劇評

F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
カテゴリ内の作品別、言語別での選択が可能なほか、各記事のタグを選択すると条件に応じた記事が表示されます。

「劇評」は、なぜ書かれ、読まれるのか?

森山直人

私は劇評コンペの審査に携わるのは今回が初めてである。だから、他の二人の審査員のように、過去のコンペと比較して何か言うことはできないが、総じて、応募された劇評は、どれもそれぞれ力作が多かった。そのこと自体は喜ばしいと思う。ただ、今ひとつの舞台作品について劇評を書くという行為が、それぞれの投稿者の中でどこに向かい、何に繋がっているのか、という点も、実は一本の劇評の成否以上に重要である。いいかえれば、一本の劇評としての説得力だけでなく、なぜその人が、この作品について、このような劇評を書こうとしているのか、という次元における説得力があるかどうかである。この人は、どんな「視界」において、この作品をこのように評価しているのか。同じ審査員の福嶋亮大氏が、審査会の場で「書き手の演劇観」という言葉を使ってそのことに言及していたが、そういう部分まで迫力をもって読み手に伝わってくるような劇評が、残念ながら今回は少なかったように思う。昨年、一昨年が三本の優秀賞を生んだのに比べて、今回二本になっているのは、「これだけはどうしても推したい」と思わせる批評が見出しにくかったことに一因があるのかもしれない。

私は今回、あえて事前に基準を設定することはしなかった。読んでいくうちに、できあがっていく基準らしきものから出発する方を、今回は信じてみることにした。私は今回F/T11の公式プログラムと公募プログラムのすべてを見ることができたので、私が持った作品に対する評価と引き比べることを躊躇せずに読み進めていった。その方がフェアな審査ができるような気がしたのである。そうやって、審査会に臨む前に私が第一に推したのは、百田知弘氏の「言葉なき雄弁、あるいは、ままならなさの可能性」である。同じ百田氏の優秀賞受賞作である岡崎藝術座を論じた批評は、現時点における神里雄大氏の美点と欠点をバランスよく指摘している。私はこちらの受賞に異議はないが、全国的には無名の新人といってよい村川拓也氏のきわめて挑戦的な作品を、その細部に至るまで、論じるべき点をほぼ論じ尽くした百田氏の、揺るぎない分析力の方により強い魅力を感じたのである。直感的に作られた神里氏の作品に関しては、直感でそれに応じることによってさまざまなタイプのアプローチがありうる(事実、『レッドと黒の膨張する半球体』を論じた劇評は本数が多かった)。それに対して、緻密に構成された村川氏の作品が問題にしている点を、余さず俎上にのせることは、実はそれほど簡単なことではない。無論、いささか分析に終始しすぎている点は物足りなさも残るが、古風にいえば筆者の「眼力」と「筆力」は、信頼に値する水準に達している。また、渡邊健一郎氏の「異郷化をともなう身体――屁による異郷化」も、相対的に印象に残った批評のひとつである。概念の使い方に生硬さは見られるが、神里作品の「屈折」を論述するには、本当は論じる側もこのくらい「屈折」した方が、この作品の中心に到達できるはずではないだろうか。私はこのチャレンジを高く評価したいと思う。

もうひとつの優秀賞を獲得した夏目深雪氏の「反スペクタクルに踊ろう/踊らなかったりしよう−『ザ・ショー・マスト・ゴー・オン』評」は、ジェローム・ベルのこの作品のコンセプチュアルな中心を、ロラン・バルトを引用しながら的確についている。その上で、できれば私はこの作品が、日本のコンテクストで上演されたときに生じるズレのようなものまで、突っ込んで分析してもらいたかったと感じる。いいかえれば、「素人が舞台にあがる」行為が何を意味しうるかは、日本とヨーロッパとではかなり違ってきているはずであり、そこまで手を伸ばさないと、結果的にこの作品は、日本特有のなしくずし的文脈に取り込まれかねない危険性をもっているのである。中山大輔氏の「『ザ・ショー・マスト・ゴー・オン』における親しみやすさの効果」も、分析の手法は丁寧で交換が持てるが、「親しみやすさ」という切り口だけでは、この作品の上演コンテクストの違いがもたらす意味作用のズレに批評が届かないのではないか。その意味では、分析対象は異なるが、伊藤寧美氏の維新派論「雨の「風景画」」は、関西を拠点に活躍している維新派が、東京で上演するとどのような問題が生じるのか、という問題設定の点では的をついていた。分析がやや浅いところに留まってしまった点が惜しまれる。

最後に、ひとつだけ、問題提起をしておきたい。私は、「劇評」を書くことが自明の行為として成立する時代は終わっていると考えている。なぜなら、「演劇」もしくは「舞台芸術」というジャンルそのものが、もはや自明の前提としては成立していないからである。私たちが親しんできた「演劇」「舞台芸術」というジャンルは、本質的に19世紀的なジャンルである。19世紀半ば以降に成立したこのジャンルは、20世紀に入って数々の批評的疑いに直面しつつ(アルトー、ブレヒト、ベケット・・・)、1960年代前後に大輪の花を咲かせた。それは、「演劇」が、「メディアの中のメディア」であるという矜持を持ち、それに見合うだけの技術的蓄積を持ちえていたからである。けれども、メディアが多様化する中で、その地位は着実に低下してきているし、何よりまた、「演劇」や「舞台芸術」という概念を支え、育んできた欧米の文化圏そのものの地位もまた明らかに低下してきている。私たちは否応なく流動化の時代を生きているが、だからこそ、すでに落日の様相を呈しつつある「演劇」が何者でありつづけてきたのか、その歴史的側面に目を向けることは極めて重要なのである。別に私と同じ考えを共有してほしいというわけではない。けれども、劇評を志す人には、できればそうした歴史的パースペクティヴに自覚的であってほしいと願っている。

カテゴリ