由紀夫の隊員よりも遥かに多い信奉者達が参加している行動隊なのだ。

 このものすごいオタク達の結集の中で、秩序は実に無秩序より破壊的な力になる。旧世代のオタクの閉鎖的な個人主義ではなく、狂的な集団主義が舞台を占領し、一体感のヘゲモニーが号泣のように劇場にまき散らされる。制服と軍服、大規模の集団的身振りはファシズム的な均質性を発散することをためらわない。

 「自衛隊のパイロット募集」正体が分からない均質性は、舞台を横断する大きいでたらめのバナー等を通して、その実体を宣伝するふりをする。これに反応するように、取り留めもなくひたすら踊っていた「学生」達は、観客に向けて並んで敬礼をしながら「愛国」の意思を演技する。狂った無謀さと共同体意識が、イドとスーパー・エゴが、あっけなく一緒になる。無意識を占領するこの論理のない修辞、不和のない画一性は、最初からカーニバルの狂気を貫いていたのだ。

 しかし「バナナ学園純情乙女組」の学生たちが、全て自衛隊になってしまうという物語の底に流れるのは、盲目的な愛国心ではなく、盲目さそのものだ。筋の通らない空想だ。この変な光景には扇動の小さな意図すらない。どんな人間的、集団的な目的意識もない。「観客冒涜」を自閉的な呟きにさせてしまうこの激しさには「冒涜」の意思さえ欠けている。もしかすると彼らに自衛隊は岡田のイラク戦争よりも抽象的な記号にすぎない。「バナナ学園純情乙女組」の「組長」二階堂が表すように、舞台上の全ての記号は空白になっている。劇場はもはや政治的な議論の場ではない。ファシズムの症候群だろうが、抑えられた熱情の祭儀的な噴出だろうが、もしくは社会規範に対する転覆だろうが、彼らの荒い身振りについてのいかなる「解読」だろうが、全てが一つの巨大な空白に流されてしまうのだ。アレゴリーはない。この広闊な下水道穴に興奮は満ちていても名分はなく、狂気は充満していても動機はない。(この穴に昨今のアバンギャルドの運命を聞くことは陳腐な馬鹿なことになってしまう。)規範を揺さぶるが、その揺れに自由と解放のための理念はもちろんなく、ものすごいエネルギーを発散するが、その根源はえらく空虚なだけだ。空虚感さえも吸い込む空虚、破格もなく、ジュイサンスも許さない空虚。巨大な逸脱の波長を無謀に放出するビックバンであり、全ての意味と意思を吸い込むブラックホール。無為の暴力、無知の暴風だ。一言で無意味の津波だ。

 欠乏は誇張すればするほど増大する。それらが耽溺するものは、ひょっとしたら熱情と統合の感興ではなく、この欠乏の偉大さだ。欠乏の重さは欲望より大きい。この欠乏のなかで、「我々はなにを語ることができるのか?」

 空に昇ったもう一つの太陽とそれが照らす巨大な不理解の狂気の中で表せることは知の意思ではなく狂った踊りだ。否、狂った踊りは二番目の太陽とそれが投げる破格を動物のように予見していたのだ。否、本当にそうだったのか?この洞窟のカレイドスコープの中から出てみたら、世の中は相変わらず回っている。メディアは尚も混乱が続く。海の向こうから遠く眺める新しい歴史の波は、尚も不理解の中にある。

(翻訳:F/Tアジアコーディネーター、東京藝術大学大学院 李丞孝)

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