『再演―時間に触れる試み』
 <中山さよ氏>

風の鳴る音が静かに聞こえ始める。客電はついており、客席はまだざわざわとしている。舞台は奥からのびる光が差し込むだけで、暗闇、といってもいい暗さの中、ひとりの女優が舞台のまわりをゆっくりとした速度で、歩いている。あちこちから台詞のような声が聞き取れないくらいの音量で断片的に聞こえてくる。青いライトが客席を照らし、その中の七つの客席をスポットライトが射抜く。そこに座っていた老人たちが客席を立ち、客席から舞台へ出て行く。舞台へは通常「上がる」ものだが、むしろ客席から舞台へ「降りた」7人の老人たち。本作は、70歳以上のエルダー世代という条件で集められた地域住民とアーティストが共に舞台作品を制作する、というアイホール(兵庫県)のプロジェクトから生まれたものであり、出演者の老人たちは公演のために稽古をしているとはいえ、いわゆる役者の身体ではなく、少し危なっかしい足取りで降り立った。そして、舞台上の白い壁にプロジェクターで映像が投影され、その中で老人たちが死後のことを語る。その後、先ほどの女優が映像の中で入水自殺をし、いったん映像は終わる。


舞台上の老人たちが「わたし」という言葉を連ね始める。彼らが語るのは「わたしは○○だ」「わたしは○○が好きだ」「わたしは○○で生まれた」という全て「わたし」が主語の言葉である。しかし、「わたし」を繰り返しているのにも関わらず、語る言葉は彼らのものになったり、ならなかったりして、言葉が独立し始める。それは、生の声ではなく、話している人物と声が聞こえてくるスピーカーが離れている効果もあるのだろうが、そこで語られる箇条書きのような台詞に矛盾がちらりと翻るのである。例えば、ある老人が「洋菓子メーカーに定年まで勤めていました」「わたしは牛乳アレルギーのため、洋菓子が食べられません」と語る。実際にそうかもしれないし、そうでないかもしれないが、その台詞から、本人の言葉ではなく、7人の中の誰かの言葉、もしくは全く別の誰かから出てきた言葉を引用したものかもしれない、という虚構がふいに立ち上がる。その瞬間に、映像の中の彼らの家や、彼らの趣味すらも、もしかしたら別人の家なのか?演出なのか?という虚構の可能性を孕み始める。

この虚構と現実の錯綜は、日常的な蛍光灯の光と、いわゆる演劇的なライトが混在している照明にも象徴される。出演者の老人のひとりが白い壁に設置された、照明のボタンをあたかも自宅の居間のスイッチをいれるかのようにパチリと押すと、蛍光灯のライトが点く。どこにでもあるありふれたスイッチと蛍光灯。一方で、舞台の下を奥から照らし、舞台の骨組みを見せる劇的なライト。これらの照明も、いわゆる役者でない身体も、現実と虚構を観客にせわしなく感じさせる効果を持っている。また、背景にある横長の白い壁の上部に付けられた蛍光灯の照明が消えた瞬間に、白い壁は真っ白なスクリーンのように見え、これは映画だ、演劇だ、虚構だ、ということを改めて知らしめる演出もある。その際には音楽も劇的な大きさで観客に届けられる。しかし、そこにはやはり出演者の身体があり、虚構ではない、虚構をしている身体がある。劇的に、生身の身体が白々とさらされるのだ。

7人の老人たちの影のように存在するひとりの女優(衣装も黒く、長い髪によって顔もあまり見えない)と老人たちの関係性は、影があるから存在しているといういわば光と影の関係を思わせる。女優を思い通りに動かそうとする老人たちの様子は、まさに生を取り戻そうとしているかのように見えるのだ。そのとき入水自殺し、死んだはずの女優はむしろ生の存在として扱われる。

後半、老人たちは映像の中でこれから先のこと、未来について語る。そこには希望がある。なぜならば、生きているという前提で人は語るからだ。しかし、映像の中の老人はいつのまにか姿を消し、声だけが響く。そこに映るのは誰もいない明るいリビング。やわらかな光が射し、とても居心地がよさそうな、生という空間。誰かを失ったと感じる瞬間は、その人が死んだ瞬間ではなく、いつもいる場所にいない、という日常の不在が顔を出す瞬間だが、まさにその幻影のようなものを見た感覚にとらわれ、あ、もういないのか、と一気に死者の物語へと変換される。

老人たちが舞台前方を歩き、彷徨うシーンがある。若干ぎこちない歩き方や身体の歪みには「わたし」の羅列では捉えきれなかった彼らの「わたし」が見える。歩く、という単純な行為は他者との違いを明確にする。それは「わたし」を語る言葉の内容よりも、むしろ老人たち(わたしたち)の言葉の音が重なりずれるところに「わたし」が立ち上がってくるのと同じだ。「わたしたちは繰り返すことしかできない」という台詞が幾重にも重なり、ずれるシーン。ずらそうとしているというよりも、ずれてしまう、そのずれに個別性を垣間みる。

そして最後に、女優を先頭に一列になり、舞台のまわりをぐるぐるとゆっくりと歩く彼らの姿は、死者の行列のようにも見えるのだが、冒頭の女優がひとりで舞台のまわりを歩いていたシーンと重なり、もしかしたら、最初もこのように老人たちは歩いていたのかもしれない、ただ見えていなかっただけで、という目に見えない何かが立ち上がってくる。そして、客席に座っているはずのわたしも女優の後ろについてゆっくりと歩いている姿がよぎる。むしろ死んでいるのはわたしなのか?というかすかな不安を覚え、生きているという思い込みが揺らぐ。スポットライトで射抜かれる可能性は客席にいる誰しもが持っている。むしろ青い光の中にいたわたしたちは皆同一で、観客はその瞬間に一度死んでおり、選ばれた7人の老人たちが、天使のように舞台に降りたのだった。彼らは「わたしたち」から選ばれた「わたし」なのだ。わたしたちと同じように老人たちが座っていた客席に置かれた、彼らの台詞が聞こえてくるラジカセによってもその「わたしたち」の一部だった彼ら、が強調される。

最後に、入水自殺をした女優がプロジェクターで映像が投影されている壁の前から、プロジェクター本体に近づいて行き、電源を落とす。光源に近づくにつれ、彼女の影は大きくなり、映像から彼女が出てきたかのように錯覚する。その一方で、映像が、舞台が、彼女の中にあったかのように収束していくようでもあり、この舞台自体が彼女自身の物語であったかのようにも見える。その女優が背負っているのは、彼女が語る、生や歴史というかなり大きな「わたしたち」の流れだ。その「わたしたち」の中に「わたし」を発見する瞬間、ただ生きているということが肯定される。個別性は常に類性と共にあるのだ。ただ、それは着替えるときに一瞬見える裸くらいの短さでしか維持できない。すぐに見慣れたものになってしまう。ここでの裸というのは誕生といっても良いかもしれない。そして、大きな「わたしたち」の流れと「わたし」を出会わせた使者は、7人。暗闇の中、老人たちが座っていた客席に置かれたラジカセからは、「わたしはミカエル...」「わたしはラファエル...」と七大天使の名が聞こえてくる。

今回の公演も再演ではあるのだが(残念ながら初演は見ていない)、今後の再演について、ポストパフォーマンストークにて演出の相模友士郎は「再演を重ねる度に、出演者が1人減り、2人減り...、でもテキストと録音だけが残っていく。それでも再演し続けたときにどうなるのか。」と話していた。初演は約一年半前という最近のことであるが、たしかに今後、再演をすることになったときに7人の老人たちはもしかしたら死んでいるかもしれない。そうでなくても年は重ねている。もちろん、観客側にも同じことが言える。そのとき、より演劇という生きものを感じることができるに違いない。舞台は生ものだというが、むしろ「ドラマソロジー」は生きものである。再演を重ねる度に成長して行くのだ。そして、成長は老いる、と同義であるということを再び教えてくれるに違いない。
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