『問われる"踊る阿呆"になる力―FT10概観』
  <福田夏樹氏>

「踊る阿呆に観る阿呆。同じ阿呆なら踊らにゃ損、損」

御存知のとおり、阿波踊りで歌われる一節だが、今回のフェスティバル/トーキョー10(以下、フェスティバル/トーキョーのことを「FT」、特に2010年秋開催のものを「FT10」と略す。)を振り返り、改めてふと頭に浮かぶのはこの一節だ。観客がいかに作品自体に巻き込まれ、作品を構成し、フェスティバルに関わっていこうとするか。FT10では、その点が問われていたように感じる。

 はじめに、これまでのFTの流れを概括しておきたい。東京国際芸術祭をリニューアルする形で始まったFTは今回が3回目の開催であり、初年度の09年は、春秋の2回を開催し、1年を経て今回の開催となった。09年においては、国際舞台芸術祭として、海外団体の来日公演、海外戯曲の日本人演出家による公演が行われたこと等の成果はもちろんのこと、FT09春のテーマを「あたらしいリアルへ」、FT09秋のテーマを「リアルは進化する」とし、舞台芸術における「リアル」を追求したのが特徴的であった。PortBや、リミニ・プロトコル等の作品においてはドキュメンタリーの要素が盛り込まれ、それぞれ手法の違いはあれ、今まさにある現実(/リアル)をそのまま劇的に組み替え作品とされていた。
 09年を受けて、今回、FT10において示されたテーマは、「演劇を脱ぐ」であった。パラフレーズして考えてみる。まず、今回明確に「演劇」という言葉が使われている。軸足は、演劇にあることが示されている。その「演劇」を「脱ぐ」としている。「脱ぐ」ことが可能であるならば、今は既に何かを身につけている状態でなければならない。あるいは、何も身につけていないとすれば、皮膚を剥ぐ="脱"皮する、ということにでもなろうか。いずれにせよ、「演劇」を「脱ぐ」ことにより、新たな姿を見せて行こうというのが、今回のFT10の狙いであったと考えられる。
しかし、新たな姿として目指すべきもの、見出すべきものが何かは示されていない。09年においては、その手段は問わず、どうすれば、「リアル」というものが見えるかが問われた点で、結果の方に重点が置かれていた。一方、FT10においては、結果として生まれるものが何かを問わず、その手法を問い、特に表現方法としての演劇の新たな姿の可能性を探るということに重点が置かれたと推察できる。
このテーマ設定は、もちろん09年の開催の成果を踏まえていると考える。09年においても、演劇の公演に限らず、ダンス公演が行われ、また、世間一般に想定される「演劇」とは異なった形式の作品も上演されるなど、「リアル」を追求していった結果として、あらゆる手法の作品が上演された。「リアル」という目的に向かって、暗中模索した09年を考えたときに、結果としてクローズ・アップされたのは、「リアル」が表現されえたかどうかということではなく、「リアル」を表現するために用いられたその多様な手法だったということではなかろうか。それを受け、FT10においては、その手法自体が主題とされたのではなかろうか。この仮説の下、FT10で上演された作品をいくつか類型化しつつ、個別に取り上げていくこととする。

演劇の新たな姿をみせうると考えられる手法の一つとして、既に09年の作品でも現れていたものに、ダンスの側からの演劇への接近というトレンドがある。そのトレンドを見せた作品として、黒田育世構成・演出・振付の「あかりのともるかがみのくず」を取り上げたい。黒田育世は09秋にも「花は流れて時は固まる」を上演しており、同じ上演形態で唯一09年も10年も上演しているという意味に限っても、09年の流れを汲んでいるといってよい。黒田氏は13日の公演後のポストパフォーマンストークにおいて、ダンスの中に演劇的な要素を取り入れているように感じるとの映画監督の中島哲也氏の問いに対し、「ダンスの側から演劇に近づいており、ダンサーでなく演劇の役者を出演させ、その身体を見せていくにあたって、声を出したりすることで、演劇に近づいていっているように見える」旨を述べている。ここでは、黒田氏はあくまでダンスという表現の中に演劇の要素が組み込まれているだけであることを述べているが、そのような取り組みの中で、新たな演劇の姿が見える可能性は十分にある。ダンスと演劇の接近は、近年の一つのトレンドといえ、例えば、公募作品として「古いクーラー」を上演した岡崎藝術座も演劇とダンスの狭間にある作品を上演する団体の一つであるが、他にも例を挙げ始めればきりがない。「演劇を脱ぐ」ということを考えたときに、ダンスと演劇の接近というトレンドは外せないものであり、そのトレンドをみせることもこの作品を上演する意味の一つであったといっていいのではないか。

次に、ドキュメンタリー演劇という手法について取り上げたい。09年にも先述したリミニ・プロトコルの作品などで用いられた手法であるが、FT10においては、更に発展した姿をみせていたように感じる。松田正隆「HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会」において、広島の原爆平和資料館から出発し、ドキュメンタリーとしての個々の物語を展覧会形式で多層的にみせた手腕も見事であったが、飴屋法水「私のすがた」は、過去に不動産が抱えた歴史を断片的に可視化し、更にはその歴史を昇華させる形で、観客に突きつけた。観客が主に触れたのは、その不動産にあった、もの、音、空気などであったが、そこに詩的なテキストを加えることで、観客に物語を想像/創造させた。ただ現実にあるものを物語化するのではなく、観客に視点の自由を与えたという点では、松田作品も飴屋作品も共通しており、その自由が作品の膨らみを拡げた。

そして、これも09年にも用いられていた手法であるが、参加型作品も、発展を見せていた。例えば09年に上演された「デッド・キャット・バウンス」は観客から集めたお金で、その場で投資を行うものであり、参加型と呼ぶよりは、体験型と呼ぶほうがふさわしい作品であった。一方、今回上演された「パブリック・ドメイン」は、観客が質問に答えていくと、いつの間にか、劇中の囚人とその監視らの物語の世界に組み込まれていくものであり、劇の中に巻き込まれ、ただ質問に答えているだけの現実を物語の世界に置き換えていく作用が、単なる体験型以上に劇的な効果を与えていた。

最後に、演劇の姿として、今回のFTで新たにみえたと感じたのが、すべてを過去のものとして、プロットを撹拌する手法である。特に顕著にそれが見えたのは、五反田団「迷子になるわ」であった。この作品では、ある人物により語られる記憶または妄想が、時系列が崩されながら断片的に展開される。時系列が崩されていることにより、どの場面がどの時系列に位置するのかを頭の中で再度構成しつつ、また一方で、目の前で展開される崩された時系列の流れを受け入れつつ、結局、時間的にも、現実世界/想像世界の分別についても、自分が何を見ているのか迷子になる状態に観客は追い込まれる。その状況自体にも愉楽があったが、それは迷子になることで、自らの立ち位置を考え、目の前の物語の再構成していく愉楽にも必然的に通じていた。

以上、いくつかの分類に基づき作品をとりあげたが、いずれにも共通するのは、「演劇を脱」ごうとした結果、観客が自ら楽しめる物語なり、世界なりを想像により構成する力が求められていたということである。
ダンスにおいては、言葉ですべてが語られない中でちりばめられたイメージをどう自らの物語に構成するか、飴屋作品、松田作品においては、視点の自由を与えられた中で如何に物語を構成するか、パブリック・ドメインにおいては、ただ質問に答えている現実をいかに劇世界に飛躍させるか、また、五反田団では、物語の時系列が崩された中で、どのように観客が再度物語を組み上げるか。そのやり方次第では、観客同士で全く別の作品として体験されうる。その可能性の開きを様々な手法で示していったのが、今回のFT10の作品群であったと概していえるのではないだろうか。
そして、観客によって個別に体験された作品は、ツイッター上など様々な場での議論を生み、また、まさにこの文章が提出される劇評コンペで論じられる。作品を介在してコミュニケーションがいかに生まれるかというのも、作品を評価していく上で重要な点の一つであると考えるが、そのコミュニケーションをする環境づくりという点は、今回のFTの最も成功していた点ではないか。そしてその成功の実感がこの文章冒頭に掲げた一説につながった。やはり祭りはこうでなくちゃ面白くない。

もう少しこの点を具体的にするために例をあげると、FT10で観客の物語を創造する力が顕著に分かりやすく問われ、また多くの観客同士の議論を生んだのが、PortBの「完全避難マニュアル 東京版」であった。WEB上に地図を掲載し、その地図から、山手線の各駅の近辺に設定された「避難所」なる、ある種の既存のコミュニティの成立する場所に誘導したのが、この作品であった。誘導されたコミュニティで何をし、何を感じるかは、観客自身に任されており、観客自身が演劇的な出来事を、コミュニティを通して如何に作っていけるかによって、感じ方はまるで違うものになった。また、その感じたものをやり取りしあう場としても、用意されたコミュニティが機能し、作品の一部として、いくつも、見知らぬ観客同士で盛況な飲み会が開催された。更には、この作品に魅せられた観客(通称「避難民」)が、この上演に携わったスタッフをねぎらう会を企画するなど、作品はFT10終了後も発展を見せている。

若干、蛇足気味になるが、この観客に解釈を委ねる作品のあり方は、90年代に平田オリザが主張し、10数年かけて日本の演劇に根付き発展しつつあるものといえる。90年代に劇作家である平田氏は、「作品に主張なんてものはない。解釈は観客が勝手にすればよい。」という旨の主張を行い、それまでの、作家の主張をぶつける作品のあり方から、コペルニクス的転回とでもいうべき変革を行った。上に述べた観客力の問われるあり方というのも、この流れを汲み、更にそこから発展して演劇のあり方を更新するものである。
また、これを作品の「消費」のされ方が観客の自由に任されていると言い換えれば、近年のマンガ・アニメ等の他の表現の消費のされ方にも通ずるものがあると直感する。私自身がそれを語るには、いささか知識に乏しいが、その意味で、今回のシンポジウムにおいて、若手を含む様々なジャンルの批評家を招いて議論をしたのは、新たな演劇の可能性を見出す上で面白い試みであった。

演劇の可能性/未来という点では、公募枠を設け、関西圏の表現との交流や若手による演劇の更新を促している点も改めて評価したい。私が今回のFTで最後に観た作品は、マームとジプシー「ハロースクール、バイバイ」であったが、正直この作品に私はいたく感動した。リフレインにより物語を重層化・多角化させる劇作の手法において、演劇の在り方を更新している点は評価されるべきだが、何より上演する若手の劇団が必死になって演劇に取り組んでいたということに感動させられた。カーテンコールで顔を真っ赤にさせた彼女らの姿、その演劇に対するアツさ(これを最近の演劇業界では「演劇LOVE」と呼ぶらしい)に演劇の未来を見た気がした。
ここまで新たな演劇の姿が如何なる手法によって見出されるか、それに今回のFTの作品群がどのように寄与するかに論点を絞って長々と述べてきたが、作品に込められる熱意というのは、こういった頭でっかちな考察を簡単に凌駕しうる。FTにおいては大規模な芸術祭として、演劇の新たな姿を示して行こうとするスタンスをとることは重要であり、演劇を更新し、文化を更新していくためにもそのスタンスを基本とすべきであろう。しかし、未来はアイデアだけをもってしては開かれていかない。贅沢かもしれないが、来年以降も、新しく、そして「LOVE」にあふれた演劇の未来の端緒をみせてもらえることを期待する。
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