『アルトーへの好意』
  <杉本実穂氏>

アルトーのことが好きだ。どこか絶対的な好意を寄せうるものとして私の中に君臨している。しかし、「何故アルトーが好きなのか」、と答われると困ってしまう―答えは「わからない」だからだ。

地点の公演を観るのは二度目になる。一度目は今年一月の『あたしちゃん、行く先を行って―太田省吾全テクストより―』東京公演であった。戯曲ではなくテキストを上演したこの舞台は私に鮮烈な印象を残し、日常の中の言語からの脱却と、劇の中の言語の創造とを感じさせ、太田省吾のどこか"ぼんやりとした"テクストが発語されることで力と新たな意味を獲得していくのを覚えた。実は何故これを見に行ったのかと言うと、太田省吾は私に強い影響を与える人物だからである。そのこともあって、次の公演がアルトーだと知ったときはその偶然に驚き、また、アルトーのテクストの扱いに対して大いなる期待と楽しみとを抱いていた。

そのような運命的なことから辿り着いた舞台『――ところでアルトーさん』である。開演前の真っ暗な舞台には、なにやらもう一段高く作られた舞台があり、その上にアルトーの顔写真がライトを一身に浴びせられ、舞台の上にいた。いや、曝されていた。これは僕に、舞台上に引きずり出されてこれから何をされるであろうかとびくびく戦くアルトーの様子を思わず想起させてしまって、そのおかしさに思わず笑ってしまった。(この笑いは、アルトーに対する私の好意から来るものである。)

開演して舞台全体が照明にさらされた時、もう一段高い舞台だと思っていたのは水の張った水槽だと分かった。一面の水の上にアルトーが逃げ場もなく立たされている。長靴をはいた俳優たちは、次々にその水に入り、ときには着ていた服を投げ入れ、はたまたそれを掬いあげ、去っていき、また歩き出す。アルトーのテキストを読み上げながら。歩きながら、マイクを通しながら、叫ばれながら、手旗信号のような動きをしながら、アルトーのテキストは読み上げられていく。地点特有の発語によって。この普段であれば敬遠されてしまうような地点の言葉遣いは、アルトーのテキストの一語一語をはっきりと私達に刻み込んでいく。

演出家の三浦氏は、この舞台において、アルトーをもう一度拷問にかけると宣言していたが、この拷問は成功したと私は考える(尤もアルトーを拷問にかけると聞いた瞬間、私は大変な動揺と反発、そして拷問の失敗を願ったものだが)。ただ、アルトーという人物について共通に言えることがある。アルトーは勝手だということだ。まず、アルトーのテキストは矛盾だらけに思える。例えば、こんな手紙をアルトーは知人に送った。
『わたしには金がない
 わたしは
 アントナン・アルトー 
 だからわたしは金持ちになれる、
 ものすごい金持ちに今すぐにでもなれる
 わたしがその気にさえなれば。問題はしかし、
 わたしがいつも金と財産と富を嫌悪してきたこと...』
これは、まったくもって支離滅裂で、矛盾に満ちた文章である。こんな勝手な文章をアルトーはいくつも書いてしまっている。さらにこのことからアルトーは、一方的に一見意味不明な手紙を知人に送りつける強引さ、滅裂なテキストを発表する向う見ずさ、自分が理解されないとなると相手を責めるといった分からず屋といった自分勝手な性格をうかがわせる。しかしそんな人であるにも拘らず、晩年になると多大なる評価と支持、支援者を得て、最高の状態に昇りつめたままこれまた勝手に死んでしまうのだ。その死後も、アルトーの影響を受けた人々が続出し、ある種の神格化された存在となって今日まで語り継がれている。アルトーは決して不遇な人ではない。さらにはアルトーについて回る"狂人"という言葉も、アルトーを守るものとなっているであろう。アルトーの常人にはすぐに理解の出来ない手紙やテキスト、発言といったものを私たちは目にした時、「この人は狂っているからこんな文章を書くのだ、狂っているのだったら仕方ない」と考えてしまう。現に、麻薬中毒の幻覚としか考えられないテキストはいくつも存在することが、この「狂っているからこんな文章を書いたって仕方がない」という理論をより結び付ける。従って、否定されるのはアルトーの"狂人"出会って、アルトーのテキストは直接的な非難を免れる。"狂人"に守られているということが言えるだろう。

 そんなアルトーのテキストを、三浦氏は地点特有の言葉遣いや動きを持ってばらばらにし、その言葉一語一語を明らかにしていき、アルトーのおかしさ、矛盾の生まれるところを暴露し、舞台上に呼び戻されたアルトーにぶつけていく。アルトーはそれに対する反論も、怒りも、目を背けることも出来ないのだ。さらには、舞台上に掲げられたアルトーの写真の下に広がる水面に俳優は侵入していく。それはまるで、今は形を亡くしたアルトーの身体をそこに再現し、引っ掻き回していくかのようだ(そう思うと、水面から伸びるアンテナもアルトーの身体が伸びているようにも見え、受信機はアルトーの身体というアンテナからアルトーの言葉を受け取っているかのようにも見えてくる)。アルトーは、何も出来ずにただそこにいることしか出来ない。これは、アルトーに対するまごうことなき拷問である。

 しかしその一方で、こうも考えられるのではないだろうか。アルトー自身を拷問し、攻撃を加えるという行為は、"狂人"を取り去った"アルトー"と向き合うということである。アルトーに偏見を持たず、一人の演劇人、または思想家のようにしてアルトーを見なければ、"狂人"の言葉の中について回る「仕方がない」という失礼な意味合いの連鎖から脱却しなければ、アルトーを一人の思考を持った人間として対等に攻撃することは不可能であるだろう。すると、と逆説的なことであるかもしれないが―――この劇において、アルトーはその存在、その言葉、その思考を、"狂人"のものではなく正しくアルトー自身のものであると認められているということになるのではないだろうか。その上、この対等という立場から言うと、死後に神格化された存在となってしまったアルトーを、元の人間として取り戻し、素直に疑問をぶつけるということにも繋がるであろう。私達はアルトーのことをアルトー自身に問いかけるということが必要であったのだ。そのために俳優はテキストをただ読み上げる。"役"ではなく"読み上げる人"となって。アルトーが正解なのか、不正解かということを述べるのではなく、アルトーのテキストを地点特有のあの言葉を使って。だから私は、アルトーのテキストが矛盾するところを、そしてその内容を「分かった」と思ったのだろう。アルトーにあの言葉遣いはとてもよく合っていた。

 俳優はテキストを読み上げる、もしくは私達と一緒になって読む。観客はそれを聞く。観客はふと、あれ?と思う。そこで反論する「――ところでアルトーさん」、と。狂人ではなく、アルトーという人の書いたテキストに真正面からぶつかり、反論していく。その反論の呟きは俳優に向けられ、俳優はアルトーに反論していくのだ。こうしてこの劇は、アルトーと観客との媒介となって作用し、さらにアルトーを現在のこの場所に引きずり出す機能となっているのだ。さらには、俳優と観客は同じ立場に立ち、アルトーに対する問いを発していく。演劇に答えやたった一つの心理、何かのオマージュを信じてしまっていた自分自身に気付かされた。そういった点で、アルトーは大変良い例であったと思う。あ第一、アルトー自体が何らかの答えを持っているということはないのだ。

 私の絶対的な好意対象として君臨していたアルトーは、神格化された絶対的であるという現在のイメージと、過去の狂人というレッテルへの自由さに対するあこがれが強かったことが分かった。反省した。私はアルトーを問い直す必要がある。アルトーを神格化でも、狂人でもない新たな見方を持って。しかし、そういった要素を除いても、まだ私の中に何故かアルトーを好きだと感じる気持ちが残っている。この理由はいまだに「わからない」ままだ。もしかしたら、これが本当の単なる好意なのかもしれない。
(3,313字)


手紙の文『アントナン・アルトー伝 : 打撃と破砕 』 スティーヴン・バーバー著 ; 内野儀訳
白水社より引用