『「SKINNERS ― 揮発するものへ捧げる」 身体に映る空気の文様』
  <直江早苗氏>

勅使川原三郎は新しい表現を追及し、「光・音・空気・身体によって空間を質的に変化させ創造する、かってない独創的な舞台作品」を生みだす、とパンフレットに謳われている。今回の作品も勅使川原三郎による演出・振付・美術・照明が一体となって、緻密に仕立てあげられた一種の絵巻物のごとき作品となっている。

まず紫の棒状の光の連なりが、観客を見知らぬ世界の入り口に誘う。下手の椅子と、上手の奥につながる薄い布の垂れ幕。五人のダンサーの衣装はそれぞれ異なるが、色彩は白と黒に限定し、余分の要素は潔く排除されている。音はノイズに近いもので始まり、手足の動きは一種の痙攣に似ている。ピアノ曲になっても、同様に手足はじっとしていることがなく、停止することを知らない。関節をはずしたように手足を空間に伸ばして、揺らいでいる。テンポが速まると、こんどは関節が何かの力で引っ張られるように、激しく動く。床面に明かりで描かれた矩形は、ダンサーの動きにつれて次第に絞り込まれ、背景に退いて、やがて光の帯となる。

勅使川原三郎はゆったりした動きになっても、止まることを怖れるように、また動き始める。それはまるでおしゃべりするようであり、手のひらから、腕へ頭へと動きが広がっていく。不定形の身体であり、変幻自在である。その身体を明かり、椅子、布、床の光の図形が増幅させる。女が椅子にすわる、椅子を動かす。男は椅子に乗っては、おりる。上手奥に点される明かりは何をあらわすのか。めざす高みか、そこから見渡すということか。生きもののような叫び声が響く。黒のスーツの女は、明るく痙攣する。

さらに、無音の時間と、漆黒の空間をも敢えて設けている。勅使川原三郎は、重苦しい音を引きずったあと、音が消えてもそのまま歩く。白い衣装の女は、生物が羽化するように暗闇でぎくしゃくと動き始め、上手奥に点された明かりがそれを見つめる。ダンサーとひとつの要素、明かりか音だけを残すことで、観客を立ち止まらせ迷わせる。五感すべてをはたらかせて観ていたことに、あらためて観客は気づく。視覚、聴覚に加えて、味覚も触覚も嗅覚も感じられた舞台。触覚はダンサーの皮膚に、床面の変化に、空気の手触りに。味覚や嗅覚はダンサーの息に、衣装に、揺らぐ身体に、薄い布をたなびかす風にも感じることができる。その体験のあとだからこそ、無音にし、また暗闇にすることで、それまで手にしていたものが失われてしまったことに気づかされる。

緞帳をも舞台装置のひとつとして、巧みにダンサーが操る。下りてくる緞帳を停止させ、そこから覗き見る世界は明かりの点滅に邪魔され、見慣れた世界を変え、近未来を見せる。白い衣装の女が緞帳をあげ、鉤型に歩くにつれ、明かりの広がりが増していく。のびやかに、あくまでものびやかにすすみ、薄い布の垂れ幕に入る。さらに二人加わり、明かりと風をはらんだ透きとおる紗のヴェールはダンサーを夢のなかに、たゆたう陽炎の動きへと誘い、追憶となる。最後に暗転からくりかえし映しだされるダンサーは、思い思いの姿勢でとどまる。空にさしのべられた手を残して。

ダンサーが動くにつれて、その身体を蔽う皮膚は空気に触れ、形をつくる。その形状は絶え間なく変化する。その接触する面を絶えず移しかえ、ダンサーは動き続けることで変貌していく。もし空間に色彩のついた層があるならば、身体の皮膚のその接触面には、刻々と変化する色彩の文様が映し描かれるだろう。それは万華鏡のなかの文様のように変幻自在で、二度と同じ文様ではない。床に接する足の裏についても同様に、一度として同じ図形にはならない。つねに接点が移動し、床の平面上に速度も強弱も時間も異なる、足の裏の軌跡が描かれる。こうして身体の表面が、空気の、床の裏側となり、身体と空間が一体化する。まさにそのことを感じさせるのが、佐藤利穂子である。「刃物のような鋭利さから、空間に溶け入るような感覚まで、質感を自在に変化させるダンスは、身体空間の新たな次元を切り開く芸術表現として注目を集めている。」と、紹介されている。バーバラ・M・スタフォードは『BODY CRITICISM』で、 十八世紀のマーブル染めによる大理石模様を内面のこころの移ろいにたとえている。ひとはその模様を壁紙や抽斗の内張りに用いることで、外部からは窺い知れない個人の内面を表出する、と述べている。その描かれた文様と、ダンサーの動きが至極似ているように思える。マーブル染めは水に染料を流し込み、刷毛で梳くことで浮かび上がる文様であるが、ダンサーは身体を使って空間に文様を描きだす。一過性であるがゆえに、貴重であり、その時その場でいかようにも変化しうる文様である。まさにダンサーの身体の空間への接し方の独自性をあらわしている。観ている側はダンサーの身体と重なり、空間に遊ぶとともに、身体だけではなく、空間が受けとる感触をも味わうことができる。今後どのような身体感覚を味あわせてくれるのかと、楽しみになる。

ピーター・ブルックは『なにもない空間』で、上演が終わったあとに残るものとして「その夜の舞台は観客の記憶にある輪郭ないし味わいないし痕跡ないし匂い――要するに、一つのイメージ――を、焼きつけることになる。こうして劇の中心的イメージないしシルエットがいつまでも残る。」と述べている。同じような現象は、ダンスの舞台においても観客に生じる。ここで注目すべきことは、「味わいないし痕跡ないし匂い」という表現を使っていることである。五感の視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚のうちで、舞台芸術はふつう視覚か聴覚を使う。ときには暗黒舞踏などでは香料をたくことで嗅覚も使われることもあるが、触覚と味覚は観客の想像によるものである。「味わい」「匂い」ということばを使っていることが、芸術が生みだす作用を適確に表現しているのではないか。視覚、聴覚は高尚な感覚と見なされ、それに比べ他の感覚は原始的と考えられがちだが、これらの感覚こそ根源的で貴重であるということではないか。赤ん坊はまず口で触れてものを味わい、やがて手で触れることに移っていく、という。ひとが見知らぬものに対峙する場合も、無意識のうちに同じ過程を経ているのではないか。そのようにして知覚し認識することで、舞台が与えたイメージを観客は個々に受け取り、それぞれ変容させていくのではないか。ここに言葉をも超える、芸術のもたらすイメージの力があるといえる。

われわれが認識する過程を考えてみたい。舞台作品のなかで演劇はふつうテクストがあり、前もって通読することで全体印象をつかむことができる。と同時に論理と知的背景を動員して、細部にわたる個々の要素を吟味しつつ分析、統合することができる。ひとは書き言葉にせよ話し言葉にせよ表現をする際は、まず骨子を定め、状況に合わせて言葉を選んで肉付けしていく。受け取る側は理解する際、まず表現された言葉を受けとりつつも、発信側とは逆方向に言葉から肉をそぎ落とし、骨子をつかもうとする。電報文のように骨子だけで十分かというと、それは無機的な機械等のすることであり、ひとは表現する際には己の属する文化的背景を基盤として、言葉を選んで自分なりに表現する。しかし、新しいものごとに接するときにまず始めにおこなわれることは、感覚に訴えてくる個別的、全体的印象の受容である。舞台に惹きつけられるから見続けることができ、全体のながれに乗っていくことができる。分析しつつ統合するにしても、最終的に残るのは印象的な台詞と、その言葉から描きだされたイメージが中核となる。

 今回の作品を今一度考えてみると、勅使川原三郎のダンスに気づくことがある。手のひら、腕、頭のたえまない動きが、おしゃべりしているように見える。まるで必死に身体を使い、言葉による表現に接近しようとしているようであった。事実、言葉が切れ切れながらも聴こえたかのように思えた。しかし、動きがより激しく、大きく、強く、なめらかになって、制御を超えたかに見える身体からは言葉は消え、言葉と身体が一体となって、身体に言葉が含まれてしまった。言葉はもう聴こえなくなり、身体そのものが語りかけてくる、もはや言葉という手段を必要とせずに。このときこそダンサーの動きがまさに言葉をも超えた動きとなり、イメージを生みだしていたのではないか。そして、観客はそれにすなおについていった。そのことを気づかせる、無音の、暗闇の時間でもあったように思える。音のたすけ、明かりのたすけがなくても、イメージをつたえることができる。身体が言葉になりうる、空気を振動させうると。

 今やダンスは一部のひとの楽しみであるだけではなく、表現手段のひとつとして大衆化し始めている。踊りとは、身体をもつものならば誰にでも許される表現手段である。さまざまな舞台に接することは、自己の身体のありようについて見直す機会を与えてくれる。身体感覚の希薄になっている今だからこそ、身体を実感するダンスは必要とされている。誰でも一度でも踊ってみれば、ダンスの舞台がより近い存在となる。ダンスの試みも増えている今、さらなるダンス舞台の普及が望まれる。
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