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2022/07/13

トーク 「舞台芸術はアーカイブ② 〜価値をいま決めない〜」ゲスト:須藤崇規 

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(テキスト・河野桃子)

アーカイビングF/T オンライン連続トーク

「舞台芸術はアーカイブ:消えるものの残し方と活かし方」

15:00-15:50 セッション1「上演の記録と、記録の上演」

ゲスト:須藤崇規 モデレーター: 長島 確、中島那奈子




長島 須藤さんは映像の監督で、2000年代中盤頃からいろんな舞台作品などの記録映像を撮り続けています。演劇、ダンス、野外の複雑なプロジェクトのほか、記録というだけでなく作品に登場する映像も担当されています。作品づくりに関わる方の間では有名なプロフェッショナルですが、なかなか表で話を伺う機会がない。とても面白い事をたくさん考えている方なので、この場でいろいろ伺えればと思います。


須藤 僕は今、豊橋にいて"映像演劇"と呼んでいる演劇作品のスタッフとして、穂の国とよはし芸術劇場プラットの楽屋にいます。セッション1での三浦直之さんの話を聞いていて、ふと思い出した記憶があります。大学に入ってから実家の両親が引っ越したんですよ。だから帰省の時は、自分が帰ったことのない家に帰るんですよね。それがある時すごく居心地が悪くて昔の家を見に行ったんです。がらんとしていて誰も住んでなくて、窓には見慣れたカーテンがかかっていました。たぶんずっと使っていたカーテンを置いていったんですね。それがめちゃくちゃ心を揺らして……。誰もいない家に揺れているカーテン。揺れているはずはないのに、揺れている記憶が残っているんです。きっと"記憶を巡る"ということと"記録"は関係があるんだろうなと思います。ちょっと無理やり繋げました(笑)。


 でも、記憶と記録ってすごくせめぎあうことが多い。お客さん一人ひとりに、作品を観て受け取って記憶になるというプロセスがあるわけですが、それと記録は必ずしも一致しない。むしろまったく一致しないのかもしれない。劇場作品はともかく、小さい人数で……なんなら一対一で体験するような作品や、街歩きの作品や、偶然性が関わるような作品だと、特に一人ひとりの体験はバラバラになりますよね。それに対して記録には何ができるんだろうとすごく考えた時期がありました。転じて、劇場作品では観客の体験がコントロールされやすいのかなとも考えました。


 僕の中で、記録を作る時に大きなキーワードになっているのが"感動の平均値"なんです。とくに劇場作品を記録する時は"感動の平均値"を探すことが多いんだなと気がついたんですよ。つまり「8割方の人はこのシーンは感動するよな」とかいうことをすごく考えている。逆に、この"感動の平均値"が見つからない作品……つまり一人ひとり違う体験をする作品の場合、記録映像を作るのがものすごく大変になっていくんだなと考えています。


 話は飛びますが、僕は記録映像を年20〜30本ほど撮っています。まず最初にやる大きな作業は"ちゃんと感動する"ことなんですよ。たいていはゲネプロ、場合によっては稽古後半の通し稽古から観始めるので、僕が参加するのは創作プロセスの最後あたりです。それを見た時に、自分が何に感動するのかだけでなく、だいたいの人はここら辺で感動するんだろうなという"感情の平均値"を探す作業をします。感動というのは、必ずしも涙を流すといったことではなく、心が動く瞬間のことですね。「この作品はどの方向にどういうふうに心を動かそうとしてるんだろう」と考えます。見ればわかる時もあるし、見ても全然わからない時もある。演劇の場合は、戯曲を読めばわかることもある。いろんな手段を使って、感動について考えていくのが最初の作業です。それをもとに図面を書いたり、カメラの置く位置を決めていく。そしていざ撮って編集する時には、創造と観賞を素早く往復しているような感覚があります。というのも、記録映像を作る作業は鑑賞でもあるんですよ。作っては見て、作っては見て……。


もしかしたら演出家は普段この作業をしているのかもしれない。または、批評という作業にも似ているのかもしれません。作品を紐解いて、重要な点を探し出し、"感動"というキーワードと結びつけていく作業は、理論立てて考えている部分もある。批評家はそれを文章で書いていくわけですけど、もしかしたら映像というメディアを通して批評作業をやることが、記録映像を作ることに繋がるのかなという気がしています。


長島 たくさんメモをとってしまった……


須藤 ではもうちょっとだけキーワードになりそうなことを。僕は記録映像を撮り始めて20年経ったので、さすがそれなりのボリュームになってきたんですね。撮った作品を見返すだけでも「この時代ってこういう作品多かったな」と思い出されるラインナップになってたりする。ひとつひとつの作品を撮ることももちろん重要なんですけど、そういうふうに塊として時代を捉えられる記録映像の在り方や、一個ずつの点として作品を見るのではなく連なった線として見たり、その線が織りなす面として見ていきたい気がしています。自分の作業としてはひとつずつ作品を丁寧に記録していく積み重ねでしかないけれど、どうやったらこの時代感覚と一緒に記録映像を残せるのかなとよく考えます。おそらく、コロナ禍でパフォーミングアーツをライブ配信で見せることが盛り上がったことで、点ではなく面で考えることを考え始めている気がします。


 なぜかと言うと、配信ってやっぱり今の時代の人に向けて表現するんです。でも記録映像はそうじゃなくて、どこか100年後の遠い誰かのために撮っている感覚があるんですよ。それが配信するとなった途端に、今のお客さんに向けてチューニングしていく。つまり、記録を残すことと、今の時代の人に見せる事は重ならない部分がある。「アーカイブする」ということは、場所や時間が離れた人に届けることが重要だと思うんです。セッションタイトルの「価値を今決めない」とはまさにそういうことですよね。ちょっと遠い誰かのために作ることと、今の時代に生きている既にいろんな文脈を共有している誰かに届けることは、違う作業なんじゃないかという気がしています。



舞台の記録映像は定点カメラで成立するのか


長島 さあ大変だ。授業を受けているような感じでたくさんノートをとりました。さっそく質問させてください。


 "感動の平均値"について、ナマで観ていれば8割方が感動するところを、ただ定点カメラを回してるだけではその感動は映らないですよね。感動を復元するためには演出が必要なんだと理解しました。そのために大事なことは一度ちゃんと見て感動すること。そのうえで映像にしていくことは、もとの作品の再現あるいは再創造のようなことだと思うのですが、そうなった時に、演出家との力関係やバランスはどうなるのでしょう?


須藤 まず定点カメラの話をすると、"引き絵問題"と僕は勝手に呼んでいるのですが、引き絵で舞台の全部を映すのではダメなのかということですね。2つ言えることがあって、端的に言うと「引き絵には映らないものがある」と「引き絵には映りすぎる」ということ。矛盾しているようですが、どちらも映像メディアの限界によるものです。


 まず「引き絵には映らないものがある」というのはディテールですね。一つの画面に映せる情報量には限りがあって、肉眼で見るより圧倒的に少ない。広く映すほどディテールは損なわれていく。でもあるシーンでは小さなものや表情などのディテールこそが重要なことがある。限られた情報量の中でなにを映すかの取捨選択をしていかないと、映像上で表現できないんです。


 もうひとつの「引き絵には映りすぎる」というのはほぼ同じことで、映りすぎていると、視聴者が取捨選択できないんです。そのため、映像上での視線誘導は気を付けながら作っています。一番重要なものが一番しっかり映るように考えることが映像の基本ですね。ただ、そればかりだと遊びがなくなったり、説明的になりすぎたり、視聴者が考える余地がなくなったりする。そうならないようにバランスを取ろうとします。あくまで映像の話ですが‟ヒッチコックの法則”というものがあり、それは「一番大切なものを一番大きく撮れ」ということなんです。引き絵の場合は、一番大きく映っているのは空間なんですよね。空間が重要な時には引き絵を使います。でも空間が重要じゃない時に引き絵を使うと‟ヒッチコックの法則”に反してしまいますね。


 また、演出家との関係については、僕は記録映像を撮る時に、あまり演出家やアーティストとお話をしないんですよ。特に新作の場合は、演出家はそれどころじゃない場合が多い。ただ、まったくコミュニケーションしないわけでもなくて、どうしてもわからない時は聞きに行くし、「こういった撮り方しようと思うんだけどどう思う?」と話すこともある。たとえば、ステージ上など観客席ではないところにカメラを置く時などには話しますね。とはいえ、演出家にとっては出てきた映像を見ないと話しようがないというのが本音だと思います。編集したものに対して「ここはこうできませんか?」というコミュニケーションをすることのほうが多いです。


 それはもしかしたら、僕が記録映像を撮るだけでなく、舞台映像デザイナーやプランナーとして舞台作品の中身を作る側もやっていることが大きいかもしれないです。ひとつの作品で両方やるという意味でなく、舞台を創造する側にまわる経験があるということですね。それを経ていることで、演劇自体が持つ力や、ドラマツルギーなどへの理解が速いのかな。ふだん映画などの映像作品を撮っていて時々演劇を撮る、という人よりはかなり理解が速いという気がしています。


長島 ありがとうございます。額に入れて飾りたいような教訓がいくつかありました。引き絵好きとしては考えることがいろいろあります。



100年先の未来に、記録映像は届くのか


中島 お話が面白くて聞き入ってしまったのですが、一番グッときたのが、記録を残すことと配信することは違うということ。コロナ禍で出てきている配信の問題は、アーカイブという問題とはちょっと違うということを考えるべきかなと思いました。あと、映像によるアーカイブの特筆として、映りこんでしまうものが後になって別の付加価値を生んでいくということ。当時の"点"としての作品だけでなく、時代背景から作った作品のことが見えてくるというお話がすごく面白かったです。


 ひとつ質問があります。記録映像を作るにあたって、映像を作りこまないといったような、とてもプロフェッショナルな感覚が働いているように思います。記録映像にする時の須藤さんの気持ちには、禁欲的なものがあったりするのでしょうか?


須藤 なるほど。たしかに禁欲的という感覚があるかもしれないですね。演出家との力関係の話がありましたが、僕は自分自身が演出家にならないように気をつけています。もちろん映像として良いものに仕上げていきたい気持ちは強いし、すべての記録映像は映像作品として良いものであるべきだと思っているところもある。一方で、映像として楽しめれば記録映像として成功かと言うとそうではない。そのせめぎ合いが毎回起きますね。「僕はこっちの画を使いたいけど、記録映像としてはこっちの画を入れるべきだ」ということがとても多くて迷います。毎回迷って、「今回はこっちで行っちゃえ」というように毎回違う選択をしている気もします。必ずしも禁欲的ではない(笑)。


 セッション1の三浦さんの話を聞きながら「早くおじいちゃんになりたいな」とちょっと思ったんですよ。というのも、わりと本気で「遠くの100年後の人に見てもらいたい」と思っているんですが、その人達が見ている様子を僕が見ることはできない。記録映像を作っていてもどかしいところです。そのうえで、禁欲的だということと、記録映像はどうあるべきかということと、文脈・コンテクストを残すということは、少しずつ繋がっている気がします。これについてはまだ僕自身があまり言葉にしたことがないので大きな風呂敷を広げますが、どうやってアバンギャルドでいられるか、といったことを時々考えるんです(笑)。たぶん重要な作品は誰かがちゃんと残してくれて、引き継がれていくと思うんですよ。そうやって歴史になってだんだん固定化されていくことに抵抗するためには、アーカイブが蓄積してないと駄目だと考えています。たとえば、「歴史家」によって歴史が覆されることがありますが、その時に参照されるものはアーカイブだと思うんですよ。即身仏もそうかもしれない。そこに僕の記録映像が現れてほしいなという気持ちがあります。


 あともうひとつよく考えていることが、“中央のアーカイブ”と“周辺のアーカイブ”についてです。コロナ禍になって急に記録映像が注目され、配信が増えました。それ自体はとても重要なことで、大きく物事を動かせる人がたくさんの作品を集め、ちゃんと保管し、アクセシビリティも揃えていろんな人に開かれていくことはやるべきです。公共図書館のようなイメージですね。ただ、それだけで足りるかというと今の時代はたぶん足りない。この20〜30年は、パソコン一台を使って、映像によって自分たちで自分たちの歴史を残せるようになってきた初めての世代だという感覚があります。そうなった時に、周辺の人たちが周辺の情報をちゃんと保存して語り継いでいくことが、中央だけが歴史を作ることへのレジスタンスになるのではないかなと考えます。僕が作るものがその一端を担えるようになったらいいと日々考えつつ、ちまちまと映像の編集をしています。


長島 チェーホフの世界ですね(笑)! 100年先、200年先の未来の人に対する意識を感じて、チェーホフの戯曲のようだと思いました。



記録映像だけで、舞台作品のアーカイブとなりえるか


長島 さらにひとつ質問があります。記録映像は映像として面白ければいいだけではないとして、映像としての完成度や充足度は考えますか? なぜこの質問をするかというと、理由は2つあります。ひとつは、引き絵の場合は、その劇場や劇団や作品を見たことがあると脳内で補完できるので、むしろ編集が丁寧に入っているよりも自由に見られる感じがします。ただそれは、映像としては充分ではなく、映像以外の情報によって自分が補完できる限りは引き絵が良いということ。そのうえで、映像として完全に自立することを追求することついて、須藤さんがどう考えているのか気になります。


 関連してもうひとつ。時代感覚や面のアーカイブについて思い出したことがあります。大学の時に先生に「昔の小説や論文を読む時に、初出の雑誌に絶対に当たれ」と強く言われました。なぜなら、同じ号にどんな文章や記事が載っているかが考える材料になるから、と。きっと小説でも論文でもエッセイでも、その後に単行本に収録されたりWEB上で公開されて、切り離されて自立して読まれることは普通だと思いますが、一方で、最初に世に出た時のコンテクストや当時のシーンはあったはずなんです。そういったことと同じようなことを須藤さんは考えているのかなと思いました。そうだとすると、同じ年のフェスティバルでは他にどんなアーティストが出ていたとか、その年の同じ劇場ではどんなものを上演していたかといった情報も、アーカイブとしては意味があるはず。もし映像では辿れなくても文字情報なら遡れるかもしれないので、単独の記録映像以外のものと情報を補完し合うことを意識したりするんでしょうか?


須藤 すごく考えますね。映像として自立したものになったらいいなという感覚はありますし、それが出来る作品もある。でも、僕が撮るものはたいてい違う(笑)。なぜなら、時代とリンクしていたり、アーティスト自身が時代へのレスポンスとして作品を作っている側面が大きいからです。だから、今なら映像として見ても面白いけど、いつかは面白くなくなるということが、記録映像にもあると思います。セッション1で三浦さんも言っていた「賞味期限」が切れた時に、隣に何があったらまだ食べられるかは考えますね。当日パンフレットで足りるかもしれないし、劇場が無くなってしまった場合には図面があるとすごく助けになるかもしれない……と考えはしますが、そこまで含めて一つの作品をアーカイブとしてパッケージしてはいません。過去に2~3回ほどは記録映像の上映会を企画して、当日パンフレットを壁に貼って情報を補完したこともありましたが、それでは足りなかったですね。たとえばその作品を作った動機など、何かしらの時代背景がないと届き切らないなと実感しました。だから僕が仕事としてやっているのは、あくまで映像を作る部分だけれど、それだけではきっと足りないんでしょうね。それを誰が保存してくれるのかはわからないです。


 パフォーミングアーツの創り手からは、コロナ禍で配信が話題になってからは「やっぱりその場で観ないとダメだよ」とか「やっぱりナマで観てほしいです」という声をたくさん聞きました。作り手と観客が同じ場所にいることが大切だという感覚は、創作に関わる人間が共通して持っているといます。でもそこでひとつ抜け落ちているものが、場所だけでなく、時間も共有しているんですよね。時間の共有も実は大切なんです。記録映像や配信の特徴は、場所を超越できると同時に、時も超越して遠くの人に届けられること。そして時間が離れた人に届ける時には、映像だけでは足りないものがきっとたくさんあるんだろうなという気がしています。



舞台作品の感動を記録するには


中島 須藤さんが言われる「感動」の話について、私はまだドキドキしています。感動を映像だけでは伝えられない時に、感動をどう記録するかは考えられますか?


須藤 はい。「感動を記録する」というまさにその言葉のままでよく考えます。理想としては、記録映像を見た時に、ナマで見た時と同じように感動してもらえることです。それを実現するためにはどうしたらいいのか試行錯誤していますが、感動の前提となるためにはやはり文脈が必要ですね。同じ時代、同じ時を共有しているという前提が絶対にあるはずです。


 面白いのが、過去に自分が撮ったものを見返すと、めちゃくちゃ面白い。でも、当時それを見て感動したのとはまったく違う感動の仕方をしているんです。つまり僕がやってきたことは失敗なんです(笑)。それでも理想を目指してないと、そのまったく違う感動すら起きないんだろうなという気がしています。確かめようがないんですけれどね。


 あともうひとつ、自分が20年前に撮った映像を見て気づいたのですが、映像の細かいことはどうでもいいんですよ。編集している時は細かいところばかりを気にしているんですが、いざ時間が経って見返してみると、視聴者として細かいことをスルーして、ちゃんと映っているものに向き合えたりするんです。そのギャップが面白い。僕個人の場合はたかだか20年ですが、100年後の視聴者との間にどういうことが起きるのかは楽しみですね。


長島 面白いですね。知恵熱が出てきましたよ(笑)。


 では質問を2つ頂いているので読みますね。「舞台芸術のアーカイブは映像だけではなくモーションキャプチャーによる3 Dモデル化、VRライブ映像などについてはどうお考えでしょうか。上記のメディアでは観客の視点を自由に移動でき、もはやアーカイビングではなく新しい演出、もしくは二次利用という考え方もできると思います」。「舞台をVR化することについてどう思いますか。音や映像をリアルに再現することで、地方の方でも劇場を体験できるのではないかと思います」。

いかがでしょうか?


須藤 やってみたいですね。3DやVRはおそらく今までの映像とは違うんですよね。映像技術を使ってはいるけれど、映像文法を使ってはいない。僕が今作っている記録映像は、現代に生きている人なら自然と身につけてしまっている映像の語り方を利用して作りあげています。でもVRや舞台の3D化は、おそらく文法がまだできていなくて、これからだという気がします。その文法ができた時に、記録映像と組み合わせるとすごく面白いんじゃないかな。それでもすべてを補うことはできないと思うので、今までのような記録映像は残るでしょうね。記録映像とは別に、VR化することで新しく保存できるようになるなにかがあるのでしょう。僕自身もチャレンジはしてみたいですが、機を伺っているところです。


長島 VRで舞台を実験的に撮ったテスト映像を見たことがありますが、いろんな場所に360度カメラを据えて撮った結果、一番面白かったのは観客が入っている客席から撮った映像だったんですよね。ゴーグルをかけると普通に舞台を見ている気になれる。好きなところが見られるし、振り返ると他のお客さんがいる。ただ、それは記録映像とは別物なんですよね。


 では最後に、あとひとつコメントを頂いているのでお伝えします。「記録映像を見た時、その時代背景の思想や生活様式を理解したうえで作品を見ることの大切さを再確認いたしました。この考えは論文を作成する時にも大切にすることと一致します」とのことです。

 須藤さんが考えていることはいろんな人のためになるし刺激になるので、裏で仕事をするだけでなくこれからもどんどん話していただきたいです! 今日は本当にありがとうございました。


(テキスト・河野桃子)

『』2へ続く

須藤崇規

舞台映像デザインや記録映像など、舞台芸術に関わる映像全般を手がける。演出意図を丁寧に汲み取り、映像を通して作品の幅を広げ、観客に新しい鑑賞体験を提供している。パフォーミングアーツの記録映像上映会「ANTIQU」を、ときどき企画・開催。2020年5月からオンラインパフォーマンス「私は劇場」開始

長島確

専門はパフォーミングアーツにおけるドラマツルギー。大学院在学中、サミュエル・ベケットの後期散文作品を研究・翻訳するかたわら、字幕オペレーター、上演台本の翻訳者として演劇の現場に関わり始める。その後、日本におけるドラマトゥルクの草分けとして、演劇、ダンス、オペラからアートプロジェクトまでさまざまな集団創作の場に参加。フェスティバル/トーキョーでは2018〜2020年、共同ディレクターの河合千佳と2人体制でディレクターを務める。東京芸術祭2021副総合ディレクター。

中島那奈子

老いと踊りの研究と創作を支えるドラマトゥルクとして国内外で活躍。プロジェクトに「イヴォンヌ・レイナーを巡るパフォーマティヴ・エクシビジョン」(京都芸術劇場春秋座2017)、レクチャーパフォーマンス「能からTrio Aへ」(名古屋能楽堂2021)。2019/20年ベルリン自由大学ヴァレスカ・ゲルト記念招聘教授。編著に『老いと踊り』、近年ダンスドラマトゥルギーのサイト(http://www.dancedramaturgy.org)を開設。2017年アメリカドラマトゥルク協会エリオットヘイズ賞特別賞。

アーカイビングF/T オンライン連続トーク
「舞台芸術はアーカイブ:消えるものの残し方と活かし方」

日程 ライブ配信:2022年3月5日(土)14:00-19:15
<配信は終了しました>

アーカイビングF/T

フェスティバル/トーキョー(F/T)は、2009年から2020年まで、13回にわたって開催されました。舞台芸術を中心に、上演・上映プログラム数204、関連イベントもあわせ、のべ77万人の観客と出会ってきました。これらの出来事を通じて、国内外にまたがる多くの人々や作品が交差し、さまざまな活動・交流の膨大な結節点が生み出されました。 上演作品やイベントは、「もの」として保存ができません。参加者や観客との間で起こった「こと」は、その場かぎりで消えていきます。しかしそのつど、ほんのわずかに世界を変えます。その変化はつながって、あるいは枝分かれして、あちこちに種子を運び、芽ばえていきます。 F/Tは何を育んできたのでしょうか。過去の記録が未来の変化の種子や養分になることを願い、13回の開催に含まれる情報を保存し、Webサイトを中心にF/Tのアーカイブ化を行います。情報や記事を検索できるデータベースを作成し、その過程で過去の上演映像セレクションの期間限定公開や、シンポジウムを開催します。

 
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