劇評

F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
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叙情性と論理性の狭間で

百田知弘

全体的な構成の妙や、印象に残る情景描写などは楽しめた半面、さらに掘り下げられるはず(あるいは、掘り下げるべき)ところを詰め切れていないもどかしさを感じさせる公演だった。

冒頭、移民として牧畜業を営んでいるらしい父と息子が、舞台中央に登場する。二人の背後にあるのは、ざらざらと砂や小石が撒かれた一帯と、さらにそこへ覆い被さるように張られた暗色の幕(*1)だ。この二人がめいめいに話し始めるのだが、終始ニヤニヤと、傲慢さすら感じさせる笑みを浮かべている。父親は性欲に絡んだことばかりまくし立て、息子は息子で、「移民第二世代ならではのアイデンティティーの軋轢」など堅い話題を語りながらも鼻をほじったり大股を広げたり、ふざけきっているとしか思えない仕草や奇妙な擬音語を繰り出す。あるいは、威嚇ないし虚勢という側面があるのかもしれない。但し、あくまで台詞にだけ注目するならば、第一世代として「(資産を)増やす/(子孫をもうけて)増える」ことにのみ関心を示す父と、そこに続く世代として同化とアイデンティティーの問題を抱える息子という好対照が描き出されている。

続く場面は、まずサラリーマン風の男がよろよろと進み出てくる(台詞からすると環七通りを歩いているらしい)。しかし彼は「牛」なのだ、と先の親子は宣言し、そこからは「人間の言葉で」不快さを独白する男(その風体からして、いわゆる「社畜」のアイロニーなのだろうか)をよそに、飼い主としての人間−飼われている家畜という関係性を軸に話が展開していく。ここで、先程の「父親」による「牛」たちへの扱いは、様々な示唆に富んでいる。この場面から登場する女性とサラリーマン風の男性、二頭を前に父親が会話を進めているように見えるのだが、実際のところ父親の顔は女性の方にだけ向けられ、男性には全くと言っていいほど関心を示さない。それでも会話を成立させようと粘る男性が、卑屈なほどにいじましく映る。牧畜業において重要なのは商品価値の高い牝であり、牡は種牡の候補を除き、早いうちに去勢するか潰すのが常である。この場面での男性は既に去勢されているようにも思えるし、その上でせめてもの命乞いをしているのかもしれない。いずれにせよ、父親が素に戻るのが、男性から「日本語、お上手ですね」と問いかけられた瞬間、そして男性に「最後に言い残すことはありますか?」と問いかける際の二度だけというところも、厳しく不動の一線を画す態度を感じさせる。また、この一連の場面で、「牛に餌を与える」と称してビデオ映像を見せたり、肉の味を良くするために「餌に毒を混ぜる」などという表現を用いたりしている辺りは、現実の社会に対するメタファーとしてうまく機能している。これら一連の場面で提示された支配−被支配の構図が、後に「アメリカにおける日本人の姿」として全く逆転した形で提示されるのが、舞台の大きな見どころだ。後半では冒頭の父親と息子が「牛」となり、「牛」だった男性は飼い主として君臨する。とりわけ、前半であれだけ下卑た振る舞いを見せていた父親が「去勢」されて別人のように大人しくなっているところは印象深いし、途中で挿入される物真似が、最初はオノ・ヨーコで二度目はジョン・レノンというところも、対称性を強く意識した構成として目を引く。日本語の「移民」は、例えば英語なら"immigrant"と"emmigrant"、それぞれの概念を含んでしまうので、どうしても曖昧さが付きまとう。そこを逆手に取って支配−被支配の構造を逆転させる手際は鮮やかだった。

但し、支配−被支配の構図が逆転する契機となる場面、つまり「移民に関係する人口の割合が60%を超えた」ことにより移民が「王」となる、というくだりには違和感を覚えた。この物語の舞台が日本であることは台詞からも自明だが、となればどうしても、現在の日本における移民政策との隔たりを意識させられることになる。現在の日本で主に問題になっている「移民」とは、正当な在留資格のない「不法移民」であって、彼らが「国民」として受け入れられる(=合法的に日本国籍を取得する)ためには、日本が国家として政策的な大転換を遂げる必要がある。実際に「移民を積極的に導入すべし」という政策を掲げる政党や団体も存在するわけで、そうした移民が日本人のマジョリティーとなるという仮定は、確かに「あり得る未来像」の一つではあるだろう。だが、政治的な理由にせよ経済的な理由にせよ、母国を離れ他国で生活を営む決断をする人々の大多数は働き盛りの年齢であるはずで、彼ら彼女らが「日本国民」となったのならば、「少子高齢化」などの問題も自動的に解決に向かっているだろう(それを改善と言えるか否かはともかく)。その結果として「移民に関係する人口の割合が60%を超えた」のではなかったのか? また、ものの20年の間に怒濤のように押し寄せた移民たちが、みな似通った文化的バックボーン(宗教、慣習、食文化......etc.)を有しているとは限らない。というより、同一の文化圏から国の支配体制を転換させるほど大量の移民が押し寄せる、という仮定の方が、現実味に欠けている。現代社会においては、異なる文化圏からそれぞれやってきた移民同士が対立し合うケースすら珍しくない(*2)。さらに、社会におけるマイノリティーがマジョリティーに転換していく課程で様々な動揺が起こるだろうことは欧米の例を見ていれば容易に想像できるし、それこそが現代社会における移民問題の最大のトピックとすら言えるはずだ。移民の導入に伴う文化的摩擦を舞台のトピックとして取り上げるにせよ、そうした葛藤や衝突まで描こうとするのは作劇上の必要性が薄い、という判断があったのだろうか? しかしこの公演では、移民が直面する軋轢として家庭内での衝突はしっかり描かれている(*3)割に、社会的な軋轢・衝突に関しては冒頭で息子が言及するだけで、具体的な場面として描出されることはない。あるいは、牛飼いが牛の世話をする一連の場面から社会的なレベルでの不条理を読み取るべきなのかもしれないが。いずれにせよ、当然起こったはずの社会における衝突に触れないまま一足飛びに「王」となる場面に移ったのは、着想としては実に興味深い題材を、おざなりに展開させてしまったのではないか。

移民の中から生まれた「王」が日本史の教科書を書き換えようとする場面も同様である。ここで持ち出されるトピックが「真珠湾攻撃」「原爆投下」「オイルショック」というのも、後の場面に繋がっていくフックとしてはうまく機能している半面、どれも太平洋戦争以後の出来事であることに、私はことに違和感を覚えた。戦後、新たにやってきた移民にかつての日本の戦争責任を問うても意味がない(そのこと自体は確かに無意味だと私も思う)、という皮肉だろうか? しかし現在の日本でも、「在日」としばしば称される人々、つまり戦前の旧植民地出身なので在留資格は与えられていながら基本的人権では種々の制約を受けている「移民」が、なお問題であり続けているではないか。
加えて、新たな移民として来日し20年間で日本の政治体制をも呑み込んだ自分たちの業績に触れないのは何故だろう? せっかく自らの手で日本史を書き換えられるのに、自分たちの成し遂げた事績を華々しく書き込む必要は感じなかったのか。かつて移民としてのアイデンティティーの確立に悩んだ過去(そのことは冒頭で息子が、その態度はともかく、声高に主張している)を、日本社会における正統性を主張することで払拭しようとは思わなかったのか? このように考えてくると、現実を踏まえたシミュレーションとしては詰めが甘いと言わざるを得ない。「移民問題」をもたらす構造を戯画化することが狙いだったとしても、それなら舞台を日本とする意義は薄かっただろう。単にギャグの起点とするだけなら日本史の中でも他のトピックで構わないように思えるのに、敢えて「戦後」に焦点を当てるからには何かしら挑発的な意図でもあるのかと思いながら私は観ていたが、肩透かしを食ったように感じた。

移民についてのくだりが終わり、次の場面に移ると、終電を逃して歩き始める男性が登場する。これが前半に出てきた「よろめき現れる男性」ということか。歩いても歩いても家には帰りつけず、目前に広がる闇が自分を呑み込もうとする絶望のように思えてくる、という情景の描写は美しさすら感じた。そこから、孤児となった移民が独りで食卓に向かう場面へと連なり、自らのアイデンティティーの脆弱さを慨嘆しながら闇の奥へと消えていく。一連の場面を同じ役者が演じていることもあり、文脈としては不連続に思えるのだが情景としては確かに連続性を感じさせるという、一種独特な味わいがある。

それを受けて最後の場面、ここにしか登場しない役者が、かつて通った小学校と投票所の話を始める。いささか唐突にも思えるが、これが「牛」が見せられていた「何のゆかりもないはずの田園風景」であるなら、舞台の狙いの一つが明らかになる。我々の抱く共同体像は往々にして、それが「民族」「国家」など大きな枠組みになっていくほどに想像上のものに近づいてゆくし、そのせいか本来は擬似体験に過ぎない物語や映像に郷愁を掻き立てられてしまうことも、また珍しいことではない。だが、そうした仮想や疑似体験に立脚するアイデンティティーの、何と希薄なことか! しかしながら、移民の第二世代以降にとっては、父祖の地の「懐かしい情景」が自分たちのアイデンティティーのよすがになっていることも事実である。すなわち冒頭の、一方的にも思えた息子の問いかけが、この場面に呼応しているわけだ。「牛と牛飼い」の場面で意識されていた対称性が別の方向性で再び現れて舞台を終わらせる、という構成は見事と言う他あるまい。それだけに、せっかく移民という興味深い題材に着目したのに、叙情的な描写の手際に比して論理的な側面の掘り下げが甘いことが、私としては「もどかしい」や「勿体ない」の一言では言い尽くせないほど残念だった。

(*1)円球の一部を切り取ったような形状をしている。つまりこれが「半球体」ということか。

(*2)1992年、米国で発生したロサンゼルス暴動では、アフリカ系移民と韓国系移民が暴力によって対立する局面にまで至った。また2005年にフランスで発生した暴動の発端となったのは、アフリカ系やムスリムの移民たちの第二、第三世代の若者たちだったとされるが、彼らによるシナゴーグへの襲撃事件も発生した。そして、この暴動を為政者として鎮圧する立場にあったニコラ・サルコジも、また移民の子息である。

(*3)移民の父親と日本人の母親の間に生まれた息子が、牛丼を食べようとする際、母親から食事のマナーや食べ方をヒステリックに注意される場面がある。この場面自体は、無関心に徹する父親と文化的摩擦のせいか非常に神経質な母親の板挟みになり、ことさらテンション高く振る舞ってみせる息子の痛々しさが活写されていて、実に見応えがあった。

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