劇評コンペ講評 (鴻英良)

まず最初の印象をいうと、今年の応募原稿は、去年のものより全体として格段によくなったと私は考えている。そもそも、昨年の応募原稿にしてからが、後に書かれたものの方が、最初に提出されたものよりも全体的によかった。それはすでに書かれたものを参照にしつつ劇評を批判的に書くという態度で演劇批評に臨んだ人が出てきたからであろう。
おそらく、今年度に応募した人たちは、昨年度の応募原稿を読みつつ、あるいは受賞作品を読みながら、何が要求されているのかを判断し、目の前にあるものを反省的に取り入れつつ、劇評を書いていったのであろう。これこそが歴史主義的な判断というものだ。 こうした私の想定は、継続的な劇評コンペそのものが、批評にとって意味があることを確証しているという主張につながるのである。

選評 (内野 儀)

 今回の劇評コンペについては、匿名審査となったことが昨年からの大きな変更で、評価のためのクライテリアを考えつつ、メール添付で送られてくる劇評について、メモを取っていった。昨年と比べると投稿本数は減ったものの、かなりレベルが上がったという印象があり、次の四つの項目をたてて自分なりの評価をすることにした。「文章力」、「構成力」、「作品記述」、「分析の枠組み」の四つである。その際、昨年同様、「観劇体験記ではない」、「描写だけでは成立しない」、「モノローグではない」、「劇評/批評は自己表現だが、ベタな自己表現ではない」という「~ない」ことも審査基準に入れ、また、「原作/戯曲テクストがある場合、それを読むべき」、「調査すべきことは調査すべき」、「問題提起や分析が明示的に書き込まれているべき」といった幾つかの「~べき」も昨年同様、そこに加えた。その結果の評価に従っていくつかの候補作を考えながら審査会に臨むことになったが、そこから先は、それぞれの劇評が取り上げた作品についての審査員個々人の見解や劇評の文章そのものの力が評価の論点となるので、ある程度は相対的たらざるをえない、と私は考えていた。

演劇批評のボキャブラリー (福嶋 亮大)

鴻氏、内野氏とは違って、僕は演劇の専門家ではない。というわけで、今回はごくシンプルに「僕のような外野の人間にも響く文章」を基準に選ばせてもらった。もう少し具体的に言えば(1)対象作品を掘り下げていく「垂直的」な読み、および(2)対象作品を同時代の(あるいは先行する)コンテクストに位置づけ直す「水平的」な読み、この二点をどれだけの精度で満たせているかに注目した。

12月14日 劇評コンペ審査結果発表会&講評会が行われました。

受賞者の方々、おめでとうございます!!

(執筆者が関係者のため、審査対象外、掲載のみとさせていただいております)

 マニュアルないし手引書(てびきしょ)とは、ある条件に対応する方法を知らない者(初心者)に対してその対応方法を示し、教えるための文書である。人間の行動や方法論を解説したものとしては、社会や組織といった集団における規則(ルールなど)を文章などで示したもので、一般に箇条書きなどの形でまとめられ、状況に応じてどのようにすべきかを示してある。また取扱説明書(とりあつかいせつめいしょ)は、機械装置や道具といった工業製品などの使用方法を説明した印刷物などである。図と文章などを使って、解り易く解説してあるのが一般的である。(wikipediaより)

 人の数だけ想い出は存在する。
 ということは、地球上には、今この瞬間、69億900万人もの想い出が存在し、さらには刻々と増加しているということになる。中にはいらない想い出もあるかもしれないが、忘れてしまわない限り、それもまた想い出だ。

 『完全避難マニュアル 東京版』では山手線の各駅を起点に、「避難所」として設置された場所あるいは人物を訪ねる。参加者は専用のウェブサイトにアクセスし、いくつかの質問に答えると「あなたの避難所」としてひとつの避難所のページに案内される。そこには風変わりな地図が示されており、それを頼りに実際に街を歩く。ウェブサイトからの情報によると、避難所の中には、一部の避難所で手に入れることができるパスを集めなければ立ち入ることができないものがある。そしてある避難所は別の避難所に何らかの形で関連しており、そのつながりを「トンネル」と呼ぶ。これら謎に満ちたルールにより、参加者はゲームの主人公になったような気分で、東京の街を見つめた。

風の鳴る音が静かに聞こえ始める。客電はついており、客席はまだざわざわとしている。舞台は奥からのびる光が差し込むだけで、暗闇、といってもいい暗さの中、ひとりの女優が舞台のまわりをゆっくりとした速度で、歩いている。あちこちから台詞のような声が聞き取れないくらいの音量で断片的に聞こえてくる。青いライトが客席を照らし、その中の七つの客席をスポットライトが射抜く。そこに座っていた老人たちが客席を立ち、客席から舞台へ出て行く。舞台へは通常「上がる」ものだが、むしろ客席から舞台へ「降りた」7人の老人たち。本作は、70歳以上のエルダー世代という条件で集められた地域住民とアーティストが共に舞台作品を制作する、というアイホール(兵庫県)のプロジェクトから生まれたものであり、出演者の老人たちは公演のために稽古をしているとはいえ、いわゆる役者の身体ではなく、少し危なっかしい足取りで降り立った。そして、舞台上の白い壁にプロジェクターで映像が投影され、その中で老人たちが死後のことを語る。その後、先ほどの女優が映像の中で入水自殺をし、いったん映像は終わる。

「踊る阿呆に観る阿呆。同じ阿呆なら踊らにゃ損、損」

御存知のとおり、阿波踊りで歌われる一節だが、今回のフェスティバル/トーキョー10(以下、フェスティバル/トーキョーのことを「FT」、特に2010年秋開催のものを「FT10」と略す。)を振り返り、改めてふと頭に浮かぶのはこの一節だ。観客がいかに作品自体に巻き込まれ、作品を構成し、フェスティバルに関わっていこうとするか。FT10では、その点が問われていたように感じる。

・1 序

本稿は、まずこの作品を十分に享受するという観点から想定された理念的観客の鑑賞体験を通してその細部を記述し、続いてその全体構造を分析することでこれを補足する。

 マレビトの会『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』1(演出:松田正隆)。内容・形式双方におけるこの作品の特徴は、既にこの表題の内に語られている。すなわち、内容としては「HIROSHIMA(ヒロシマ)」と「HAPCHEON(ハプチョン)」という二つの都市、人類史上初の原子爆弾による被害を蒙った街と、それに深い関わりを持ちながら、一般的にはそのことが忘却されているもう一つの街とがその主題であり、形式的には、「展覧会」としての演劇という風変わりな、しかし、本フェスティバルのコンセプトである「演劇を脱ぐ」という言葉にいかにも相応しい試みが本作では採用されていた2

 あなたはたった一人で彼の書いたリストと物語を読んでいる。それを読み上げる声はあなただけが聞く声だ。

 演劇とはなにか。

 時間が流れている、その上に人が立っている。その人の足は地についている。

 「脱ぐ」という言葉から人が連想することは一体何だろう。

舞台前面には下手から数本のブラックライトが平行に並べられ、ワイヤー様の線が各々の端から垂直に天へ伸びていた。 ダンサーたちは一列に並んで登場し、ブラックライトを一本一本またいで前進した。ワイヤーで描かれた垂直の線、一本一本を通過した。

勅使川原三郎は新しい表現を追及し、「光・音・空気・身体によって空間を質的に変化させ創造する、かってない独創的な舞台作品」を生みだす、とパンフレットに謳われている。今回の作品も勅使川原三郎による演出・振付・美術・照明が一体となって、緻密に仕立てあげられた一種の絵巻物のごとき作品となっている。

(こちらの作品は締切後提出でしたので、審査対象外、掲載のみとさせていただいております)

 かねてよりの住処が差押えられ、時に美しい声色で嘆きつつも無為のまま退去を強いられる一群れの人々にチェホフ『桜の園』を彷佛とした私の連想は、無理からぬものかと思う。する事のない間延びした時間、無闇に話される言葉、出し抜けの身振り、倦怠感、危機的な状況に見合わない歓楽が、ひたすら舞台の上を流れていった。
 寒空の街灯のもと口ずさまれた讃美歌の荘厳に涙を禁じ得なかったと、知人は言った。私はむしろ、この場面を笑った。

 チリの鉱山落盤事故で33人が地底700メートルの暗所に閉じ込められ、奇跡の救出を受けたとき、人々は喜びの涙にむせびながらチリ国歌をうたっていた。ふと、このあり得ない奇跡の喜びがもし日本に起きたとき、人々はいったい何をうたうだろうかとBBCの映像を見ながら考えたことを、思い出した。こともあろうに、この『巨大なるブッツバッハ村-ある永続のコロニー』の公演で拍手をしながら。

 公演を見終えて思い出したのは、「ポチョムキン村」のことだった。18世紀の帝政ロシアで、皇帝の視察に備え、その寵臣が急ごしらえで張りぼての村をでっち上げたとされるエピソードである。無論、ポチョムキン村は一時的な視察に堪えるためだけに存在したわけで、「永続のコロニー」と謳うブッツバッハ村と直接の関わりはないのだが、随所に目を見晴らされるような着想や演技を配しつつ、同時に登場人物たちの「薄っぺらさ」が容赦なく暴き立てられているという作品構成に、どこか通ずる要素を感じたのだ。

アルトーのことが好きだ。どこか絶対的な好意を寄せうるものとして私の中に君臨している。しかし、「何故アルトーが好きなのか」、と答われると困ってしまう―答えは「わからない」だからだ。

現代において「アルトーをやる」意義はどこにあるだろうか。有名な「残酷劇」というテーゼを中心とするいくつかの演劇論は、ポスト・ドラマ演劇を強調する今日のパラダイムに都合の良いものの様に思われる。あるいは暴力的な主題の選択。あるいは身体の力の強調。しかし、近年少しずつ見られる様になったアルトーを用いた演劇は、往々にして反アルトー的である様に思われる。アルトーは、演出家の戦略に落としこまれてはならないのである。というより、「アルトーを使おう」とすればするほど離れていってしまうのがアルトーだということができるだろう。では、今日アルトーを読むということが哲学以外でありうるだろうか。残されたテクストから、彼の強烈な思考と身体を経験/直観すること以外に何であるだろうか。

演劇を見る際に、どの程度事前の情報が必要か。今回の舞台の創り手の意図はどこにあるのか。見る人の経歴はさまざまであるが、創り手はどこに焦点をあてているか。万人向けとしたいのか、一部の人にわかってもらえればよしとするのか。今回、私はアルトーという人物に惹かれる一観客としての経験を述べたい。そうすることが演劇を広く深く理解すること、つまり演劇を楽しむことにつながることと思う。

 よく分からなかったというか、あまり面白くなかったというと、なんだか自分が馬鹿であると公言しているようで気が引けてしまう。だが、もともと芸術なんて、この解釈が正しいとか間違っているなどということは本来あるはずがないもので、感じ方は各々の自由であるはずだ。それなのに、他人のブログやツイッター、時には評論を読んでついつい「答え合わせ」をしてしまう。あるいは、創り手が「分かる人にだけ分かればいい」なんて言い方をして、それを批評家が評価して、私一人が劇場でポツンと心もとない気持ちで座っている時などは、「お金払って、時間を割いてきたのに、分かんなきゃ分かんなくていいとか言われて、案の定分かんなくて、遠まわしに馬鹿だと罵られている気もして、私ここで何してるんだろう。」などと思うことがある。特にアフタートークなどを聞いている時はしばしばそういう気持ちになる。

表現でもなく、再現でもない。それらの狭間にありながら、そのどちらをも超越してしまっている何か――それが、私の印象だ。観劇後、冷たい雨に打たれ、暗い夜道を歩きながら、私は目の前に、先程までとは異なった世界が広がっているかのように感じた。
ロドリゴ・ガルシア氏による舞台作品『ヴァーサス』は、私の世界観を変えた。彼の作品は新鮮であり、パワーと情熱があった。しかし、実に不快なものだった。あらかじめ断っておくが、私は敬意をもって彼の作品について述べる。

執筆者の方々の条件を揃える為
ご応募作品のウェブ公開日を、締切後3日以内とさせていただいておりましたが、
媒体で「提出後3日以内」となっておりました。

混乱をお招きした事をお詫び申し上げます。

劇評コンペ講評会の詳細が決定いたしました!!

※本劇評は字数オーバーのため審査対象とはなりませんが、執筆者の希望により掲載します。
 ご了承ください。

ろじぇさんにあたりまえのことがぼくにはわかってないみたいです。だからとてもとてもつまらなかったです。どうしてこんなものをちきゅうのはんたいがわからおよびになったのかしりたいです。えらいひとのおかんがえになることはちっともわかりません。ちゃんちゃん(2010ねん11がつ14にちかんげき、どうげつ23にちとうこう)。

 「お渡しした印刷物の中にあらすじが載っていますので、それを読んでいただければ......」演出家らしき森と呼ばれる男性からそんな前説があった。いや、"前説"ではないのかもしれない。なぜなら、そのまま劇団関係者との会話になり、その最中に森は殺されてしまうからだ。ひげ面の男に背後から脱ぎたての下着で鼻と口を塞がれるという、おぞましくもユーモラスな(?)方法で。芝居はすでに始まっていたのである。

初めて観た黒田育世の舞台は、2009年の「花は流れて時は固まる」である。普段、演劇はよく観るものの、舞踊はあまり観る機会がなく黒田育世の存在をそれまで知らなかった。しかし私にとって、黒田育世との出会いはとても衝撃的なことだった。舞踊という形式に慣れていないということがその理由の一つであるとも思うが、最も大きな理由として、舞台芸術には珍しく、少女のままでいたいという女性の苦悩が描かれていたからだ。舞台上には、男性から性的な対象として見られる存在として苦しむ女性や、自己の性的な事柄と対峙しなければならず苦悩する女性の姿があった。その姿を観て、私は深く共感をした。なぜなら、私もまた少女のままでいたいと願う女性だからである。

 結論からいうと、主人公は迷子にはなりきれなかった。

 それなりの紆余曲折はあった。学校を出て年上の大川と不倫、喫茶店で偶然出会った友人の友人の石田とデート、一人暮らしの決断、唐突のプロポーズ、修羅場の分かれ話、そして迷子ぶりをにじみ出させる「わかんない」のセリフの繰り返し。ところが、突然、凡庸なる幕切れ。主人公は、東京タワーに登ってしまう。多分、「面倒くさい」というくらいの理由で。

大 音量のノイズ。森。本物の。テレビのニュースで見た森で起こったという陰惨な事件の記憶がよみがえる。これからイケナイことが行われるのだ。不安と相反す るアブノーマルな期待感が同時に浮かぶ。金属的な電子音の混ざるノイズ音楽は、恐ろしさに両手で耳を塞いだ時に聞こえる音のようだ。