劇評

F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
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時間の外へ――シアタースタジオ・インドネシア『バラバラな生体のバイオナレーション! ~エマージェンシー』


 アジアの舞台芸術において言葉の壁は大きな問題だが、それを乗り越える表現手段としてフィジカルシアターが独特の発達を遂げて来たことは日本でも比較的知られている。「日本国際パフォーマンス・アート・フェスティバル(NIPAF)」やストアハウスの「フィジカルシアターフェスティバル」などが精力的に紹介してきたからに他ならないが、今回のF/Tにおけるシアタースタジオ・インドネシア『バラバラな生体のバイオナレーション!~エマージェンシー』の上演は、そうしたいわゆるアングラ的な文脈ではなく池袋駅前の広場という文字通り「地上」で行われ、しかも場の特性上、通りすがりの人々の目にもふれる入場無料の公演になった点、そしてそのスケールの大きさによって、異色の出来事だったといえる。

 会場には、竹でできた装置や照明機材などが若干ある以外は、落ち葉が敷き詰められているだけである。開演時間になるとそこへ奇妙な竹細工のヘルメットを被ったパフォーマーたちが民謡を唱えながら入場してくる。松明が灯され、彼ら彼女らの手で落ち葉が払いのけられると、その下からかなりの長さの竹材が大量に現れ、組み立て作業が始まる。
 紐で竹を縛り、楔を打ち込んで固定する。やがて三角形の枠がいくつもでき、中心軸のようなものに縛り付けられて、最終的には巨大なパラボラアンテナのようなオブジェが出来上がる。いかにも土俗的なイメージを漂わせた作業の中から唐突にSF的ともいえるモティーフが現れて来る。
 こうした一連の過程は必ずしも直線的に進行するわけではない。何らかの中心的な役割を担う男性のパフォーマーが一人おり(仮に「X」とする)、残りの全員が三角形の枠でもって彼を取り囲み、攻め立てるかに見える場面があったり、かと思うと組み上がった構造物にXがよじ登ることで何らかの手続き上の承認が与えられたかのように、次の事態が進行して行きもする。またある場面ではどういうわけかパフォーマーたちが一ヶ所に集まって朗誦を始め、Xをまるで供物のように竹竿に吊るして運ぶ。時に応じてXは「生贄」のような存在となり、正反対に「指導者」的な立場に立つこともある。一切は冗談なのか真剣なのかさえ判然としない。
 こうして、パフォーマーたちの作業とその目的はその都度はっきりしているにも関わらず、全体の進行は異様に屈折しており、この作業が一体どこへ向かっているのか、そして今どの段階にあるのかなどは常に捉えどころがなく曖昧なのである。パフォーマーたちのテンションも、切迫しているように見えながらしばしば不可解に停滞してもいて、決して安定しない。両義的な立場のトリックスターを中心に行為の意味が刻々と変転する構成は、確かに典型的な「祝祭」のそれだといえるかも知れない。行為のタスク的単純さ、そしてナラティヴにおける首尾一貫性の欠如、これらが出来事の意味の特定を難しくしているのである。
 巨大なパラボラアンテナに似た構造物が完成し、Xがこれによじ登って先端部分に到達すると、構造物は音を立てて前方に転倒する。照明効果も相まって壮大なスペクタクルなのだが、竹製であるためにチープさも失われはしない。転倒したアンテナに向けて、Xとパフォーマーたちが一斉に走り込み、しかし直ちにその疾走を停止した所で作品は終わる。
 演出家のナンダン・アラデアは、ジャワ島西端に位置するバンテン州の州都スランに拠点を置いているが、かつてはモスクワに5年間留学して、帰国後もメイエルホリドなどの構成主義、あるいはグロトフスキの理論をふまえた創作を行っている(プロデューサーのセノ・ジョコ・スヨノと出会ったのもロシアだという)。そうした彼の社会主義的な関心は、地域の伝統的な共同体やその文化をいかに継承していくかという問題、ひいては自然環境と近代化との関わりというテーマとも切り離すことができない。
 竹を使ったパフォーマンスは一見いかにもプリミティヴに見えるが、しかし都市に暮らす彼ら彼女らはもともと竹の使いこなし方などには全く不慣れであって、近隣の山中で文明を徹底拒否して暮らすバドゥイ族(註)の人々のもとに通って身に付けたという。つまりこの見た目のプリミティヴさは実は伝統文化への再帰的なアプローチの所産であり、いかにも近未来的な構造物のデザインとのそのあからさまで、ほとんどコミカルですらある齟齬こそ、単線的なモダニズムの時間軸あるいは発展史観へのアンチテーゼになっているのだ。
 時間の単線性を破綻させることが作品の重要なテーマであることは、上演自体が示していた通りである。パフォーマーたちの作業は誰でも逐一目で追えるほど単純にして明瞭だが、にも関わらず出来事としての全体的な意味は絶えず後ずさりするように遠ざかる。時間の流れが何度も何度も脱臼させられることで、観客は意味の外の空虚に曝され続けるのである。
 『バラバラな生体のバイオナレーション!~エマージェンシー』の祝祭性の本質は、この紛れもない超‐時間性にあるだろう。それを、あえて「ポスト・モダニズム」と言い換えてみてもいいかもしれない。ポスト・モダニズムは、少なくともシアタースタジオ・インドネシアにおいては、単なる能天気なコラージュの技法などではなく、力強い政治的プロジェクトとして構想され得るのだ。


註:電気を使わないどころか文字や貨幣すら使わないというバドゥイ族は、16世紀にイスラム教への改宗を拒否して山岳地帯に入った少数民族。例えばリー・クーンチョイ『インドネシアの民俗』(サイマル出版会、1976年)の第7章が詳しい。

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