劇評

F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
カテゴリ内の作品別、言語別での選択が可能なほか、各記事のタグを選択すると条件に応じた記事が表示されます。

選評


基本として、それぞれが提案する「コンセプト」が、どう表象されたか、どのように舞台表現となったか、いかに作品化されたか、その手続きに注目していた。質にばらつきはあっても、どの集団のコンセプトも、おしなべて注目すべき部分があり刺激的だ。実作者として興味深くそれを観ることができ、すべての集団に敬意を表したい。だからなおさら、それがどのように実現するのかを考えざるをえず、作品そのものに創作の過程が刻まれるのを見る。成功しているか、まだ、そこまで達していないか、集団としての創作力はどうだったか。あるいは、コンセプトだけが先行していないか。その見極めが審査の基準になる。というより、そもそも創作とは、あるいは「作品」とはそのようなものとして観客に届けられるものではないか。

 同時に、日本をはじめ、インドネシア、シンガポール、中国、台湾、韓国からの参加作品があることが、F/Tにおける公募プログラムの魅力だと感じるのは、傲慢ながら「審査」という視点から作品に接したとき、私がいまいる日本からの視点や文脈だけでは解けない表現の問題をより強く問うてくると感じるからだ。いや、「審査」とは無関係に、それは存在するにちがいない。きわめて重要な問いとしてある。
 そうしたなかでいくつかの作品が印象に残った。シアタースタジオ・インドネシアの『バラバラな生体のバイオナレーション!』、ダニエル・コック・ディスコダニーの『ゲイ・ロメオ』、新青年芸術劇団の『狂人日記』、The end of company ジエン社の『キメラガール アンセム/120日間将棋』、重力/Noteの『雲。家。』。
 印象的なのは、それを批評の言葉で語ろうとしてもうまく表現できない、ダニエル・コックの作品が内包する表象の質だ。前半はある種のドキュメンタリー演劇のように展開する。「ゲイ・ロメオ」というゲイサイトで自身が出会った人たちとの「恋愛」が作品のコンセプトになる。「恋愛」の過程を語り、相手からプレゼントされた、なんらかの〈モノ〉がクローズアップされる。言語化できない「恋愛」について、あるいは、「快楽」や「愉楽」について、〈モノ〉を通じ作品化する試みだ。後半、テクノやトランスと呼ばれるようなクラブミュージックが流れて踊るが、そこにはゲイカルチャーが育んできた、ゲイが社会的に抑圧された歴史のなかで、踊ることによって、自らを解放した過程をどのように表現するかという身体性が躍動する。しかも、深刻にならず、快楽は快楽として、愉楽は愉楽として。踊ることでそれを形象する。それが強いメッセージになっていたのだろう。だから表現に強靱さを感じる。
 シアタースタジオ・インドネシアの『バラバラな生体のバイオナレーション!』は、一見すれば、伝統的な、あるいは宗教的な儀式性をはらむ表現のような印象だ。だが、なにかが異なる。どこかいびつな作品の形体を感じる。いまここで、この時代に、池袋という都市のど真ん中で、大量の竹を使い、それを紐で結い上げることで組み、高い搭を構築し、立ち上げることのスペクタル性や宗教性、伝統性が、背景となる〈都市〉との奇妙なバランス、ひどくいびつなバランスのなか、絶妙な光景となって観る者の前に姿を現す。搭の向こうに見えるのは通俗的なカラオケ屋の看板やサラ金の広告だ。そして、立ち上げ完成させた搭を最後に倒壊させることで、一連の行為をすべてゼロに戻すとき、強い印象を観る者に与える。
 これは都市への挑発だ。
 だが、伝統的なものと都市性という単純な二元論ではない。竹によって組まれた搭によって表現されているのもまた〈現在〉だ。それを強く感じた。竹というアジア的な自然素材を熟知した者らが、それを使うことで、〈現在〉を強く形態化する。なぜなら、竹を組む技法は伝統性や宗教性とは無縁に、〈アーキテクチャ〉を解体するイロニカルなテクノロジーとなってきわめて都市的だからだ。テクノロジーが、竹という素材を獲得することで逆に都市を挑発する。
 さらに、搭をも倒壊させることで構築も否定する。そうした一連の過程に感銘を受けた。
 中国から参加した、新青年芸術劇団の『狂人日記』も印象に残る作品だ。集団的な創作力はただごとならない。ただ、身体性を考えたとき、私にはここにある〈身体〉に魅力を感じなかった。それは、中国という国家のなかで、表現における抵抗を演劇によって試みるとき、中国の文脈においてこの強い〈身体〉が、いわば〈国家〉を逆に表象しているとはいえ、もっと異なる〈抵抗する身体〉こそ対置すべきではないかと考えるからだ。新青年芸術劇団の〈抵抗する身体〉に新鮮さを私は感じられなかった。だが一方で、舞台上に中国から運んだという瓦礫を並べ、その瓦礫の上で魯迅の『狂人日記』を原作にした作品を形象する試みは、私が、日本においてあの「3・11」を体験したことによって異なる意味を見い出さざるを得ない演出となるのを感じる。正直、瓦礫の上を動き、移動し、走る行為には、痛みを強く感じるが、その「痛み」と「痛みを感じる身体」は、「抵抗する身体」とはべつのものだ。あとになって知ったが、本作品の創作にあたって彼らは、日本の「3・11」をリサーチしたことで、瓦礫を舞台装置にする演出を選択したという。その企図は十分伝わっていた。その意味では素晴らしい作品だった。
 さて、日本の作品に触れるにあたって、ごく単純な困難がまずある。中国と韓国から招かれた審査員がいたこともあり、日本から作品を提出するのだとしたら、言語をどう伝えるかは、あたりまえのようだが、作品とコンセプトを理解してもらうために、字幕でそれを実現するのは欠かせない条件になるが、そのことを配慮した日本の作品が少なかった。
 The end of company ジエン社の『キメラガールアンセム/120日間将棋』を、作品として私は推したが、それというのも、きわめて緻密に構築された戯曲だったからだ。だが、そのことが、外国人の審査員にはまったく伝わらなかった。字幕の問題だ。言葉を伝えることができなかった。もちろん、難点はそれだけではない。同時進行で対話が進むという手法は、二十年以上前、平田オリザが発明したとき少なからず衝撃があったし、戯曲においても、数段に書き分けられたテクストの形式も珍しかった。けれど、いまではあたりまえのことになっている。そこからどう逃れ、独創性を出すかが、ここでは審査の対象になったのではないか。つまり、凡庸な印象を与える危惧だ。
 けれど、ある世代、というのは、「平田オリザ以後」に少なからず影響を受けた創作者たちが、それでも自分たちの独創性を発見した作品を生み出しているのは、たとえば、チェルフィッチュの岡田利規や、マームとジプシーの藤田貴大らの作品を参照すればよくわかる。平田オリザに欠けている部分を巧みにすり抜けるように自分たちの表現を紡いだ。平田オリザが自ら語っていたのをかつて私は個人的に聞いたが、「音楽がわからない」という言葉に代表される、平田の「音楽性」の欠落のその間隙をついた表現だ。様々な意味において、岡田利規や藤田貴大らの表現は「音楽性」に裏付けられている。それが、「平田オリザ以後」の、新しい表現の手がかりとなったと考えることができる。
 ジエン社の作者本介(この名前はすぐにでも変えたほうがいいと思うが)の演出にも少なからずそれはあり、せりふがリズムを刻むように、あるいは、意味内容より、「音」として発せられるときの心地よさは、この国の演劇の文脈において、あるいは、「身体」のありようにおける文脈において、意味のあることだと私には感じた。
 当然だが、中国の新青年芸術劇団と、ヒッピー部を比較するのは困難な作業だ。韓国から招かれたソ・ヒョンソク審査員が、ヒッピー部に触れ、「大きな身振り」と「小さな身振り」と語った言葉はとても示唆的だった。「小さな身振り」によって伝えられることがある。つい、「大きな身振り」として、シアタースタジオ・インドネシアの『バラバラな生体のバイオナレーション!』のスペクタル性を、私は強く推したが、「小さな身振り」も忘れていたわけではない。だが、「小さな身振り」によって作品を表象し、それが表現として圧倒的な力を持つためには、コンセプトを、いかに表現の強度として昇華することが可能かという課題がある。それはできていたか。コンセプトは正しく作品化されたか。そのための身体はあったか。公募作品十一作を観ることによって、またべつの刺激を与えられたことはまちがいない。演劇についてあらためて考えることができた。繰り返すが、それぞれの参加作品に感謝し、敬意を表したい。

カテゴリ