劇評

F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
カテゴリ内の作品別、言語別での選択が可能なほか、各記事のタグを選択すると条件に応じた記事が表示されます。

何故いま、此処で『雲。家。』なのか


 男/女、強者/弱者、被害者/加害者、単純な二項対立に収まらない物語を紡ぐ力を、言葉を、エルフリーデ・イェリネクは持っている。例えば3.11のような甚大な悲劇が起きたあと、被害者に肩入れし、二元論の世界を構築し、東電なら東電、政府なら政府と敵をはっきり決めた勧善懲悪の物語を語ることの方が作り手は倫理的にしやすいだろう。ただ何故か受け手は嘘くさく、寒々しく感じてしまうのだ。例えば3.11が引き起こした原発問題を考えてみれば、誰が被害者で誰が加害者かなどという線分けはもう意味をなさない。福島市民は首都圏に送電する図式の中で犠牲になったとも言えるのだ。その図式の加害者の中には、全く加害の意志のない人々の方がほとんどだろう。

 イェリネクが3.11後、原発事故にインスパイアされた戯曲『光のない。』を書いたのは、彼女こそがそんな状況下でも失語症に陥らず(むしろ様々な普段語らない者たちの言葉の洪水、その重層性によって)、二元論に陥らない物語を紡げることを象徴していたかのようだった。それが長谷川寧演出のドラマリーディングとして2011年の12月に上演された(※1)が、ラップ調に叫ばれる、原発事故を想像させる言葉は、全て理解できなくても、その言葉の多層性に自分自身の様々な部分(自分の中にも男/女、強者/弱者、加害者/被害者、当然のことながら様々な顔があるのだ)が目覚め、ざわめき、捩じれていく感覚は映画『ピアニスト』を観た時と同じで、痺れた。
 
 だからこそ私は重力/Noteの『雲。家。』を、楽しみにしていた。イェリネクの戯曲集は既に手元にあったが、読まずに観に行った。まっさらな状態でイェリネクの言葉を味わいたかったのだ。がしかし、戯曲が難解なのは覚悟していたが、分かりにくい舞台であった。イェリネクの言葉自体がすっと入ってこないのに、その内容世界を想像するのを手助けする要素がほとんどない。むしろイェリネクの戯曲に合わせて、わざと抽象的なものに留まらせているかのようだ。舞台美術は浮かんでいる雲、並んでいる椅子のみ。人物を限定していない戯曲なのだが、男女6人が身振りつきで交代で喋る。身振りや台詞の連携にはかなりの訓練が必要だとは感じたが、何のためにやっているのかが今一つ分からない。
 戯曲にあたると、これはイェリネクの戯曲の中でもかなりドイツ人でないと分からない部分が多いものだということが分かる。ヘルダーリン、フィヒテ、ハイデガー、クライストらの詩や哲学やドイツ赤軍派の書簡、そしてレオンハルト・シュマイザーの『大地の記憶』からの引用が8割を占めている。しかもそれらはイェリネクの手によって加工され、織り直されている。(※2)ドイツ人がみなそれらの引用にピンと来るというわけでもないのかもしれないが、少なくとも一般の日本人よりも体感知識はあるのだろうし、知っている人はイェリネクの手の加え方を見てほくそ笑むことができるのだろう。ハイデガーとドイツ赤軍、シュマイザーを除けば、3人とも18世紀後半から生きた人たちなので、(少なくとも言説レベルにおいては)ドイツの250年くらいの歴史を相手にしている途方もない戯曲なのである。(※3)
 今回F/Tで上演されたイェリネクの戯曲は、『光のない。』『光のないⅡ』『レヒニッツ(皆殺しの天使)』そしてその『雲。家。』である。原発事故をテーマにした『光のない。』や『光のないⅡ』は、私たちが既に見聞きした情報や映像によって、隙間を埋めることができる。『レヒニッツ(皆殺しの天使)』も、ユダヤ人迫害についてなら様々な形で描かれているし、もとになった事件自体は、「ナチの将校と現地の協力者たちがパーティの余興として約180人のユダヤ人を銃殺した」というおぞましいながらも単純なものだ。観客にイェリネクの言葉を「分からせる」には『雲。家。』が一番分が悪い。そう、つまりは、何故いま、此処で『雲。家。』なのか、という問題なのだ。

 ちょうどこの原稿を書いている時に衆議院選挙があり、野党になってから右傾化を激しくさせていた自民党が圧勝した。そう考えると、いま『雲。家。』を選ぶという直観力は、なかなか優れていると言わねばならないだろう。何度となく押し寄せてくる「わたしたち」という主語。「わたしたち」の家とドイツの大地への執着に満ちたテクスト。西谷修は「不死のワンダーランド」の中で、ハイデガーのナチスへの傾倒ぶり、その顛末についてひとしきり話をした後、ハイデガーの思想の核と限界に迫る。「(前略)この現存在の「決意」というドラマ、基本的に空虚でありうるこの「決意」に、「本来的」たるべき内実を与えるのは、けっしてそれまでの論理からはみちびかれない「民族」(nationでもpeupleでもないVolk)なのである。」(※4)「「すべて本質的なこと偉大なことは人間が一つの故郷をもっていて一つの伝承に根ざしていたということからのみ生じた」と彼は言い、故郷を失ったこと、土着性を失ったことが未曽有の危機をもたらしていると語る。」(※5)
 そう、何を連想させるかは明らかであろう。『雲。家。』が書かれたのは1988年であるが、テクスト自体が幾度も再生し、決して消えることのない「大地の記憶」をテーマとしている。「いかなる「大地の記憶」も、「決して死んではいない、そして決して死ぬことのできない死者たちの歴史」」(※6) なのである。それは決してドイツだけの問題ではない。25年後の日本で、再生しかけているものかもしれないのだ。
 結局のところ、優れた批評が作品と批評家との間、その関係性の中にしか存在しないように、優れた演劇も演出家と戯曲、俳優と観客との間、その関係性の中にしか存在し得ない。古典を現代のコンテキストの中で甦らせ、難解なテクストでも俳優と観客の間との交流を紡ぐべく、演出家は戯曲と自分との「あいだ」をこそ掘り下げるべきであったし、俳優の生かし方も再考すべき点があっただろう。高い志を持ち実力のある演出家・劇団だと思うので今後に期待したい。

※1)2011年12月18、19日、イワト劇場にて「ITI世界の秀作短編研究シリーズ ドイツ編」の一演目として上演された。
※2)『舞台芸術15』(京都造形芸術大学舞台芸術研究センター、2009年)の林立騎の訳者解題に、この戯曲の引用元の一覧、またどのようにその引用が改変されているかが例として掲載されている。
※3)勿論、イェリネクの政治的なテクストのほとんどが、そういう意味では「途方もない」テクストだとも言える。林立騎はF/Tの『光のない。』の当日パンフレットに寄稿した「エルフリーデ・イェリネク、言葉と政治、現代演劇」の中で、イェリネクが「政治的な内容」に対していかにして「決めきれない居心地の悪さ、安定を許さない絶えざる違和感」を持ち込んでいるのかを述べている。それは「第一に、複数の意味やイメージを同時的にもつ言葉によって」「第二に、「今、ここ」の問題を敢えてまったく別の時代や文化と結びつけることによって」である。例えば、『光のないⅡ』は福島の原発事故の問題を扱いながら、同時に約2500年前に生まれたギリシャ悲劇、ソフォクレスの『アンティゴネ―』を引用している。
 しかしながら、『雲。家。』は、引用が8割を占め、「何が引用されているのか」のみならず「どのように引用されているのか」が戯曲の肝となるため、引用された詩や論文が発表された時代のコンテキスト、個々の引用の関連(例えばハイデガーはヘルダーリンに傾倒していた等)に関する知識の有無が重要になってくる。その意味では、非常に(特に外国人にとって)難易度の高いテクストであると言えるだろう。
※4)『不死のワンダーランド』(西谷修著、青土社)P205L2
※5)同上P222L18
※6)『舞台芸術15』P65下段L2、林立騎の訳者解題から。林はシュマイザーの論文「大地の記憶」が、『雲。家。』に与えた影響の大きさを例示して解析する。「「大地の記憶」においてシュマイザーは、「大地」という言葉をキーワードに18世紀後半以降のドイツ語圏のディスクールを検証する。」(同P64上段L19)。なお文中の引用はシュマイザーが引用するアレクサンダー・クルーゲの言葉。

カテゴリ