『"共感"を捏造する合唱コーディネーターの孤独』
  <高橋英之氏>

 チリの鉱山落盤事故で33人が地底700メートルの暗所に閉じ込められ、奇跡の救出を受けたとき、人々は喜びの涙にむせびながらチリ国歌をうたっていた。ふと、このあり得ない奇跡の喜びがもし日本に起きたとき、人々はいったい何をうたうだろうかとBBCの映像を見ながら考えたことを、思い出した。こともあろうに、この『巨大なるブッツバッハ村-ある永続のコロニー』の公演で拍手をしながら。

まさか「君が代」ではないだろう。法制化とか教育という問題ではない。日本のリーダーたちは、救出劇のテレビ映像を見ながら、チリの大統領が演出して見せた高揚感を、日本の国歌で盛り上げることの困難に改めて気がついたはずだ。そして、いまバラバラになってしまった日本の中で、なんとか「共感なき連帯」を作り出すために頭を悩ませている日本のリーダーたちが、この『巨大なるブッツバッハ村』の公演を観ていたとしたら、更に追い打ちをかけられるように打ちひしがれてしまったに違いないのだ。その最後のシーンで、ニセものかもしれないが、かろうじて「おお、なんたる喜び!」という"共感"のようなものを生み出してしまった手法の存在に。バッハもマーラーもベートーヴェンも日本にはいない。いったい、日本のどんな曲をつかえば、このような状況を捏造することができるだろう。ドイツ教養主義・ロマン主義の歴史は、メルセデス・ベンツやゾーリンゲンの刃物を生み出しただけではなく、人々をとりあえずまとめてしまう力としての文化の力を蓄えていたのだ。

 『巨大なるブッツバッハ村-ある永続のコロニー』は、ポストドラマ演劇の巨匠と評されるスイス人演出家クリストフ・マルターラーが、舞台美術家アンナ・フィーブロックとドラマトゥルクのシュテファニー・カープとともに作り上げた代表作にして傑作のひとつで、今回が待望の初来日公演。経済危機に遭遇した人々が打ちひしがれもがく姿が、クラシックからポップスまでの幅広いジャンルの曲と絡めて、コミカルにそしてアイロニカルに舞台上に展開される。マルターラー自身が音楽家であり、出演者たちがこぞってプロ級の演奏者であり歌手というこの作品の中では、音楽は単なる味付けではなく、意味の伝達作用を担っている。ここでは、人々の不幸を受けとめ、見つめ、最後にはニセモノの喜びの捏造に加担する"合唱コーディネーター"(Christoph Homberger)に着目して、いくつかの音楽によるメッセージを振り返りたい。

 合唱コーディネーターは、はじめ人々の家具に競売の札を貼っていく係として登場する。人々が悲しむのを眺める中、淡々とその職務をこなしてゆく。そして、人々を明るい別室にいざない、人々に笑い声を作らせ、自ら服を脱いで歌をうたい、再び人々を広場に送り出す。まさに、一肌脱いでの支援。しかし、張り巡らされたアラームが鳴り響き、人々は笑いを失い、不気味な音が延々と繰り返されはじめ、それぞれの世界に引きこもり始める。死を予感させる凶兆であるのか、カラスが啼く。そんな中、人々はゲーテの『ファウスト』のラストシーンを歌詞としたマーラー『交響曲第8番』のフィナーレ「神秘の合唱」をうたう。
  うつろうものは  なべてかりもの
  ないことが  ここにおこり
  ふしぎが  ここになされ
  くおんのおんなが  われらをみちびく

『ファウスト』で無尽蔵に貨幣を生み出す奇術が描かれていることを思い起こせば、「ないこと」の象徴としての貨幣が、まるで「くおん」に導く神の代替的存在になろうとしていることを告げているようでもある。

人々は、ゆっくりと舞台中ほどにあるオレンジ色に光る街灯の下に集い、歌はベートーヴェンのオペラ『フィデリオ』の中で囚人たちが外に解放されるときの「囚人たちの合唱」に変わる。
  おお 何たる喜び!
  自由の空気に息吹を高める!

絶望に打ちひしがれたときに、ひとつの信じるものが生まれたかのようにうたわれるベートーヴェンの曲。オペラの物語が示唆するイメージはもちろん「解放」であり「自由」であるのがだが、この曲は歴史的にも様々な意味をもつ局面で使われている。1938年にウィーンがナチス・ドイツに占拠され、国立歌劇場が再開されたときの演目がこの『フィデリオ』であったし、第二次大戦後にこの劇場が再建落成された1955年にカラヤンが指揮した記念上演の演目もまた『フィデリオ』であった。つまり、ドイツ語圏において、善くも悪くも、この曲は人々がひとつにまとまろうとすることの象徴であり続けており、この作品でもまたその役割を果たしているのだ。

舞台では、気がつくと、オレンジ色に光る街灯は3つになっているではないか。まるで、シューベルトの『冬の旅』の第23曲「幻の太陽」に出てくるあの3つの太陽のように。よく思い起こしてみると、この作品のあちこちで、まるで凶兆を伝えるかのようにカラスが啼いていたのだが、『冬の旅』には第15曲「カラス」がある。人々が打ちひしがれて鳴らしていた不気味な音に対応するかのように、無機的で異様な持続音を鳴らし続ける貧者の楽器ライアーをテーマとした第24曲「辻音楽師」がある。さらに妄想を広げるなら、第21曲「宿屋」というのは、合唱コーディネーターが人々を最初に集めた舞台奥の部屋のことを、舞台美術家アンナ・フィーブロックが奇しくも「宿屋」と呼んでいたことを思い出させる。そう、実はこの舞台には、シューベルトの『冬の旅』が暗示する孤独と絶望のモチーフがあちこちに顔を見せていた。

 ほどなく、人々は再び困窮する。銀行家に泣きついても、帰ってくるのは「金庫は開けられません」という冷たい台詞だけ。すると、人々を励ますかのように、合唱コーディネーターは、新しい歌を繰り出す。ベートーヴェンのオペラ『フィデリオ』の最後のシーンで、主人公"レオノーレ"への愛を歌うアリア「なんと暗い闇なのか」が、"ミリオーネン(=お金)"の賛歌にすり替えられる。更に、バッハの『マニフィカト』にのせて、「私のお金は働かなければならない」と人々にうたわせる。「ルカ福音書1:52」でマリアに対する受胎告知を背景とした曲が、キリストならぬ新しいアイデア"消費信仰"の誕生を寿ぐかのように力強くうたわれる。タイミングよく、銀行家は消費をあおるメッセージを繰り返し、ついに自分で歌をうたい始める。消費信仰の最先端を走っていた頃の米国で大流行したビージーズの『ステイン・アライブ』。これまでの音楽とは違い、自動演奏、そして歌もなんだか歌いにくそう。だが、人々は楽しそうに踊っている。そう、うたえなくても、踊ることならできるのだ。この光景を見て唖然としたのは、合唱コーディネーター。もはや、彼にはこの歌はうたえない。彼のコントロールできる世界ではない。やがて、その喧騒がなくなり、ガレージの中で人々がただ呆然と立ち尽くすだけとなったとき、合唱コーディネーターはうたう歌を失ってしまう。シューベルトの『冬の旅』も、シューマンの『詩人の恋』も、ピアノの前奏だけで声が出てこない。やっとのことでうたい始めた歌は、唐突なる拍手で終わらされてしまう。そう、合唱コーディネーターのこれまでの方法では、もはや人々は立ち直ることなどできなくなってしまっていたのだ。そのことに気づき、合唱コーディネーターは愕然とする。
 
 彼は、もう一度ここに至るまでの道を人々にふり返させる。バッハの『カンタータ第140番』/「目覚めよ、とわれらに呼ばれる物見等の声」。この曲に含まれる、キリストの到来を待つ準備を怠った愚かな乙女たちを戒める「マタイ福音書25:1-13」の逸話は、いまこうして落ちぶれていった「その日、その時を知らない」人々への戒めの言葉。いまの日本であれば、「自己責任」...、そのように言われたかもしれない。その曲の中を、人々はまるでファッションショーのように歩いてゆく。「自由」のあった華やかなる過去を振り返るようにして。

 自然に、音楽はエリック・サティの『貧者のミサ』に変わる。合唱コーディネーターは、いつの間にか服装を着替えて、警察官のように見える。人々は、次第にみすぼらしい恰好になってゆく。合唱コーディネーターは、この曲のタイトルを歌い上げる。
  キリエ・エレイソン
 (「主よ 憐れみたまえ」)

マルターラーは知っていただろうか、「キリエ・エレイソン」がこの国でユーザー数第1位のオンライン・ゲームの中に出てくる呪文だと。この呪文を唱えかけられたものは、防御力がアップし守られるのだ。ただ、それは神によってではなく、ゲームのシステムの中で。そして、合唱コーディネーターが唱えたその呪文は、カトリック教会のそれではなく、まるで人々を人工のシステムの中で守ろうとするかのようなものであった。

 呪文をかけられた人々は、舞台に再び集まり同じ動きを見せる。すくみ、見上げ、寝転がる。不吉な声でカラスが啼く。なんとか起き上がる。そして、小さく肩を動かしながら、小声で「ステイン・アライブ」を歌ってみるが、痙攣するように止まってしまう。合唱コーディネーターのかけた呪文はここで消えて、彼はついに別の歌をうたわせる。かつて、人々が集ってうたったあの歌。マーラー『交響曲第8番』のファウストの歌。ただし、語尾がはっきりしない。もはや、うつろうものたる貨幣を信じることも、消費を謳歌することも幻であるように。
 うつろう...  なべて...
 ない...  ここに...

 やがて、人々は3つのガレージにバラバラに移動し、再びベートーヴェンのオペラ『フィデリオ』の「囚人たちの合唱」をうたい始める。今度は、街灯も光らず、ガレージのシャッターも閉められてしまい、オペラの物語とは逆に、まるで囚人に戻ってしまうかのようだ。静かにただ、ただ、うたう。"共感"のようなものがぼんやりと広がる。
  おお 何たる喜び!
  自由の空気に息吹を高める

 実は、ここで人々は「自由」なのかもしれない。命はあるのだし、3つの場所にバラバラではあるけれども、少なくとも「喜び」を"共感"するフリくらいはできているのだ。その歌声の中、合唱コーディネーターは高らかに笑い声を上げる。そして外に電話をする。成功の報告。舞台の上の絶望的シーンは、舞台の外では成功と見なされていたに違いない。消費社会への批判として作られたこの作品も、混迷を極める日本の現下の状況で観ると、むしろ異なる印象が強く残ってしまう。それは、この合唱コーディネーターの孤独なる決意とその見事なコントロールぶりだ。

 この公演の前の週に、偶然、同じ池袋で、経済学者・岩井克人氏と社会学者・大澤真幸氏の対談が行われた。そこでのやりとりは、この作品への燈火であったかもしれない。
  大澤: 資本主義は最後の選択肢なのでしょうか?
  岩井: いや、選択肢という言い方も躊躇するくらい、
      もはや「それしかない」ものでしょう
      なぜならば、人間は「自由」を知ってしまったのだから。

「自由」を知ってしまった以上、資本主義あるいは貨幣経済からは逃れることはできない。そうであれば、経済的な不況はある程度は避けきれないのだ。であるならば、なんとか資本主義なり貨幣経済と折り合いをつけながらうまくやっていくしか道はない。その時に、事業仕訳・デフレ対策・格差是正などの政策で「共感なき連帯」を構築しなおそうとしても、人々の不安は収まらない。実のところ、人々には「歌」のようなものが必要なのかもしれない。そのことを、この作品は強く印象付けた気がしてならない。「自由」といったところで、この作品の登場人物たちの謳歌していた「自由」などたかが知れているのだ、冒頭の場面で「はあ」と声を上げながら、思い思いに足を上げたりするのだけれど、それは単に流行を追いかけていただけなのだから。

 バッハもマーラーもベートーヴェンもいないまま、バラバラとなってしまった人々に「共感なき連帯」を構築するために、日本のリーダーたちが何をうたわせるのか。その重大なる問題に、この作品を観ることで、日本のリーダーたちが気づいたとしたら、はるばるドイツからこの作品を巨大なる舞台美術とともに運び込んだフェスティバル・トーキョーの大いなる成果といえるのではないか。もちろん、この作品の舞台で踊らされ・歌わされた人々のひとりに含まれるであろう自分は、その捏造の手法から逃れることも考えておかねばならないのだけれど。
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