劇評

F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
カテゴリ内の作品別、言語別での選択が可能なほか、各記事のタグを選択すると条件に応じた記事が表示されます。

F/T11 公募プログラム観劇リポート

リン・ユービン(台湾)

 3・11の震災は日本の東北地方に空前の苦しみをもたらした。また、福島の原発事故は日本にとって更なる試練となった。震災後、電力不足から節電対策として劇場が休館を余儀なくされ、原発への憂慮から海外のカンパニーが日本での公演を相次いでキャンセルした。今世紀最大の震災を前に、劇場の軟弱で無力な一面が露呈された。想像以上の大きな災難は、非現実的な感覚をもたらした。3・11の背後には、現代の消費社会やエネルギー環境などの難解で複雑な問題があるといえる。震災の恐怖心や外傷はは未だ払拭されていない。震災後、複雑な問題に直面しているとき、演劇は一体何を語れるのだろうか?これは、今年のフェスティバル/トーキョーのテーマでもある。

 フェスティバル/トーキョーの招きを受け、批評家インレジデンスプログラムの枠組みで様々な作品を観劇した。中でも特に興味深かったのは、若手アーティストに発表の場を提供するという「公募プログラム」だ。今年は7つの日本の作品が選出され、いずれも30歳未満の若手によるものであった。これらの作品は、今の日本の新世代の代表作ともいえ、作品を通じて彼ら新世代を知ることができる。彼らは一体、どのような社会の現実に向き合い、どのような芸術表現をしているのかが分かる。

平均年齢23.5歳のカンパニー"ロロ"。リズミカルな台詞、舞台を縦横無尽に駆け回りハイスピードでの場面展開。これぞ青春ほとばしる若手の作品と感じた。『常夏』は、夏のノスタルジアな記憶や季節が錯綜した夏の物語である。舞台中央にバスタブが置かれ、出演者は代わる代わる登場する。NASAのメンバーになりたいと一途な思いを抱く男性。失恋したことからひたすら駆け回る女性。自分より強い相手はいないかと探しまわる男。仕事による屈辱が逆にいつかこの世界を破滅してやろうと考える清掃者。浴室から一歩も外に出ない弟。あらゆる手段を尽くしてその弟の願いを叶えようとする姉。姉の尾行を依頼されるも、その姉を好きになってしまう探偵。『常夏』の登場人物はアニメ的な要素に溢れている。脚本、演出を担当した三浦直之は、人物につながりをもたせることで関係性のないストーリーを連結させる。飛躍するロジックは、観客を「コミック」な世界へといざなう。しかし、『常夏』の登場人物はみな、現代日本の新世代にみられる「失敗」や「挫折」の典型でもあるのだ。彼らは部屋に閉じこもる「ニート」「いじめ」の加害者、被害者なのだ。愛や夢や現実世界から距離をおく人たちなのだ。しかし、『常夏』では失敗や挫折に対する価値判断を与えているわけではない。というのも、「変身」というのはアニメや漫画では最大の武器だからだ。作品の最後にバスタブにハンドルがつけられ、弟がそれを車のように扱い浴室から外に出るシーンが登場する。このシーンには、どことなく爽快でさっぱりとした雰囲気を感じた。

ピーチャム・カンパニーの作品は東京タワーの下の空き地で上演された。美しい輝きを放つ東京タワーを前に、用意された椅子に座る。『復活』は演劇と都市の対話で展開される。震災後の日本で原発事故が発生し、日本国民は日本を離れてアメリカに移住する。数年後、廃墟となった東京に戻るが、東京タワー周辺では野犬が人を襲うという事件が起きる。『復活』は演劇を通して現実をフィクション化させる。彼らの演出とパフォーマンスは、唐十朗のテント演劇を想起した。ただ、屋外での上演に慣れていないせいか、長過ぎて複雑な構造は東京タワーに負けてしまったと言える。

今年の公募プログラムの中で最も印象深かったのは、バナナ学園純情乙女組の作品だ。「演劇」や「歌」「ダンス」という概念では理解できない。耳を突き刺すダンスミュージックにMCとDJのアナウンスがさらに鼓膜を貫く。50名ほどの出演者が劇場を埋め尽くし、ダンスや応援団などのパフォーマンスで展開される。様々な道具や衣装が登場し、水風船やわかめやキャベツなどが舞台上から客席に向けて投げられる。観客の目の前で行われるわけでも、観客が静かに鑑賞できる作品でもなく、観客の感覚器官を大きく刺激するのだ。表現の内容やインフォメーションはもはや重要ではなく、目を見張るのは、身体を使って時間空間のなかで凝固してみせる彼ら若者のオブジェである。出演者は男性も女性もセーラー服を着ている。「セーラー服」とは、海軍の制服をもとにした女子中高生の制服なのだ。彼女たちは頭を垂れて左右に振る。それはまるで、部落の戦士が出陣前に行う戦闘の舞のようでもある。また、肉体そのものも彼らの武器なのだ。ノイズミュージックが流れるなか、彼女たちはトランス状態になる。劇場内は人や物、雑音、ダンス、映像で溢れる。このとき、時間は全く意味をもたなくなる。「カオス」「アナーキズム」の状態に支配される。

彼女たちの作品は概念の産物ではなく、また、作り手個人の意志の表れでもない。それは、若者のエネルギーが凝縮された場であり、演出家二階堂瞳子が秋葉原で放浪する若者のエネルギーを劇場に集めたのだ。若者のエネルギーが舞台手前に置かれたマイクの前に導かれたとき、ライトの下、出演者一人一人が15秒ほどスターになる。バナナ学園純情乙女組は「混乱」「無政府状態」のキャンパスなのだ。もし、この「キャンパス」が児童が成人になるまでの「リミナリティー」だとすれば、早稲田大学の構内に立てられた学生運動の「立て看板」が撤去され、「自己啓発講義」や「就職説明会」の立て看板に取って換わられた今、バナナ学園純情乙女組には60年代、70年代の学生運動を感じた。ただ、彼女たちは細かく計算された混乱を経て、舞台上で歌やダンスを繰り広げる。様々なイメージが錯綜し、観客の視覚が舞台に集まったとき、出演者たちは衣装替えをし、舞台は一瞬にして転換される。戦争、自衛隊、死体、紅白合戦など様々な要素が無機的にダンスミュージックのなかに織り込まれるなか、作品は世界のゴミを飲み込もうとする氾濫した河と化す
。舞台全体が「グループダンス」の手法で展開されているが、完璧な場面構成が求められているわけではない。作品に時折現れる決裂、この決裂のなか、出演者たちはあらゆる場面から離れ、ささやき、独り言を言い、叫び、短時間だけ世界の中心になるのだ。メディアが作り上げた自我というのは唯一の幻想であり、同時に無情にもこの幻想が一人歩きしている。唯一の自我のために集団でなければならないバナナ学園純情乙女組は、もしかしたらハイパーメディア時代の逆説の産物なのかもしれない。

バナナ学園純情乙女組のクレイジーな喧騒の作品とは逆に、捩子ぴじんの『モチベーション代行』はシンプルで静かな作品である。出演者は三人で、舞台も非常にシンプルなつくりになっている。舞台中央にはコンビニで使われているポテトなどを揚げるフライヤーが設置され、時間の経過とともに劇場内には油の臭いが充満する。若手の舞踏家でもある捩子ぴじんは、作品創作のためにコンビニでアルバイトをする。しかし、捩子はアルバイトのせいで創作活動に支障が生じることを感じる。創作時間をつくるためにアルバイトを選んだが、バイト料が安いので生活のためにアルバイトを増やさなければならず、そうなると創作時間がなくなるというジレンマに陥ったときにこの作品をつくった。バイト先の仲間とプロの女優に出演を依頼し、一人一人が自分自身を演じる。作品は最もシンプルな「インタビュー」形式で進んでいく。他者に問いかけをし、役割が交替し、他者の立場に立って自分に問いかけをする。非常にダイレクトで厳格な問いかけが出るなか、出演者たちは次第に自己防衛を断つ。自身の生活に対する思いや苦境が語られていく。彼らの告白には、自我を分析するという誠実さとドキュメンタリズムの力強さを感じる。やり取りが進むにつれ、舞台は次第に、出演者のプライベートと劇場という公共の場がクロスする場となる。出演者から語られる個人の経験を通して、観客は日本社会にはびこる「ワーキングプア」の問題やアーティストの苦難や苦境を考えることになる。この作品はノーマルな演劇のスタイルを取り入れており、現実に触れることでそのリアルで誠実な面に心動かされる。

今回の公募プログラムの作品から、新世代のアーティストたちが自分たちの言語によって自分たちの生活のリアルな世界を模索していることに気づく。また、日本社会が直面している様々な問題が自然と作品の中に反映されていることも分かる。表現方法はそれぞれ違うけれど、「身近」「ダイレクト」「介入」「身体性」を取り込み表現している点が共通していると言えるだろう。ニート、いじめ、ワーキングプア、原発、環境といった問題を政治や社会、経済といった文脈の中から模索している。「国」や「日本」といったヒエラルキーな思考は作品にはほとんど登場しない。新世代のアーティストたちはいち「生活者」としてこの世界に向き合ってる。彼らは具体的な生活の場からスタートし、新たな演劇の場を生み出しているのだ。日本の近代の劇場はかつて「国民」の装置として建てられていた。しかし、今では劇場は「生活者」の手にあるのだ。劇場はミクロな生活の場に戻り、「小さな叙述」となった。今や劇場は現実の「生活者」により成り立っており、彼らの身体的な経験が集まることで新たな公共の場となった。

(翻訳:F/Tアジアコーディネーター 小山ひとみ)

カテゴリ