劇評

F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
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独身者の機械、または、彼女は如何にして掘削機を愛するようになったか (『油圧ヴァイブレーター』)

小澤英実

    演劇でもダンスでもなく、ドキュメンタリーでもフィクションでもなく、フェミニズムでもそのパロディでもない。それらのあわいをすり抜ける、ささやかだけれどしたたかな戦略を感じさせる、非常にクレバーな作品である。タイトルからしてフェミニズムやセクシュアリティをラディカルに問う政治的な作品なのだろうかと予想しながらシアターグリーンBASE THEATERの客席に入ると、舞台上には化粧っ気のない女がおり、壁面のスクリーンにはパソコンの画面が映し出されている。おもむろに開演すると、下手に置かれた机に向かって座っているその女、グムヒョンが、パソコンを操作して次々と動画を再生しながら、独白による説明を加えていく。

  「27歳のとき、こんな決心をしました/"雌雄同体になろう/そう 雌雄同体になるのよ!"/オスメスの役割を一人で担い/自ら交尾する/性的に独立した存在に――」。こんなマニフェストから始まるので、性交渉における女性の従属的役割からの解放、女性による女性のため性的解放の模索であるかと思いきや、これらは作品のフックであって、フェミニズム的問題が真っ向から取り沙汰されることはない。彼女はさながらドン・キホーテのごとく、荒唐無稽な試みに真面目かつ果敢に挑戦していく。男性と肉体関係をもつのをやめ、その代わり、仮面をつけた脚でマネキンを愛撫したり、仮面をつけた掃除機や自分の手足に愛撫させたりされたりする。体の部位や機械を擬人化することで自己充足的な性的快楽を得ようとする過程の端々に漂うおかしみは、これがひとつのメタフィクション、モキュメンタリーであることを明確に宣言している。だから、本作をフェミニズム的観点から真面目に考察するのは無粋だったり的外れだったりすることは承知している。だが、真面目に考察した場合に問題が多い点は確認しておく。
   例えば上演の前半、いくら訓練をこなし形態を変化させても、彼女自身は変わらず「受け身の女性役」であると指摘されてショックを受けたというエピソードが語られるが、本作では「モノ」なり体の部位なりが男役を演じ、グムヒョンが女を演じるという性的な役割分担が一貫して不変である。彼女の身体がいかに分離・合体を繰り返して雌雄同体を目指そうと、語る主体の位置はつねに変わらず、そのジェンダーはつねに「女」だ。そもそも彼女がやろうとしていることは、本来、中性的な「モノ」たちに男性性を付与していくファルス願望にほかならず、だとすれば結果的には、主体の本質的な女性性を反復的に強化してしまうことに繋がる。「ファルス願望に囚われたある女の果敢な冒険」という悲喜劇は、それはそれで女性アーティストの閉塞感や袋小路を暗示して現実的な内省を促す意味はあるかもしれないが、昔ながらのユートピアニズムに回帰してしまうという点で、実践としては効果的ではないだろう。
   と、こうした前半の試行錯誤の果てに彼女が掘削機を見出したとき、これまでの身体の分離による接合というアプローチは、モノへの身体的拡張・包摂へと変化し、進んでいた方向はがらりと転換する。乗り物や速度に官能的な男性性を見ること自体は目新しいものではないにせよ、その男性性に同一化し、かつ性的対象としてみなすこと、ガンダムやエヴァ的な身体拡張機械を自慰的な快楽の道具とみなすのはちょっと新しいのではなかろうか。ここにいたって、雌雄同体の性交を目指して始まった性的ファンタジーの冒険は、新たな形態の自慰というゲーム的リアリズムに着地するのである。
   それは三度目の試験でついに免許も取得し、いよいよ行われる「儀式」の動画に端的に見て取れる。砂浜を歩いていくグムヒョンの裸体のショットの直後、その裸体は横臥した砂の像によって代行=表象され、グムヒョン自身は掘削機に搭乗して砂の女体を幾度も突き、跡形もなくなるまで破壊する。この「性交」のなかで、彼女の身体と自我は分裂・拡張し、モノに転位し転置され、リビドーの循環する閉鎖的回路が確立される。そもそも、こうした途方もない取り組みの出発点には、ヴァイブやディルドーといった無生物的性具を使った既存の自慰では飽き足らず、もう少し「人間性」や「主体性」のある性的対象を創出したいという願望があったはずだが、「油圧ヴァイブレーター」というタイトルが示すとおり、最終的には理想の自慰機械との出会いによって幕が閉じられる。この掘削機への性的ファンタジーを、デュシャンの「大ガラス」やカフカ「流刑地にて」の処刑機械といった独身「男性」の機械の系譜を女子の妄想力で書き換えたものとしてみることそれ自体にも面白さがある。だが、そもそも自己を投影した形象に物理的に介入することによって性的快楽を得るということが日常的に行われているジャンルとは、なによりもエロゲーであって、この作品の面白さは、エロゲー的なヴァーチャル・リアリティをあくまでアナログに実演してみせるという、その演劇的な馬鹿馬鹿しさ、馬鹿馬鹿しい演劇性にあるのである。
   だから「クイアではなく、サイボーグ・フェミニズムではなく、さらに言えばストレートなフェミニズムでもなかった」と桜井圭介が評したのはあくまで正しく、彼女の関心がフェミニズム云々ではなく「モノ」と身体との関係に置かれていることが本作には如実に表れている(註1)。グムヒョン自身、彼女の制作のコンセプトに「モノ」を主人公に据えた作品づくりを挙げ、「「モノ」にキャラクターを与え、その物の立場で自分との関係性を探ります。どうやって物に命を与えるかを考えています」(註2)と述べているが、こうした問題意識が、そのまま昨年の公募プログラムにおける、岡崎藝術座『古いクーラー』の、役者がクーラーを演じ、クーラーが独白する手法や、神村恵『飛び地』における外界との線引きが不可能になった身体をめぐる哲学的実験に繋がっていることや、上述した「ヴァーチャル・リアリティをアナログに実演」という点は、悪魔のしるしの制作手法にも通じていることは、サブカルチャーとの線引きが無効化したグローカルな舞台芸術のあり方を考えるうえで興味深い現象だろう。
   ただし、これらの諸作品と本作が決定的に異なる点に、上演における現前性とメディアの扱い方がある。海外公演であることの制約が関わっていたのかもしれないが、この六十分弱の「レクチャー・パフォーマンス」と呼ばれる上演が、基本的には動画鑑賞によって進行したという事実、その強度の弱さは否めない。淀みない操作と独白の絶妙な間合いは、これが習得された技術と周到な準備をもとに行われているひとつの上演であることを思い出させるが、形式上は学会発表のようなプレゼンテーションと変わりがない。桜井は、前述の言葉につづけて本作を「「男性恐怖/願望」のやや屈折したエクスキューズ?」と述べているが、本作で一番気になるのは――そして領域横断的なあらゆる試みに共通する課題だと思われるのは――そうしたさまざまなエクスキューズだ。ヘテロセクシャルでもホモセクシャルでもない「第三の性」への希求が、結局は新たな形態の自慰に落ち着いてしまった(と私はみる)ように、AでもBでもないというあわいをすり抜けていく戦略が、結果的にはエクスキューズに満ちた逃走と変わらないのではないかということ。「パフォーマンス」というラベルが、演劇やダンスと括られる作品群の強度や練度や価値や質に達しないものたちの総称と化してしまうのではないかという懸念を抱かせるようなところが本作にはあった。彼女がはるばる韓国から、観客である私たちがそれぞれの場所から、身体を移動させて池袋の劇場まで訪れ、両者がそこで出会うことの意義や可能性、そのパフォーマティヴな力が十全に問われていたとはとても言いがたい。上演の最後、映しだされる映像の前にそっと横たわるグムヒョンの体は、まるで映画『アバター』における地球に残された抜け殻の身体のような、身体の残滓のようなものに見えた。




(註1)「デイリー・サクラー」http://d.hatena.ne.jp/sakurah/20111102
(註2)「げきぴあ」http://community.pia.jp/stage_pia/2011/10/festival-tokyo11-11.html

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