劇評

F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
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F/T13公募プログラム選評


  公募プログラムの講評を始めるにあたって、まずは、前年度の受賞作シアタースタジオ・インドネシア『バラバラな生体のバイオナレーション!~エマージェンシー』の演出家ナンダン・アラデア氏が新作を持って来日公演を予定していたそのひと月前に急死してしまったという思いもかけなかった事態にたいしてお悔やみ申し上げたいと思う。

  彼の演出ノートに書かれていたものとF/T13の池袋で上演されたものの内容とは必ずしも同じものではなく、おそらく、今回池袋で上演されたものは制作過程の途上にあるものであり、ナンダン・アラデア氏が最終的に目論んでいたものとは違うものが未完のまま上演されたと想像され、本人はさぞ悔しい思いをしていたであろうと思われる。つまり、無数の竹によって構成されたきわめて巨大な魅力的でアルカイックな空間での呪術的な行動、それこそが今回の上演の中心であったのだが、それがメディアテクノロジ―の跳梁と緊張した波乱万丈な関係を取り結ぶというのが演出ノートに書かれていたことであり、実際の上演ではそれが欠落したということが、前年の作品の上演と異なるところであったと私は直感したのである。未来主義は始原主義を呼び起こす、あるいは、その逆がナンダン・アラデアの演劇のコンセプトであったわけだが、そのうちのひとつしか提示できないとき、それはナンダン・アラデアの意図の一部分を、人に誤解される形で提示することしかできないことになる。そのことは私にはとても残念なことであった。しかし、演劇集団シアタースタジオ・インドネシアがこれからも活動を続けていくことを願って、この集団の今後の活動を期待したいと思う。

  さて、今年度の公募プログラムであるが、積極的に受賞作に押したいと思う作品に私は出会わなかった。それゆえはじめ「受賞作なし」を提案しようかとも考えた。しかし、公募プログラムというのは、若手養成のための、若い人たちの意欲を掻き立て新たな演劇の台頭を促すために作られているものであるので、さらにまた、賞というのは相対的評価であるので(これはオリンピックで金メダルなしという競技がありえないのと同じである)、受賞作なしというのは賞の本来の意味を覆すものになる。それは理屈に合わないと考え直し、私がどうしてもこれには賞を授与するべきではないと考えるもの以外に関しては多数決の結果を尊重するという態度で選考会に臨んだ。

  私は今回の応募作品を見ながら、孤絶感のようなものを強く感じた。私には見知らぬ世界があるということを痛切に思ったということである。これは悦ばしいことなのか、悲しいことなのかはわからない。しかし、私とは無縁の世界があり、そこからなにか見知らぬものがやってきているという意味では、この孤絶感をもたらしたさまざまな演劇作品は、私にとって至福の始まりなのかもしれないとも私には思えた。
衝撃は最初の日に訪れた。公募プログラムの最初の演目として、私はゴーヤル・スジャータの『ダンシング・ガール』を見た。パンフレットには「インド伝統舞踊と現代のはざまで。葛藤から見出された美」と書かれていた。ゴーヤル・スジャータはアメリカ生まれのインド人で、インドの古典舞踊バラタナティアムを学んだあとで、欧米でコンテンポラリー・ダンスを勉強し、古典舞踊を脱構築するような作品を作ろうとしているという。

  古典舞踊のさまざまな所作が、たとえば右手だけとか、左足のどこかとかが照明に照らし出されて断片的に暗闇のなかで浮かび上がり、それらが断片のまま提示されることによって、その動き、身振りは完全に分断され、有機的な流れを一切剥奪するようなかたちで人間の身体を非人間化、あるいは機械化するような目論見がここではなされているようにみえた。暗闇の中で部分的に照明を当てられる彼女の身体、身振りの断片化と機械化のプロセスをその闇の中で垣間見ながら、私はゴードン・クレーグの「超マリオネット」の理論を思い出した。
インドのガンジス川の近くのある寺院には、聖なる操り人形が祭られていて、そこに踏み迷いこんだある女性たちが、その操り人形の完璧な生命に嫉妬し、その動き、衣装をまねて、俗悪な庶民たちの前で踊り出したというのである。やがて、その寺院をまねて建物を作ったとき、近代劇場の基礎が築かれたと、ポーランドの演出家タデウシュ・カントールは、クレーグに依拠しつつ書いている。ところで、この女性たちの模倣はまがい物以外ではありえず、したがって、クレーグはこうした俳優たちは消え去るべきだと言ったわけだが、クレーグのこのような主張に対する抵抗をどのように進めるべきかが生身の俳優やダンサーたちの使命だと考えている私にとって、ゴーヤル・スジャータの試みは大変興味深いものなのである。たとえば、どのようにしたら聖なる操り人形の完璧な生命を手に入れることができるのか、これは身体表現を職業とする者が絶えず考えなければならないものであり、さらにいえば、なぜそのような試みが必要とされるかをも含めてそれは考察され、希求されなければならないのである。

  つまり、身体表現を志す者たちには、完璧な生命を生み出す物質性とは何か、そのメカニズムとは何かが問われているのである。その入り口をゴーヤル・スジャータはわれわれに提示することができたと私は思う。しかし、『ダンシング・ガール』においては、残念なことに、彼女の身体とその動きは、人形の身体の物質性へと極まっていくのではなく、やがて、明るくなっていく空間のなかでの彼女自身の生身の身体を迫りft13-award_li_jp出すような踊りへと移っていくように、有機的な動きへと解放されてしまうのである。

  それはどこにでもある日常的な意味での生命のダンスであり、始まりにおいて可能性としてあった断片化され、物質化された身体のダンス、あるいは死のダンスとは逆のものであった。もっと言えば、これは普通のダンスでしかなく、なぜ、これまでこのような形で身体を断片化し、それをときとして機械的な部品へと還元しようとしていたのか、そのことの理念が放棄されてしまったのである。超マリオネットを実現しようとしたクレーグの理念に関われたかもしれないのに、そうした期待がすべて裏切られていくようであり、この作品の終局に向かう中で、私は大いなる失望を感じざるを得なかった。そのような意味で、私は『ダンシング・ガール』を受賞作に押すことは出来なかったのである。
ほかの作品に関しても、ある場合は同じような理由によって、また別の場合は別の理由によって、今回の公募プログラムにおいて、私は受賞作に強く押せる作品に出会うことが出来なかった。

  このようにしてなぜ私がひとつも作品を受賞作に押さなかったのかが問題になるのかと思うが、そのような意味で言うと、sons wo:の『野良猫の首輪』(作・演出:カゲヤマ気象台)を取り上げないわけにはいかないだろう。実は私はこの作品にもっとも共感を持って接した。にもかかわらず、この作品を押さなかった理由について語ろうと思う。この作品の身体性は私にとっては実に不思議なものであった。虚脱と言うか、空虚と言うか、それはメディア社会、あるいはネット社会における身体性の希薄化がついにここまできたのかということを思わせるという意味で私は興味を持ったのであるが、さらに興味深かったのは、そうした身体性を生きている若者たちが、生活空間のなかを浮遊しはじめるということによってこの舞台の物語が成立しているということであった。その浮遊のプロセスがどのようになっていくのかは興味のあるところだが、それがたとえば職場からコンビニへという、いってみれば常識的な移動から、このような感覚で生きているものが、何の根拠もなく、一気に、地球外に行っていたということを知らされるということ(もちろん、このようなことは現時点では科学技術的には不可能である)、この荒唐無稽さがこの舞台の魅力であるように私には思えた。そのことによって、コンビニ的日常のなかで浮遊していた人間が地球外生物に出会い、にもかかわらず、地球外生物と日本語で語りながらその差異を確認しあうというまったく論理的でない展開をしながらも、その異星人との接触によって、生き延びるためには何を考えなければならないのかといったことも思索している意味でこの舞台は大変魅力的であった。浮遊したような虚脱した身体的身振りも、現実から離脱した人々、いや身体的に放逐された人々の身振りを思わせている点で、派遣社会時代の身体をコンビニ文化のなかでよく表現していると私には思えた。しかし、そのような物語の背景にある演出家、ないし劇作家、あるいはこの集団の思想とは何かというものもそこでは問われるのである。

   それは演劇がどのように自分たちが生きている社会に対して責任を取るかという問題でもある。そのことに答えないような演劇は古代ギリシア演劇以来、少なくとも西欧の演劇史においては、演劇とは言われていないのである。日本は西洋ではないのだからそんなことどうでもいいのではないかという人がいるかもしれないが、そのような人は、どうでも良くないと言っている私と論争し、そして、私を公募プログラムの審査員から外すという活動を始めればいいと私は思っているのである。まあ、その前に、私は自分から辞めるかもしれないが。
ちょっと、脱線したけれども、ここまで書いてきて、なぜ私が『野良猫の首輪』を強く押さなかったのかが理解できないという人がいるかもしれない。そういう人たちにも私は批評家として答えなければならないと思う。それで、『野良猫の首輪』が受賞作になってもいいと思ってはいたけれども、なぜ強く押さなかったのかについてここで書いておきたい。
それは野良猫の放浪の結末にある。宇宙への離脱が単なる夢物語であったかのように、夢遊病者のように、気づいたら地球の外にいたと思った人間が、その夢物語を辿った後で、この劇の終局、ああやっぱり地球は昔のままなんなだと安堵の気持ちを表しながら、もともといた地上で、その感覚をしかもはじめにいたその同じ場所に戻ってきて言うという設定になっていたからである。これほどなし崩し的な現実容認のありかたはない。現実を批評的に分析し、そのような批判意識の中であらたなヴィジョンを構想すること、その場所として劇場があるのであり、そのことにおいて批評性が屹立してくることが期待されているときに、このような作品を作っている意味は何なのかということが問われなければならないと私は思っているのである。

  このように書きながら、私が参照例として、いま具体的に思っているのは野田秀樹の『パイパー』のことである。これは731部隊を問題化した『エッグ』と同じように、現実の社会にはきわめて多くの問題があり、その問題に思い切って立ち向かわないのは問題であるという意識のもとに作られている舞台なのである。『エッグ』について今語ることは出来ないが、地球から脱出しながらも火星での人間の悲劇を語った『パイパー』の登場人物たちは、ああこれは夢だったのだなどとは言うことなくそこに放置されるのである。そのような事態こそわれわれが置かれている状況なのだと認識している野田秀樹とそれとは違った形で演劇を作っている人間とは違うのだと私は考えているのである。そして、ゴードン・クレーグに倣って、このような劇は消え去るべきだと私は言いたいのである。つまり、脱出や、離脱が現実の行為として敢行されないのならば、あるいはそのような行動への戦略がヴィジョンとして提示されないならば、演劇など意味はないと私は思っているのである。

  とはいえ、いずれにしても、賞というのは、最終的には、議論を踏まえたうえでの審査員による多数決で決まる。この規則を覆すと審査員の意見によって決定する賞は成り立たない。その意味で、今回は、5名中3人が、最初から最後まで圧倒的な熱意でもって押した薪伝実験劇団の『地雷戦 2.0』(作・演出:ワン・チョン)が受賞したわけである。この作品の重要性については、評価者たちがさまざまなことを語るであろう。ただ、私としては、あまり問題にされなかった別の作品に触れて、公募プログラムに関する私の講評を終えたいと思う。

  それは、シンガポールの演出家タン・タラの『クラウド』である。私はこの作品に関しては一点でだけ共振し、それだけでこの作品に興味を持った。それは記憶の移植に関するシーンである。臓器移植というものはあるが、私の知っている現代の科学技術においては記憶の移植というのはありえない。もしかしたら可能なのかもしれないが、いまのところそれは少なくとも流布はしていない。しかし、これはメタファーかもしれない。つまり、われわれが想像もできないようなかたちで、新しい科学技術の成果がわれわれの知らないところでわれわれの生活の中に入り込んでいる可能性はあるのである。そのことによって恐るべき惨事が起こる可能性がある。記憶の移植というこの作品で扱われているテーマはそうした事態を実体化するような舞台の出現を意味しているし、そのような意味で、演劇がまさに取り組むべきというか、提示するべきものを現実化していると私には思われた。それがわれわれが生きている世界で具体的にはどのように展開しているのか。こうした問題性をわれわれに提示している具体的な事実が、われわれが生きている今日の世界のなかにさまざまに存在しているに違いないのだ。そこから起こる惨劇が、たとえば福島第一原発の事故などなのであろう。演劇とは、こうした関係を想起させつつ、具体的な事実と向き合う場所なのではないかと考えている私は、そうしたことすらもすでに忘れ去られていると言わざるをえない状況にたいする警告を孕んでいるという意味で、記憶の移植を取り上げたことは大きな意味があると思う。そして、ここで重要なのは、これから記憶移植の手術に取り掛かりますがそのことをあなたは同意しますかと聞くシーンを入れているということである。これは目下のところ、終末医療の現場で重大な議論を喚起しているところであることはよく知られている。あなたは安楽死を望みますか。望むならば、この書類にサインしてください。そして、この書類にサインしたときには、医師の判断で安楽死をさせることが出来ますよ、というような法案が現実に日本においては作成され、それが議会でも議論されている。シンガポールでそれに関してどのような議論がなされているのか私は不明にして知らないが、演劇というのは直接的な、あるいはこのように間接的な形でわれわれが考えなければならないことを模擬実験のようなかたちで遂行するものでもある。その意味で、タン・タラの『クラウド』は興味深い作品であったのだけれども、私はこうした問題とその他の問題の関係がどうなっているのか、この作品におけるその文脈が読めなかったのでこれもまた強く押すことができなかった。

  前年、前前年度は、私はある作品を幾つか強く押した(その理由についてはそのときの選評のなかでかなり詳しく書いている)。その意味で、今回、何一つ強く押せなかったということで私は大いに反省しているのだが、ここでひとつの提案をしてみたいと思う。
私は演劇批評をする人間のタイプに少なくともふたつのタイプがあり、そのふたつとも重要であるとある時期から考えるようになった。ひとつは同伴する批評家であり、もうひとつは同伴しない批評家である。たとえば、同世代で、同じような社会的な環境で育ち、ある意味、経験を共有している人が、片方は芸術作品の創造者になり、もう一人は芸術作品の批評家になったとしよう。その場合、ふたりはお互いを意識しながらも、ある種の競合関係を形成しながら、芸術活動に関わる仕事をしていくであろう。これが同伴する批評家である。しかし、そのふたりが敵対的になる可能性もある。そのことにも私は意味があると思っているが、それは同伴しない批評家である。そして、まったく世代が違った場合どうなるのか、それについても、同伴する批評家と同伴しない批評家が出てくるかもしれない。若い人たちの考えていることはわからない、そのように言うことも可能である。とはいえ、そのようなことはないという批評家もいる。わかったような振りをすればいいのかというのかとも問われるかもしれない。このような錯綜した批評家と芸術家との関係があるならば、批評も作品制作も活性化するに違いないのである。私はいまこのことを書くにあたって、ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンの著作『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』を念頭に置いている。芸術活動に関わろうとする人はぜひともこの本を読んで欲しいと思う。

 私はいまじつは今後の公募プログラムの審査員の構成に関して提案しているのである。つまり、同伴する批評家と同伴しない批評家の共存在によって審査対象に関する議論を深めることによって、受賞者を決めていくようなそうした審査会をどのようにしたら組織できるのか、そのことを考えることによって、審査そのものが、審査される人たちにとって有意義な空間になるのではないかと私は思うようになっているということなのだ。

 ほかにも語るべきことはたくさんあるかもしれないが、この提案をもって今回の講評は終わらせていただきたいと思う。

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