劇評

F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
カテゴリ内の作品別、言語別での選択が可能なほか、各記事のタグを選択すると条件に応じた記事が表示されます。

大事なのは中身、あとは文章の技術力

福嶋亮大

劇評コンペの趣旨は、これからの演劇界に貢献してくれる書き手にデビューの場を与えることにある。そこで試されているのは、作品ごとの性格をきちんと理解し、広い視野からその意味を位置づけられるだけの能力である。したがって、個人史的体験にあまりにも深く依存して書かれた劇評には、コンペの性質上、高い得点を与えることはできない。逆に、きちんと目標を決め、それに向かって一つ一つ論証を積み上げていく実直な書き手には、おのずと評価が集まることになる。

今回受賞されたお二人は、ともにそのような実直さを備えた書き手である。第一回コンペから「三連覇」の百田知弘さんは岡崎藝術座の「レッドと黒の膨張する半球体」について、叙情性は富んでいるが、論理的構築力が弱いのではないかと問題提起する。細部まで丹念に目配りされた優れた劇評で、受賞は当然だろう(ただ、「叙情性」という言葉の選択がベストかは多少疑問)。と同時に、「論理の弱さ」という問題は別に岡崎藝術座に限らず、広く日本の演劇一般に当てはまる弱点でもある。是非多くのひとに読んでいただきたい文章だ。

他方、夏目深雪さんの劇評はロラン・バルトを導きの糸にした『ザ・ショー・マスト・ゴー・オン』論。バルトからの引用は面白いところを引っ張ってきていてセンスを感じるし、かつそれが作品の意味解釈にもうまく機能している。この手の劇評で思想家を引用すると大抵生硬なものになりがちだが、夏目さんはうまくそのハードルを超えていて、書き手としての能力を感じた。ただ、一つだけ問題を言うと、バルトを光文社新書の解説本からの孫引きで済ませているのはちょっとズボラだろう。そこはやはり、翻訳でいいので原著に当たるべきだった。

その他、個人的に気になったのは、高橋英之さんの「「忘却」を忘れられない者たちは、この作品で「忘却」を忘却できるだろうか?」と福田夏樹さんの「望月綾乃の現実感」。前者はバブル体験者の視点からの「トータル・リビング」評だが、最後の一段落が鋭い。「トータル・リビング」の長所と短所を的確に言い当てている。後者は、ロロの「望月綾乃」という役者の性格づけが、ロロ作品の鍵になっているのではないかという批評。一見するとクレイジーな読解だが、キャラクターの魅力がメタレベルへの上昇を支えるという論点は、ロロに限らず、ゼロ年代系のポップカルチャー全般を考える上でも実は良い手がかりになると思う。なるほど確かに、作中人物に共感できるかどうかを基準にするのは、原始的で子どもっぽい批評であるには違いない。しかし、「大人の批評」が人物の魅力の問題を軽視しがちなのも、一種の偏見ではなかっただろうか。

ところで、審査の後の講評会で、会場から「批評家の文体は総じておカタくて難しすぎる。もっと柔らかい、エッセイ調の文章があってもいいのではないか」というような意見を複数頂戴した。それはうなずけるところもあるが、文章に対する考え方としてはやはりちょっと稚いと言わざるを得ない。

まず、審査の楽屋裏を明かしておけば、昨年も今年も我々審査員は別に「文体がユルいからダメ」というような判断は下していない。というか、そもそも文体や形式の問題はほとんど話題にも出ていない。身も蓋もない話だが、結局審査の焦点は「文章に中身があるかどうか」なのだ。

エッセイと言えば、2年間審査してきて、ある種のエッセイ的文体がたびたび「チェルフィッチュみたい」と形容される現場に出くわした。僕は演劇関係者ではないので、チェルフィッチュという劇団そのものが評価に値するかどうかは知らない。だが、その浸透が評論のレベルまで下げているのならば、さすがに問題だろう。率直に言えば、「チェルフィッチュ的」(繰り返すが、現実のチェルフィッチュについて僕はたいして知らない)と演劇関係者に感じられる文体は、内容のなさを誤魔化す口実にしかなっていないのではないか。むろん「あえて無内容・無教養の貧しさを売りにする」というのも、一つの選択としてはあり得るだろう。だが「若者の貧しいベタな日常をそのまま口語体で描くのが良い演劇だ(あるいは批評だ)」とそれこそベタに信じ込んでいるのは、たんに表現の幅を狭めているにすぎない。それを面白がっているのは「演劇ムラ」の悪しき風習でしかないのであって、ムラの外では通用しないだろう。

もちろん、エッセイ調の文章でも内容のあることは書ける。ただ、エッセイ調でうまく内容を見せるには、それなりのテクニックとセンスが要る。論説文は方法論さえ身につければ誰でもそこそこのものが書けるが、面白いエッセイを書くにはやはり文才と努力が必要だ。にもかかわらず、どうやら少なからぬひとびとが、エッセイ調なら誰でも書ける――しかも、大勢のひとが読んでくれる――と信じているらしいのは、何とも奇妙である。

結局、論説だろうがエッセイだろうが、文章を書くにはそれなりの知識やリサーチ、訓練は必須だし、それを組み立てる論理的思考も要求される。うまいエッセイストはその知識と論理を文章の技によって昇華しているだけで、ただのエッセイ調の文章に商品価値があるはずもない。「チェルフィッチュ的なもの」は一度忘れて、そういう「文章の常識」に立ち返っていただきたいと思う。

カテゴリ