『反復する時間の先にあるもの』
  <内田俊樹氏>

 人の数だけ想い出は存在する。
 ということは、地球上には、今この瞬間、69億900万人もの想い出が存在し、さらには刻々と増加しているということになる。中にはいらない想い出もあるかもしれないが、忘れてしまわない限り、それもまた想い出だ。


 自分の周りを見渡してみる。親、兄弟、友人、との間の想い出。さらに偶然道ですれ違
っただけの見知らぬ他人との間にも、こちらが気づかないだけで、もしかしたら相手にとっての想い出が存在しているかもしれない。
『ハロースクール、バイバイ』にはそんな想い出の数々が、パイ生地のように幾層にも重ねられている。舞台は中学の女子バレーボール部。ならばやはりこのパイは、甘く、酸っぱくなければなるまい。

 受付を終えて客席に着こうとする観客の目に飛び込んでくる、舞台上でウォーミングアップを繰り返すユニフォーム姿の役者たち。舞台上に流れる架空の時間に、観客個々の時間をシンクロさせるための装置として、彼女らはそこに配置される。座席に腰を下ろせば、観客は芝居を観に来たのではなく、バレーの試合を観に来た中学校の同級生(もしくは両親や兄弟)のような錯覚を覚えるはずだ。
入念なウォーミングアップを終え、試合開始(開演)を迎えた瞬間、彼女らの動きが激しくなる。放たれるサーブ、めいっぱい手を伸ばしたブロック、大きな声、レシーブからすかさず態勢を入れ替えて攻撃へ。白熱した試合のど真ん中に観客は放り込まれることになる。
 舞台上にボールはない。エアギターならぬエアバレーだ。だが、実際のバレーの試合を再現したに違いない動きには、ボールがないことのハンディはない。それどころか、手に汗握るラリーに、ついこちらも見入ってしまう。"熱く"なるのだ。
 試合の合間合間に、彼女たちの想いが、映画のカットバックの手法を用いて挿入される。構成としては限りなくシンプルだ。だから人によっては単純の一言で済ませてしまうかもしれない。
「それで、そのお芝居って、どんな話なわけ?」などと訊ねられたら、「いや、ほら、それは、バレー部の話でさぁ・・・」のように、しばし返答をちゅうちょしてしまうに違いない。
 マームとジプシーの芝居では、特別な事件など起こらない。たぶん、起こる必要などないのだろう。≪幸せとは、平凡に日々を送れることだ≫と、誰かが言ったような気がする。今日の次には明日が来て、明日の次には明後日が来る。この何気ない時間の流れは、しかし、まったくの変化なしではない。そもそも同じ時間など存在するはずもない。だから、いっけん同じように見えたとしても、それらは明らかに別物なのだ。ダイヤが見る角度によって輝きを微妙に変化させるように。
  転校生の少女は誘われるままバレー部に入部する。これまで帰宅部でしかなかった少女は戸惑いながらも入部を決意。練習を続けるうちに、徐々に上手になってはゆくものの、特別上手いというわけでもない。それでも仲間の一員となり、彼女たちと一緒にいられるのが嬉しい。先輩が卒業し、新人戦目指して初の合宿、本番、そして突然の別れ。文字にすればたったこれだけ。
 しかし、ストーリーの単純さ=内容の軽薄さ、とはならない。逆に単純な中に、実は多くの想いが何層にも塗り込められているのに、はたと気づかされる。そして、それを最も印象的に表現しようと考えた結果、作・演出の藤田貴大が取った表現方法こそが、マームとジプシーを他の劇団と明確に差別化する要因となった。具体的に挙げると、
①時間の反復
 約一時間半の上演時間中、何度となく繰り返される同一シーンは、しかし、その時々によって役者の立ち位置を変えながら繰り返される。最初はなんで位置が異なるのか不思議に思えたのだが、同じシーンであっても、想い出す者によって想い出の内容が異なるように、微妙に違いがあるのだ。同じ時間、経験を共有しても、あなたと私の想い出は同じじゃないという当たり前の事実。その微妙なズレを、カメラアングルを変えるように、役者の立ち位置を変えることによって、可能たらしめている。だから同じではないが、類似した時間の繰り返しでも、そのたびごとに新しく見ることが可能なのだ。この時間に対する圧倒的な執着は他の追随を許さない。
 ②複数の視点
 普通、舞台の視点は役者ではなく第三者(神の視点=作者の視点)となるはずなのに、この作品では、登場人物それぞれの視点で構成されている。例えば、登校中に偶然顔を合わせたサッカー部の少年を自分の傘に入れてあげる少女の視点。一つの傘に身を寄せ合って登校する二人の様子を校舎の上から見ていた、彼に好意を抱く別の少女の視点。さらには濡れずに済んだ少年の視点。それらがそれぞれの想いを抱きながら、描かれる。だから同じシーンといえども、三者三様なのだ。主人公は一人じゃない。誰もが主人公としての視点を有しているのだ。
 ③14歳へのこだわり
 前作『しゃぼんのころ』の登場人物も14歳だった。それ以外の過去作品を眺めてみると、明確に年齢設定がされていないものの、どれも子供時代から十代半ばへと至る流れが、作品の重要な要素として不可欠なものであることが分かる。
 以前、少年犯罪の低年齢化が話題になった時、そのキーワードがまさに14歳だったことを記憶している方もいるだろう。ニュースでもさんざん取り上げあれ、社会現象にもなった。そんな世相を反映し、『14歳』(楳図かずお)、『14歳の君へ』(池田晶子)、『14歳の子を持つ親たちへ』(内田樹・名越康文)、『14歳からの社会学』(宮台真司)等々、14歳をタイトルにした著書が多々あることからも、いかにその年齢が重要なのかがうかがい知れる。今の時代、若者のリアルな心情を描くなら、14歳というキーワードは避けては通れなくなっているのかもしれない。きっとそれはすべての十代にとっての<マイルストーン>であり、これからもそうであり続けるのだろう。少なくとも作・演出の藤田貴大はそう考えているはずだ。そうでなければここまで執拗にこの年齢にこだわるはずがない。

 これら三つの要素に加え、今作には、14歳の精神が持つネガティブ面だけでなく、同時に成立するポジティブな身体面にもきちんと目を向けていることは、書き記しておいても良いだろう。精神と身体は両輪なのである。特に14歳にとっては、精神面以上に、日々大人へと変貌を遂げる身体に、より複雑な感情を覚えることも往々にしてある。ここではそのような要素を内包しつつあるのであろうが、それよりも、若さゆえ、躍動する身体のエネルギーの放出を、バレーボールの試合を通して表現しようと試みている。舞台を動き回る役者たちは、実際に汗をかき、呼吸を荒げ、大きな声でお互いを励まし合う。言い換えれば、思うようにならない己の身体と格闘することもまた、14歳の大いなる特権であると言える。

 想い出はいつだって甘酸っぱく、時に苦くもあるが、おしなべて美しい。なぜならノスタルジー(郷愁)という衣装をまとうから。
『ハロースクール、バイバイ』は、そんな想い出の集積のような作品だ。
そこにはすでに大人となってしまった我々とは別の時間が存在している。それはかつて我々にも存在していたはずなのに、いつの間にか失ってしまった時間。精神と肉体のアンバランスさに手を焼き、翻弄され、戸惑うばかりの14歳を描くこと。そこに今の日本人が抱えた問題の一端が浮き彫りにされる。なぜなら彼ら、彼女らこそ、日本の未来なのだから。
 マームとジプシーの芝居は、常にそれを問いかける。
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