「劇評を脱ぐ  ―ロジェ・ベルナット構成・演出『パブリック・ドメイン』劇評
  <森川泰彦氏>

※本劇評は字数オーバーのため審査対象とはなりませんが、執筆者の希望により掲載します。
 ご了承ください。

ろじぇさんにあたりまえのことがぼくにはわかってないみたいです。だからとてもとてもつまらなかったです。どうしてこんなものをちきゅうのはんたいがわからおよびになったのかしりたいです。えらいひとのおかんがえになることはちっともわかりません。ちゃんちゃん(2010ねん11がつ14にちかんげき、どうげつ23にちとうこう)。

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〔パブリック・ドメイン〕とは何か、何であるべきか。それは通常「公有地」を指す法律用語だが、ここでは「公共の領域」と捉えておく。以下、本稿が扱うのはその一例、すなわち、劇評コンペという公けに広く開かれているべき場をめぐる諸問題である。その出発点として、私がいかなる芸術作品批評(劇評)を書こうとしているのかを明らかにしておこう。劇評の外延「を脱いで」劇評の内包へ、このフェスティバルの理念、「演劇を脱ぐ」に対しても忠実な試みだ。

〔劇評〕とは何か、何であるべきか。芸術作品の批評には、鑑賞前に読むことを念頭においた紹介型呼び込み型の批評もあるが、演劇の場合、重要なのは鑑賞後に読むものである(読者の眼に触れる頃には大抵終わっているからだ)。私がささやかながら作品評として綴ってきたのは後者であり、それらは、対象となった舞台を実際に観た観客一般を読者に想定しつつ、主として彼(女)らの役に立つことを目指して書かれている(副次的には舞台の作り手も念頭におかれているが)。ここで「役に立つ」とは、対象となった舞台の観劇体験を「事後的」に豊かにすることを意味する(副次的にはその後の鑑賞能力一般を「事前的」に高める一助になることも含むが)。
我々が日常を生きる限り、己を取り巻き絶えず流転する諸現象を定型化単純化して捉え、物事を効率的に処理すべく構えるようになるのは不可避である。芸術体験とは、一言で言えば、そうした形で常に我々を束縛している固定化された既成の現実把握が、具体的作品の享受を通じて変革されることによる解放の経験である。既成の秩序を破壊するためには過剰を孕んだ逆説的構築(言わば真の秩序に対する偽の秩序)が必要とされ、芸術と呼ばれるそうした特殊な時空において、日常的現実の文法では出会うはずのなかったものが出会い、変わるはずのなかったものが変わり、生まれるはずのなかったものが生まれるのだ。
そしてかかる快楽は、単なる感性的受容にとどまらず知性的判断と結びつくことにより引き出されてくる(無論、知性をさらに理性や悟性や想像力等に細分しうるし、感性と知性の二分法も疑いうるが、ここでは論じない)。また言語による経験の構造的分節化を考えれば分かるように、感性自体がそもそも知性に規定されてもいる。そして芸術体験は、単なる一回的受容に終わらず、その後も想起を通じた反復的経験として様々な出来事と触発し合いながらその強度を高めうる。従って、鑑賞後に言語を通して個別的作品の理知的理解を深め、感覚的記憶の再編を図るのはそれを意識的に進める方法の一つであり、ここに作品批評の存在理由(の一つ)がある。平たく言えば、一夜のエンターテイメントとしてその場を楽しめば事足りるショーと異なり、十分な鑑賞のためには感覚を研ぎ澄まし知性を動員しなければならない舞台については、それについての言説を事後に読む価値があるということだ。そもそも狭義の鑑賞体験自体が、知性を用いて批評(する)体験を内に含む。それが優れた言説であるならば、読者は自らの鑑賞経験を、その内容と照らし合わせ問い直すことで遡及的により豊穣なものへと更新することができる。つまり、批評を読むことそれ自体が、具体的な芸術体験そのもの(の一環)となりうるのだ(また批評を書くことも、繰り返し鑑賞の現場に立ち返る機会となることでそれを構成しうる)。そしてかかる革新経験は、その後の他の作品の鑑賞体験へと広がっていくだろう。
それでは、観劇体験をこうした螺旋的上昇へと導く劇評に必要とされるものは何か。それは、どこまでも作品(体験)に即したその構造と細部に関する的確な記述(・描写)と分析(・総合)である。当事者的になされる記述は、それを読む者が批評者の作り出す理念的観客の経験を追体験することを可能にし、それを通じて見落としていた細部を把握させる。その際描写においては、多方向に広がる諸要素を整理し、それらが纏う抽象的理念的意味を的確に指摘しつつも、それに還元されない具体的物質的感覚を紙幅の許す限り掬い取らなければならない。他方、第三者的になされる理論的枠組の提示とそれに基づく分析は、作品の全体構造と各部の連関を提示することで、理解していなかった文脈を把握させ、細部をそこに位置づけ直すことを可能にする。当然、新たな文脈に従ってそうした細部の意味は変容してゆく。その際総合においては、その理論的一貫性を保ちながら錯綜する諸文脈を整序し、どの順序で何をどれだけ記述するのが効果的かを考えてゆかねばならない。決定的に重要なのは、読者が批評を通じて、明晰な理解に基づき適切な想起を伴って作品を豊かに再体験できることなのであり、批評者は、与えられた制約の範囲でそれを実現すべく努力する必要があるのだ。対象を批判する場合は、与件から当然生み出されるべきものが生み出されていないと言明するわけだが、それもあくまで作品体験から出発しそこに内在した諸要素が十全に機能していないという観点からなして初めて、芸術体験としての批評体験を広げうる。具体的対案を示すのもその手段であり、それは「あるはずのないもの」をねだっていない証明になるというにとどまらず、「あってしかるべきもの」を具体的に召還し様々な代替的空想への途を開くことで、批評体験を再鑑賞体験としてより創造的なものにしうるのだ。
以上は、既成戯曲の内容を超えた政治、経済、社会、歴史といった要素への参照が、作品体験の中核を占める、いわゆる社会派(あるいはブレヒト派)作品の場合でも変わりはない。そうした「作品の外部」と呼ばれもする文脈も、かかる鑑賞体験においては「作品の内部」なのであり、そこで働く記号配置の構成要素に過ぎない(重ね合わせゲーム)。すなわち観客の受容体験に定位すれば、それを深化させうるものはすべて内部に取り込むべきなのであり、外部とはそこで無視してよい要素に他ならず、かかる意味では作品に外部はない(「作者」概念を問題にしない本稿において「作品」とは、ほぼ「テクスト」と同義の概念である)。一切は、芸術体験の質(構築を通じた破壊)を高めるかどうかという観点から、組織され受容されるべきなのだ。
次には、私が仮想敵とする批評(家)について論じよう。同じく劇評の外延「を脱いで」今度は劇評(批評)の非内包へ、これまたこのフェスティバルの理念に実に忠実な試みだ。

〔あたりまえのこと〕とは何か、何であるべきか。これを縷々述べてきたのは、この当たり前のはずのことが当たり前でないからに他ならない。つまり、それほどマイナーとも思えぬある種の雑誌を手に取ってみれば、そこは作品に内在することが要求する面倒な手続を回避し、安易に外部のイデオロギーを持ち込んで裁くことに汲々とするもので溢れている。知性も感性も何ら刺激を受けず、ただ書き手の党派的所属が知られるばかりといった代物でも、敵がこき下ろされることで溜飲を下げ、味方がいるという安心を得られるために、そこそこの需要があるわけだ。ゼロ年代とはボンクラ右翼とボンクラ左翼が対になって復活した時代であったが、演劇の場合後者がほとんどであり、上品に言えば文化左翼の、下品に言えばボンクラサヨクの政治(経済)批評がのさばっているのが現状なのである。労働価値説を解さずして搾取を言挙げし、ケインジアンとマネタリストの区別も付けられないがネオリべは批判し、比較優位も分からず反グローバリゼーションを唱え、覇権安定論も踏まえないがアメリカの覇権主義は糾弾し、流動性の罠も知らないが金融危機についてはしたり顔で語るといった無残な光景がそこには広がっている。いわゆる先進国の有名大学に巣食ってはいても、実際の政治経済運営への影響力などほとんど持たず(つまりはまともな専門家からは相手にされず一般国民の支持もなく)、その意味ではいたって無害な連中ではあるが、芸術に逃げ込んで体制ルサンチマンを晴らそうとする点では、大いに有害なのである。
いわゆるポスコロ・カルスタを全否定しようと言うのではない。サイードらが明らかにしたことの中には、文化や社会の理解を大きく深める事柄が含まれており、使えるものは何でも使って芸術体験を向上させるのは芸術批評の役割である。また、特にマイノリティをめぐるその分析には、(狭義の)政治を論じるためにも踏まえなければならないものが多数含まれている。しかし、彼(女)らの「仕事」を冷徹に捉えることなく、ただ自らのルサンチマンを正当化してくれる偶像を見出し、その「人格」にイマジネールに同一化していくばかりでは何も生まれはしない。そして、すべては政治的だと言えるからといって(概念を薄めれば何とでも言える)、芸術作品をダシにしてベタな政治的主張をなすことが正当化されるわけではない(ギリシャ悲劇の政治性など持ち出しても同じことだ)。政治(や経済)において何事かを主張するためには、その分野の先行研究を踏まえて適切な理論化を図り、実証的データを集めるという当たり前の手続が必要なのである。さらに、そんな政治信条にとって都合が良いかどうかを基準に芸術作品やその批評を評価することが許されるわけでもない。芸術の優劣は芸術的価値によるのであって、政治的価値や経済的価値によるのではないのである。例えば、ロシア・アヴァンギャルドの共産主義宣伝ポスターは、その政治的効力の通じない反共主義者をも揺り動かすし、ロートレックの広告ポスターがもたらす快感は、集客力という商業的効力を超えた過剰なものである。そうした効果に還元され尽くすならその表現は宣伝ないし広告に過ぎなかったのであり、還元されなかったその核心こそが芸術(の力)なのだ。そしてそれに十全に感動するためには、かかる意味での芸術の自律性を正面から認め、意識的にも無意識的にもそれを他の価値を理由に抑圧してしまわない構えを身に付ける必要がある。左翼的芸術・批評による右翼的秩序の転覆は、無論、実り豊な経験でありうるが、その逆もまた真なのだ。革命家が一度権力を握れば独裁者へと変貌してゆくのが稀ではないのと同様、かかる転倒が直ちに左翼的秩序による弾圧へと転化しうることを自覚しなくてはならない(かかる意味で芸術は永久革命である)。
続いては、以上を前提に昨年の劇評コンペ優秀賞受賞作を批評しよう。劇評「を脱いで」劇評評へ、このフェスティバルの理念に実に実に忠実な試みだ。

〔とてもとてもつまらなかった〕とは何か、何であるべきか。それはさる劇評を形容すべき修飾句である。私はサンプル公演を観ておらず、百田知弘氏の劇評を読んでいない(今後観る可能性のある観ていない舞台の批評を私は原則として読まない)。柴田隆子氏については問題が少ないので省略する(ないとは言わないが「紙幅がない」)。つまり、堀切克洋氏のものだ。
まず一読して分かるのは、この書き手が法律学(や行政学)の素人だということである。「国土交通省の理解もあって・・・法律に例外を認めさせたという事実」とか、法をめぐる表現はいい加減で、その書き振りからは、かかる事実と「国土交通省にそれまでの運用の例外を認めさせた事実」との違いも分かっていないようだ。しかし行政は「日本の法律に抵触する」ことがあってはならないのであり(「法律による行政の原理」が近代法治国家の大原則である)、お役所はそれを公認したりはしない。この点で自らを正当化しようとアクロバティックな文言解釈を駆使するその涙ぐましい努力は、しばしば喜劇的でさえある(従って、それは演劇ひいては芸術一般の素材になりうるが、そうした初歩的知識を欠く者にはなしえまい)。勿論、しばしば彼(女)らの言い張る合法は他人には違法だが、それはまた別の問題である(そのためにいわゆる行政争訟制度が整備されている)。続いて披露されるのは、経済学の素人でもあるということだ。マクロの問題もミクロの問題も一緒くた、長中短様々なレンジを区別して考えるべき問題がごた混ぜであり、詰め込んだ様々な項目の因果関係や論理関係をきちんと理解しているわけがない。そして、ジャーナリスティックに膾炙したネオリべ批判の紋切型を並べればすむと信じている彼には、当然、市場メカニズムが持つ光と影の両面を冷徹に見つめようとする姿勢が欠けている。
といって、だからこの批評が駄目だと主張するつもりはない。これは法律評論や経済評論ではなく、芸術評論なのだから(有難がる人がいるので論及したまでだ)。問題はこの先にある。氏は、運転手の「羨ましい生活水準」を知りデコトラ内部の快適さを見て、「わたしたちは予想を『裏切られた』思いをしたはずである」と記す。そして「この公演によって、リミニ・プロトコルが切り込もうとしているはずの『現実』が覆い隠されてしまうこと」に疑問を呈している。つまり、彼には予め作品を観る前から観たいものが決まっており、そしてそれが作者の作りたいものでもあると思い込み、それを確認できなかったが故にこの公演は「本物ではない」のである。その「観たいもの(=現実)」の愚かさについては繰り返さない。「思い込み」については、書いたことよりやったことを見よと言っておこう。ここで問題にするのは、作品の力に虚心に向き合いそれを最大限に受け止めようとする態度の欠如である。彼にとって目の前の運転手はただ貧困に喘いでいなければならない存在であり(さらに、この世の不正など訴えかけてくれれば申し分なかったろう)、そんな理念型からは零れ落ちる残余には心を閉ざしてしまうのだ。
あの公演において、普段はただ物を運ばせていた人が物として運ばれるばかりか、新奇なものを観に来たはずが新奇な目で観られるという居心地の悪い逆転が醸し出すイロニーを感知したのか。そして、自らをそうした唯の物(客体)の地位まで引き下げることで初めて身を置くことができる巨大な物流の機構を体感し、そこから反転して人を物として埋め込む巨大な人流の機構へと想像を巡らせたのか(また同じくボンサヨるとしても、これを踏まえ、せめて「疎外」だの「物象化」だのを口にできないのか)。観客を載せたトラックに対し無謀な競走を仕掛る謎の自転車が不意に出現する光景に、本来競走関係にない両者が仮初に結びつくことがもたらすユーモアを感受したのか。そしてかかる「競走」が、大倉庫で圧倒的な存在感を見せ付ける巨大企業と運転手のような零細企業の間の「競争」に対し、運転手の立場(優劣)を入れ替えた主題論的な逆平行関係にあることへと思考を走らせたのか。物を運ぶ道具に過ぎないはずの存在でありながらその本来の目的からグロテスクに逸走したデコトラに眼を見張り、さらにはその目的が交通安全の啓蒙だとぬけぬけと言い放つその運転手の口振りに我知らず微笑みながらも、同時に、その乗り物ばかりか自らが、日常の目的を遥かに逸脱したグロテスク極まりない存在であったことを自覚していたのか。つまりは運輸行政上の規制と日常的な自己規制、あるいは(交通上の)違法と(芸術上の)侵犯が重なり合う中、それが逸出の笑いを介して一層交錯を深めたさらなる芸術的瞬間を逃さず捉えることができたのか。漠然と聞き流していた歌声が目の前を横切る車内でマイクを片手に熱唱する人物のそれだと気づく時、物理的には全く同じはずの声が一変する有様に不思議な眩暈を覚えたのか。そしてその感覚が、無意識に把握し予期していた事物の距離感を一瞬にして乱されたことからきており、そうした齟齬が、新潟を出発したと言いつのり、ヨーロッパの車外風景を映写する彼らが作り出そうとする時空と通底していることを理解しているのか。そこにあるのは、いわゆる現実の持つリアリティを利用しながらも虚構を幾重にも織り込んだ他のどこにも実在しないフィクショナルなものであり、それを思わず頬を緩めてしまう瞬間を散りばめながら実現するのがリミニの凄さである。そしてブレヒト的異化の現代版というべきそのズラシ、言わば「なんちゃって」精神が生み出すその高度な構築と破壊を十分に享受するためには、己の感性を日常の枠から押し広げ知性を惰性から解き放ちながら、言わば「現実と虚構の狭間」に身を置く必要があるのだ。
この作品が、堀切氏にとり「小学生の『社会科見学』」に映った理由は明白である。元々お決まり教訓を引き出すべき社会科見学のつもりでやって来たのであり、小学生並の感性と知性しか備えなかった氏にそれを脱することなど叶わなかったのだ。彼と同様リサーチ不足(特に日本側スタッフのそれ)への不満は大きいが、それは「運輸」や「規制」、さらには「人と物の置換」といったこの作品の根幹を成す主題群を重層化豊富化するために使える素材が色々とあったはずなのに、それらをきちんと集め(演出家に提示し)た形跡がないからであり、この程度の批判に対しては断固リミニを擁護しておく。
さらには昨年の審査員の講評を批評しよう。劇評「を脱いで」講評評(劇評評評)へ、このフェスティバルの理念に実に実に実に忠実な試みだ。

〔えらいひとのおかんがえになること〕とは何か、何であるべきか。具体例を通じて考えよう。まず鴻英良氏のもの。堀切氏の評価の部分を取り上げる。「ヨーロッパ文化におけるこの集団のきわめて重大な位置を考慮するならば、今回の上演は手抜きとも言うべきであり、ありうべき使命を放棄したものといわざるをえないと、堀切は日本におけるこの上演を断罪している」ことに、鴻氏は賞賛を惜しまない(「批評的、批判的な分析をみごとにやってのけた」「こうした態度にこそ批評と演劇を結ぶものがある」「堀切の姿勢は批評と観客のあり方を改めてわれわれに示そうとしたものといえよう」)。その根拠は「この上演が日本の輸送の現場で起きていることを見せるというプロジェクトであったはずなのに、」「『運輸』に関わる『不可視な』人々の『生活』が『うかび上がってこなかった』」ことを批判したからである。こうした社会的素材を扱った作品の使命は社会的問題を正しく理解させる社会的啓蒙の手段たることにあるという暗黙の理解を堀切氏と共有し、そこで伝えるべき事柄が伝えられていないからこの作品はダメであり、堀切氏はそれを指摘したからエラいわけだ。作品を観る前から伝達されるべき事実を熟知しているエリート=批評家の仕事は、作品を鑑賞しながらそれが教育されるべき一般大衆に正しく伝わるのかをチェックすることなのである。そして「判断を下すにあたって、堀切は日本における輸送システムを詳細に調べなおしている」のだそうだ(ほとんどネット検索をやっただけなのだが)。堀切氏の取り出してきた事実や命題が、以前から鴻氏が信奉する教義に合致していたことは言うまでもあるまい。
ありふれてはいるがやはりウンザリさせられる文化役人の検閲場面が、ここでも繰り返されている。政治(や法や経済)の素人が、芸術批評を対象としながら、その政治的同志を嗅ぎ当てその党派性故に褒め上げることにしか興味がないのだ。作品批評の是非は作品読解にかかっており、それをさらに批評する講評もまたそれを必要とするはずなのだが、ここにはそうした地道な作業を欠いた安手な同志愛があるばかりである。作品を既成概念の取り出し口だとしか思っておらず、批評(家)をそうした取り出し(屋)だとしか考えておらず、作品に遭遇することで己が変わるなどとは少しも信じていない。その「取り出すべき」物のお粗末さを不問にしても、既成のイデオロギーなど易々と超えてゆく芸術の力、自在に立場を変転させる芸術の場に心身を曝したことなどないらしい点には、ただただ呆れ果てたと言っておく。

次いで内野儀氏のもの。氏の場合も、芸術体験がもたらす感性と知性の刷新など些事のようだ。自分と同じ党派的忠誠を有するかどうかが最大の関心事であり、そのメルクマールがポリティカル・コレクトネスなるものである。「即ちジェンダーや植民地主義、あるいは大文字の権力をめぐる問題系について意識が薄いものは、」「受賞作とすることは許容しないという決意」を固めておられるのだ。「PCでなければ認めないということではない」というのが建前だが、「PCが既に、あらゆる言説のひとつの規範的価値基準であることを前提に」「その前提が意識されていなければ困る」などと言って結局、自分と同じ党派的関心の表明を強要している。
大多数の人々と同様、私のようにそんな統一体への信心の足りない人間は、厳しい字数制限下でそれに言及したりしないが、明示しないと意識が薄いと見做され(でなければ、どうして意識が薄いなどと言えるのか)、排除されてしまうのだ。例えば、目下私が最も関心を持つのは(特に古典における)マゾヒズム演劇(やサディズム演劇)であり、それ(ら)は、当然のことながら性や権力(ないし影響力)と密接に関わっている。従って、選評に挙げられたこれらの個別的事項への一般的興味なら十分に持ち合わせているつもりだが、それを論ずべきかどうかは、当該具体的作品についての読者の観劇体験を深めるために必要だと判断されるかどうかで決まるのであり、制限の厳しい作品評の中にそれを超えたものを持ち込んだりはしない。そして私は、そうした要素をまとめ上げる、私にはちっともポリティカル・コレクトでない言説体の一種を宣伝する気などさらさらないが、というのも、そこにあるのは結局、見かけは最新流行でも一皮剥けば旧態依然のイデオロギーだからだ。少なくとも、それがあらゆる演劇の理解にアプリオリに有効だとする根拠など存在しない(その論証は「悪魔の証明」であり、有効を主張する方に立証責任がある)。個別の作品を論じるに際しては、当然ジェンダーに触れるべき場合もあれば植民地主義を扱うべき場合もある(私は現にそうしてきた)。しかしこうした要素は、無心に作品に取り組もうと諸記号が織り成す運動に身を沈める中で、その享受体験を不可欠に構成するものとして浮かび上がってきて初めて検討するに値するのであり、先入観はできるだけ排すべきなのだ。例えば、セジウィックの「ホモソーシャル」概念を安直に持ち込んだ某氏の『氷屋来たる』評が下らないのも、初めに理論ありきで、その適用がまさに具体的な女たちを切り捨ててしまうことに無頓着だからである。
また社会学(・政治学)上の権力概念(例えば、宮台真司氏や盛山和夫氏のそれは明確である)と違って、フーコー由来の文化左翼のそれは大抵曖昧であり、「権力」なるものは、当然そうした論者が様々な意味を込めうるマジックワードになっている。そこに党派的イデオロギーを密輸入することで、学術的議論を装いつつ素朴な政治信仰を垂れ流すことが表見的には可能となっているのであり、そんな「問題系」はむしろ警戒すべきなのだ。芸術論においては権力概念を破棄せよなどとは言わないが(私も限定して用いる)、それを使う人間は、当然その内実を明らかにできなくてはならない。大体、その内容を明らかにし根拠付けるのは、(政治的)主張をなす者の負う当然の(応答)責任である。それを果たすことなく、見解の異なる(かもしれない)者に対し、自分にとって自明の大事だからお前も関心を示せなどというのはPCではないのだ(むしろファッショである)。他者を自我に回収してしまう自閉こそが批評性の欠如を意味するのであり、そんなものは講「評」の名に値しない。従って、PC教会の中でなら論証不要でも、そんな蛸壺を一歩外に出たら「前提」としてはならないのであり(そんな蛸が欧米にも生息していようと同じことである)、それが氏の選択を正当化する最重要の論拠である以上、布教したいならきちんと説教すべきなのである。ここは「一般の方々から広く劇評を公募」する場なのであり、かかる信者限定などと書かれてはいない(プログラム・ディレクター氏に聞いてみよ)。
最後は、投稿者諸氏に旧体制の革命を呼びかける。劇評「を脱いで」煽動へ、これまたこのフェスティバルの理念に実に実に実に実に忠実な試みだ。

〔ちゃんちゃん〕とは何か、何であるべきか。ここまで来ればもはや明らかであろう私が企む陰謀の進捗振りを形容する副詞、「着々」が、高揚する気分ゆえ訛ったものである。さあ時は来た。これから皆で、ボンサヨ批評家が評価権という名の「権力」を振るい、多様性を抑圧しようとするこの劇評コンペという名の言説空間を攪乱し、そのイデオロギー支配に抵抗しようではないか。その方法は身を持って示した(とある階層的二項対立を転倒すれば良いのである)。少なくとも許された3本に1本くらい、私の手口を使ったところでバチは当たるまい。権力者=評価する者と非権力者=評価される者の二項対立を脱構築して前者の権威を覆し、制度的に無関係だった後者の間に錯綜した繋がりを可能にしよう。去年のコンペと今年のコンペの区別を取り払い、さらには来年のコンペも見据えよう。そうしたカーニヴァル(バフチン)こそ、フェスティヴァルの本質であり、さらにはそれが対象とする芸術の本質でもある。演劇畑ではない福嶋亮大氏にはトリックスターの役割を期待しよう。堀切氏には反論を望む。なお私は、自分を安全なところに置いてはいない。去年は維新派を論じてあるし、今年も既に飴屋評を書き上げており、これからフェスティバル評にも取り掛かる。この「劇評」と同様、それらを批判の対象にして下さって結構だ。本年は無理でも、来年槍玉に挙げることもできよう。
ボンサヨ言説のせいで萎縮が懸念される実質的な「表現の自由」の回復、かかる「政治的に正当な」目的が私の狙いである。劇評コンペ講評者の決意表明にまで忠実なのだ。なんとこのフェスティバルの試みに忠実な試みか。さて本稿は、「誹謗中傷」しているかにも見える。しかしながら、ここで採られた表現形式にその主張内容と連関する芸術的必然性があることは、しかるべき感性に富みしかるべき知性を備えた諸賢には「自明」であろう。また本稿は、字数制限まで「脱いでいる」かに見える。しかしながらこの制限には、「下限の制度趣旨は粗悪な劇評の排除にあるから、典拠を示す註を含むが、上限の制度趣旨は読者の忍耐力の限界にあり、註は飛ばして読めば良いから含まない」とのごくごく適切な限定解釈が施されるか、あるいは失格の烙印を押されようとも、その卓越した「公共」性に鑑み、F/T10HPのどこかには掲載されることであろう。私は、親愛なる相馬千秋氏が賢明な御判断を下されることを、固く固く固く固く固く、おまけにもう一つ固く信じている(蛇足ながら、私が戦おうとしている「二」重の「固」定された現「実」との主題論的連関を、少しばかりお楽しみ頂けたであろうか)。
(11,087字 ※註を含む)