劇評

F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
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写真をめぐる4つの断章(『あたまのうしろ』評) 


 「写真と身体行為の関係性を探求する」カンパニーであるヒッピー部の『あたまのうしろ』を観た後私が思い出したのは、ロラン・バルトの写真論『明るい部屋』、また多木浩二がバルトの写真論に触発されて書いたいくつかの論考だった。いずれも、根底にあるのは「(自分にとって/世界にとって)写真とは何か」という切実な問いである。ヒッピー部主宰の三野新、バルト、多木、三人に敬意を表してこの論考では私も写真、或いは写真と「何か」について考えることとしたい。

1.明るい部屋
 実際、この演目は登場する男性によってバルトのテクストが朗読されるように、『明るい部屋』からの影響を隠さない。劇の途中から露わになる母への思慕は『明るい部屋』へのオマージュとも取れる(※1)し、他にも『明るい部屋』を思い出させるところは幾つかある。劇中でのシャッター音の禍々しさ、何か決定的なことが起こってしまった感じは、例えばこんな一文に対応しているようでもある。「(前略)死はほかの場所に存在するのでなければならない。その場所というのが、おそらく、生を保存しようとして「死」を生み出す写真映像のなかなのである。もろもろの儀式の衰退と軸を一にして出現した「写真」は、おそらく、宗教を離れ儀式を離れた非象徴的な「死」が、われわれの現代社会に侵入してきたことに呼応するものであろう。(中略)「生」/「死」の範列的対立は、単なる歯止め装置にすぎなくなる。つまり、写真撮影の最初のポーズと最後の印画紙とを隔てる、シャッターのそれにすぎなくなるのだ。」(※2)儀式の代替としての撮影行為。「生」と「死」のあわいにあるシャッター音。
 ただ『明るい部屋』は様々な写真に対する考察を経ながらも、亡き母の一枚の写真に行き着き、最終的に「時間」の原義そのものを甦らせ、狂気としての「写真」を発見する。(※3)この劇が様々な仕掛けを凝らした写真に関するパフォーマンスであることは疑いがないのだが、そのような発見や結論がないのが不満ではある。

2.「写真を撮る」こと――あたまのうしろ
 この劇は写真家である三野の実感によって組み立てられたものである。バルトや多木との明らかな違いは、三野は「写真を見る」ことではなく「写真を撮る」ことから「写真とは何か」という問いを発している。三野はこう解説する。「『あたまのうしろ』とは、そんな写真家がどう頑張っても撮影できない不可視のものごとの総体について名指した一般的ななにか。もしくは、常に自分でないものによって写真を撮らされていると感じることに起因する、極めて個人的な命名。」(※4)撮影者にとって勿論自分の頭の後ろは撮影できないわけだが、その事実プラス、比喩としての「あたまのうしろ」が様々なパフォーマンスによって「体感」はできる。紗幕の向こうに微かに横切る人影。それは「写真を撮ったあと、子どもの頃に恐れた何かが横切った気がする」(※4)という三野の実感そのものだ。決して撮影できないはずの撮影者の後ろの風景が人為的に入り込んだ写真。それは三野が恐れた「あたまのうしろ」そのものだ。観客はゾッとし、見入るしかない。ただ観客も「自分が自分でないものによって写真を撮らされている」と感じるだろうか?
 誰しも「写真を撮る」ことに一度は魅入られたことはあるのかもしれない。(※5)しかしそれは多くの人にとって一度限りのことで、あとは「撮る」「撮られる」「写真を見る」ことは日常の一コマになり、特に意識もしなくなっていくのではないか。その無意識を覚醒させる効果があったのなら、素晴らしいパフォーマンスであったと言えるのだろうが、どうもそこまでの効果があったとも思えない。それは、形態として演劇を選んだことに起因しているようにも思われる。

3.写真と時間
 「時間」というものに関してできることは、演劇の場合はかなり限られている。演劇を構成する基本単位はシーンであり、その最中に経過する時間は、そのシーンを演じるのにかかる時間の長さとほぼ一致する。よくも悪くも現在性、現前性が非常に高いメディアなのだ。そして一方、「写真」とは常に「時間」が問題となってきたメディアではなかっただろうか。(※6)
 写真家の志賀理江子は宮城県に移住し、遺影を撮影する経験、3.11の津波、その後の写真洗浄の作業の経験を語ったあと以下のような疑問を持ったという。(※7)「写真には、過去・現在・未来が存在しない空間があるのではないか? 写真は「時間」という概念そのものに挑戦状を叩きつけるものではないか?」バルトが『明るい部屋』の中で呪文のように何度も繰り返す写真のノエマの名は以下だ。≪それは=かつて=あった≫。多木浩二は、それがバルト流の詐術であることを指摘しつつ(※8)も、その前提がなければこれほど魅惑的で切実な写真論にならなかっただろうと結んでいる。
 『あたまのうしろ』は演劇というより、むしろパフォーマンスに近いものだし、実際の写真がいくつも登場する。何か、その写真の根底にある「時間」の問題に関わることで、もっと観客にとって刺激的で、切実で、リアルなものができたのではないだろうか。

4.写真とまなざし
 劇中で撮られる対象が常に女性であり、主体というよりは客体の立場に置かれることも居心地の悪さを感じた。彼女のうなじの映像をずっと見続ける観客に一体何を感じさせたかったのだろうかという疑問も持った。これも、多木の以下のような一文を考えれば別のアプローチができたのではないかという気がする。多木はバルトの初期の写真論「イメージのレトリック」についてこう語る。「写真がいかに飼いならされたイメージであるかを語りつつ、バルトが直観していたのはこうしたまなざし、どんな暗がりももたない透明で明るく、しかも決して人間に再帰することのないまなざしの、暴力的な可能性ではなかったろうか。写真は、ある意味では人間中心の世界に対するきわめて初期の警告ではなかったか。」(※9)今のような表現方法だと、「(写真に)撮る暴力」「観る暴力」というきわめて人間中心的かつフェミニズム的な問題意識に回収されかねない。ここで多木が言っているのはもちろん「写真」がもつまなざしのことで、写真には多視点化した「視線」が生じることを言っているのである。「写真には、撮るときは気づかなかったもの、ひょっとすると他人が気づいていたかもしれないものが写りこんでいるのである。」(※10)
 意識的に撮ることなく、見るだけの観客にもリアルかつ刺激的で、こちらから見るだけでなく、写真のもつまなざしが感じられるようなもの...欲張って注文をつけすぎのような気もする。しかし「三野にとっての写真」は分かったので、今度は三野の考える「世界にとっての写真」が見たいといったところである。「写真と身体行為の関係性を探求する」唯一無二のカンパニーとして、期待に応えてもらえるのではないかと期待している。



※1)何故なら、母への思慕は劇のテクスト上あまり必然性が感じられない。
※2)『明るい部屋』(ロラン・バルト、花輪光翻訳、みすず書房刊)P115L2
※3)「(前略)「写真」は現実(≪それはかつてあった≫)と真実(≪これだ!≫)との稀有な融合を達成し、事実確認的であると同時に間投詞的なものとなり、感情(愛、憐憫、喪の悲しみ、衝動、欲望)によって存在が保証されるあの狂気の境に肖像を運び去る。そのようなとき、「写真」は、実際に狂気に近づき、≪狂気の真実≫に到達するのだ。」(同上P138L15)
※4) フライヤーより。
※5)筆者も、小学生の時か中学生の時か記憶は定かではないが、朝焼けを撮影しに早朝一人で起き出し、自転車で田園を走り回り撮影した白みかける空のグラデーション、白い月、光を受け始めた田園など一連の写真とその時の自分の高揚感を今でもはっきりと覚えている。
※6) 映画やドラマの中での古い一枚の写真の使われ方にはいつも心を揺さぶられる。それは単に薄紙一枚であるのに、一瞬にして過去の愛を、今はなき幸福な時間を、悲しい因縁を亡霊のように甦らせ、ドラマのクライマックスを十二分に担う。それに較べて演劇での写真はいかにも分が悪い。そもそも観客には見えない...ビデオカメラで拡大してもたいていの場合興ざめである。写真のサイズではなくなってしまうこと、写真の物質性が失われることが原因だろうか。
※7) 「生きている人の遺影を撮る経験はすさまじく強烈でした。彼女のまなざしは『写真』という空間に向かっていて『私はイメージになる。私はイメージだ』という意思をもっていました。遺影はどこかをずっと見ている。遺影のまなざしの先に何があるのか?」「泥だらけでほとんど何も写っていない一枚の写真でさえ、重装備の作業員や自衛隊の人が『ありました』と息を切らせて手渡しにくる。(中略)そんなふうに、写真には『拾わせてしまう力』があって、現実世界に抗う力がこんなにもあるかのと思い知ったんです」「集会所には、娘さんを亡くされて写真を探しに来るお母さんもいました。でもその人は『写真』を探しているんじゃなくて『娘さん』を探しているんです。(中略)その時、写真じゃない次元にまで『写真の価値が振り切れている』と感じたんです」雑誌「ビッグイシュー日本版」203号P14~15
※8)「バルトは、写真のメカニック(機構)から、写真以前にとにかく外の世界があって、それがイメージになることを殆ど問題なく受けいれているのである。だから、決定的なキイワード(中略) ≪それは=かつて=あった≫が成立つのである。私はこのように写真を事後の記録として定義することを否定しないが、同時にこれまでに写真が氾濫した社会では、もうひとつの定義が可能なのである。言語が人間社会の基盤にあるのと同様に、いまや写真が社会的事象の下層を織っている。」(現代詩手帖 1985年12月増刊号 ロラン・バルト 論考『パトス/現実(レエル)/想像的(イマジネール)なもの』内P81)
※9)『眼の隠喩』(多木浩二、青土社刊)内、論考『視線の破砕』P142L9
※10)同上P141L15

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