劇評

F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
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空白の可視化、繋がり合う喜び


一方が「途中で一度も顔を合わせることなく公演を迎えるなんて、そもそも無理があるんじゃないか」などと危惧する声に、相手が「それなら、公演に至るプロセスそのものを見せていくことにすればいい」と応じるところから、上演は始まる。
二人の女性が上手と下手に座り込み、一方はペンで紙へ、もう一方はチョークで床へ、次々と何やら書き付けていく。そして舞台には2枚のスクリーンが吊り下げられており、片方にベルリン、もう片方にソウルでの光景が映し出される。それぞれ同じテーマに沿って撮っているらしく、固定されたカメラの前を繰り返し駆け抜ける様子や、バス停の前で自分自身が映り込むように風景を撮っている様子などが流れていく。

やがて二人が舞台の中央に進み出て、様々な動きを見せ始める。途中、相手の腹部に触れた時の、安堵したような笑顔が印象的だ。そしてこの辺りから、スクリーンの映像に、舞台上の自分たちの動作を重ねるようにもなっていく。序盤の映像にはビデオレターにも似た微笑ましいやり取りもあったのに比べると、互いがどれくらい動けるかを確かめ、どう合わせられるかを試行錯誤する段階に移ったということか。とりわけ印象に残った場面がある――スクリーンでは、一人が大きな鏡の前で色々な動作を行っている。そして舞台上でも、一人がスクリーンに向き合って映像の(および、鏡の中の)動作を再現するのに合わせ、もう一人がその背後に立ち、さらに動作を真似てみせるのだ。映像の中での連係が、そのまま舞台上での連係にまで拡張されていく仕掛けが面白い。

次第にスクリーンの映像では、具体的な指示が出されて動作で応えるようになっていく。指示の内容も、「相手と身体を接触させている」という仮定を踏まえたものとなり、段々に複雑さと強度を増していく。例えば「互いに右足だけで立ち、相手の左膝を脇で抱える」とか、「手足だけで自分の身体を支えたまま、相手の身体を乗せて何歩か動く」といった、かなり無理のある体勢まで指示される。そして舞台上では、同じ指示に沿って、二人が実際に動いてみせるのだ。
何らかのデバイスを利用し、あらかじめ撮っておいた映像を現実の演技に嵌め込むという技法は、既に目新しいものではなくなっている。だがこの上演では、映像で流れる動作も「二人一組で動くこと」を前提にしている点が興味深い。
同じ指示が出ていても収録は別々に行っている以上、スクリーンの映像ではどうしてもタイミングがズレてくる。しかも、二人で一緒に行うはずの動作を一人だけで試みているわけで、当然ながら単なるパントマイムとはならず、本来あるべき動きとはかけ離れてきてしまう。片や舞台の動作は、二人で向き合っているからタイミングは難なく合わせられるし、実際に相手の体重を感じ、また互いの皮膚に触れながら動くとどのようなリアリティーが生じるのか、無意識的・感覚的に処理しているはずのことを観客にも可視化してくれている。言い換えれば、目にしたばかりの映像の何がどれだけ不自然だったか、スクリーンと舞台との間で「答え合わせ」が行われているようなものだ。
やがて指示が出なくなると、二人の動きも、手足を絡み合わせたり服を脱がせ合ったり、「じゃれ合い」に近くなってゆく。すると別のスタッフが現れ、舞台上をすっかり掃除してスクリーンも片付けてしまうが、なおも二人のじゃれ合いが続くうちに暗転が訪れ、上演は終わる。

この上演に出てきた二人の女性は、かつて一緒のグループに所属していたが、数年前から別々の道をたどり始めたという。その数年で、自覚しているか無自覚かを問わず、様々な変化が訪れたことだろう。それは新たな技術や考え方、あるいは体形や筋力かもしれない。何より、生身の肉体が放つ存在感や雰囲気の変化は、実際に会うまで分からない。上演後の質疑応答でも、電話でも電子メールでも時差の影響で相手の返信を待たねばならない間、アイデアは次々に湧いてくるため、事前の資料が予想以上に増えてしまったというエピソードが披露されていた。時間と距離の空白を埋めるためには、どれほどの待ち遠しさ、もどかしさを乗り越えねばならないことか!
だが一方で、映像の中で生じているズレや食い違いを実際の舞台上で噛み合わせるという構成は、距離というハンディキャップを逆手に取っているからこそ上手く機能したのに違いない。スクリーンと舞台の間の違いを観客に意識させることで、二人の間に横たわっていた空白も、また可視化されているのだ。それを互いに探り合いながら実感し、さらに乗り越えて、相手への信頼に満ちたパフォーマンスを紡いでいく――そのプロセス自体を見せるという所期の目的は、狙い通りに達成されていたと言えるだろう。最終盤で楽しそうにじゃれ合う二人の表情からは、空白を埋め、上演という形で改めて相手と繋がり合えた喜びが、実によく伝わってきていた。

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