「袋小路の中で生きるということ」
  <小澤慧美氏>

初めて観た黒田育世の舞台は、2009年の「花は流れて時は固まる」である。普段、演劇はよく観るものの、舞踊はあまり観る機会がなく黒田育世の存在をそれまで知らなかった。しかし私にとって、黒田育世との出会いはとても衝撃的なことだった。舞踊という形式に慣れていないということがその理由の一つであるとも思うが、最も大きな理由として、舞台芸術には珍しく、少女のままでいたいという女性の苦悩が描かれていたからだ。舞台上には、男性から性的な対象として見られる存在として苦しむ女性や、自己の性的な事柄と対峙しなければならず苦悩する女性の姿があった。その姿を観て、私は深く共感をした。なぜなら、私もまた少女のままでいたいと願う女性だからである。


 少女のままでいたい、ということはいつまでも子供の心を忘れずにいたいというような類のことではない。「かわいい文化」と共に、あるいは「かわいい文化」として分析されるような、身体的に成熟しているにも関わらず性的な存在となることを拒否し、いつまでも「かわいい女の子」でありたいと願っているということである。このような「かわいい女の子」でいたいという願望は、主に女性の手によって漫画や文学など様々な媒体から表出している。だが、「かわいい女の子」でありたいという願望を色濃く反映させた作品は、男性の理解を得がたいように思える。なぜなら、「かわいい女の子」でありたいと願う女性たちは、性的な身体を受け入れることを拒否するが、男性たちはそのような女性たちを性的な対象として見、求めるからである。そこにはいつまでたっても相互に越えられない男女の壁がある。
「花は流れて時は固まる」を共に鑑賞した男性の感想は以下のようなものだった。
「女の子がヒステリーを起した時の戸惑いに似てる。何か、そんなことを言われても困るよ、というか...。」
この言葉は「かわいい」を求める女性と、女性を性的な存在として求める男性との埋まらない溝を表しているように聞こえた。そして私はこの言葉に不快感を覚えた。なぜなら、女性が性的な身体を持つ自分と対峙し苦悩をしているのに対し、自分の欲望だけを押しつけ女性の気持ちを理解しない身勝手な言い分のように聞こえたからである。
 だが、物事はそんなに単純なことではない。2010年に黒田育世が構成・振付を行った「あかりのともるかがみのくず」を観て、私はそう思わされた。

 黒田育世は女性ばかりのダンスカンパニーである「BATIK」を主宰しているが「あかりのともるかがみのくず」では「BATIK」のダンサーに加え、男性パフォーマーが3人出演している。「お母さん」をテーマにした作品であると黒田が予め述べている通り、「お母さん」というキーワードや出産を連想させるような言葉や動作が多数あったが、それは単純な母親賛歌や母親に対する畏敬の念の表出ではなく、「お母さん」という存在を通した、男女のやるせないすれ違いと虚しさの表現であった。
 冒頭ダンサーたちは赤い下着を着けて無邪気に走りまわっている。それはまだはっきりと性差が表れていない子供たちの無邪気な戯れである。だが、彼らはすぐに大人になってしまう。「お母さんはまだ歩けない赤ちゃんのために靴を用意したが、赤ちゃんはすぐにお母さんになってしまったのでその靴を履くことは出来なかった」という内容のセリフが舞台では叫ばれ、幼く無邪気で幸福な時はあっという間に過ぎ去ってしまうことが示される。そして、無邪気に走っていた少女は、青いチュチュのようなスカートをはき、男性の性的な対象となるような踊りを踊る。また、別の場面では、「遠くにいる母親に触ろうとし手を伸ばすがその手は折られ自分に突き刺されてしまう」という内容のセリフが叫ばれる。そして伸びた腕に見せかけた枝は折られ、うずくまっている男性に突き刺さる。ここで注目したいのは、女性は性的な身体を獲得することへの嫌悪感、そして男性は母親と別れることに対する孤独感を表していることである。
人はいつまでも母親と一緒にいられるわけではない。大人になれば母親から自立し、生活していかなければならない。しかし、子供にとって絶対的な存在であった母親と別れることは辛いことである。だから人は母親の代わりに、恋人や友人、あるいは自分の夢や目標などから人生における絶対的な価値を得ようとする。そして、多くの場合男性は恋人、つまりは女性に母親の代わりを求めるだろう。男性の理想の女性はしばしば家庭的な女性であり、女性たちに「母性」を求める。では女性は母親の代わりに何を得るのだろうか。女性もまた、恋人や友人、人生の目標などが挙げられるだろう。しかし、女性が男性と圧倒的に違うところは、男性から「母親」の代替者としての役割、また子供を産む実際の母親になることを要求されるという点である。男性に「母親」のような存在を求めても、逆に男性から「母親」を要求される上に、子供を産み、実際に母親にならなければならない女性は複雑で辛い立場に立たされていると言える。だからこそ、女性は性的な身体を拒否し、誰かに庇護される子供のような存在である「かわいい女の子」でいたいと望むのではないか。女性の社会進出により女性は男性と結婚しなくとも生活出来、消費社会では女性をいつまでもかわいい存在でいさせてくれる服や生活雑貨やテーマパークなどがたくさん存在しており、女性は容易に自分を「かわいい女の子」に仕立て、かわいい世界の中に閉じこもることが出来るのである。しかしそれは救いにはならず、単なる避難所としての役割を果たすだけである。また、女性に性的な存在と母性を求めていた男性は、性的な身体を拒否する女性に拒否されてしまう。しかし男性は現在の社会的な制度の中では「かわいい」ものの中に逃げ込むことすらできず逃げ場を失う。そうした男女の行き詰った関係が、辛そうに踊る女性と母親を求めても自分の腕が自分に突き刺さるだけの男性に表されていた。男性も女性同様に辛いのだ、ということを私はここで深く思い知らされた。
では、私たちはそうした袋小路に入ったまま絶望するしかないのだろうか。

ダンサーたちは後半、舞台上に並んで縄を持ち、縄の輪に首を入れる。だが、すぐに首を外し、時刻を叫ぶ。それは死亡時刻のようでもあるが、誕生した時刻のようでもある。「何時何分、何グラム、かわいい女の子」「何時何分、何グラム、少し大きな男の子」そうやってダンサーたちは叫び、舞台上には生と死が同時に表れる。それは希望のようでもあり、絶望のようでもある。そして、終盤、黒田育世は生も死も連想させるような赤いワンピースを着て、渾身の力を込めて踊る。時には叫び、倒れ、しかしまた起き上がり踊る黒田育世は絶望の末にある「死」という逃げを許さないような生命力にあふれていた。その動作の一つ一つが何を意味しているのかは分からなかった。しかし、黒田の汗や息遣い、そして体の動き一つ一つが生きるということの根源を問い、また、表しているようであった。その表現の真摯さによって、観客は肉体ごと舞台に取り込まれてしまう。そして、黒田の肉体による圧倒的な表現力によって、観客もまた肉体を使ってその表現を受け取ろうとするとき、たとえ絶望があったとしても、とりあえず今ここで生きているのだという単純な感動が舞台と観客の間に生じてくるのである。

観念的に考えてしまえば、私たちには明確に示された希望はない。女性は「かわいい」に逃げ込み、男性は女性に逃げ込もうとするが拒否される。しかし、それでも私たちは今現在ここで生きている。その当たり前の素晴らしさを、黒田は自らの肉体を振り絞って私たちの肉体に訴えかけてくるのである。
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