>   > 「追憶」が浮き彫りにする新たな「現在」の生成──村川拓也『ムーンライト』
2021/03/16

「追憶」が浮き彫りにする新たな「現在」の生成──村川拓也『ムーンライト』

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(文・北小路 隆志 写真・石川 純)

 これから上演される『ムーンライト』は2年ほど前に京都で初演されたものの再演であること、目の病に侵され次第に視力を失いつつある男性、中島昭夫氏を中心に作品は展開され、途中で登場する4名の演奏者が舞台に置かれたピアノを弾くこと、といった概要が演出家の村川拓也によって説明され、そのまま「出演者」が招き入れられる。杖をつき介助の男性に支えられた老年の男性がゆっくりと登場し、舞台中央近くのピアノの(客席からみて)右側に置かれたパイプ椅子に腰を下ろすと、そこから少し離れた舞台右袖のパイプ椅子に村川も座り、上演の準備が整う。それ以降、作品は、「演出家」(村川)と「出演者」(中島)の対話、より具体的に書けば、聞き手である前者によって導き出される後者の人生の自身の言葉による回顧に沿って進み、そこに加わるのが、中島の語りから喚起される一場面の登場人物めいた存在として、直接言及されるなどした短い楽曲をその場で演奏し、それを終えるとすぐに姿を消すことで作品に区切りや余韻をもたらす女性演奏者たちや、舞台後方に次々と投影される中島の人生に関わる古い写真群といったシンプルな仕掛けである。
  F/T20『ムーンライト』

 やや緊張した面持ちの出演者に対し、「簡単に自己紹介してもらえますか?」と村川が話しかける。その声に促されるように中島は少しずつ語り始めるのだが、それに耳を傾ける僕らは、ある計略の介在に気づかされる。初対面の人間に自己紹介しなければならなかったり、逆に相手にそれを要請する、といった事態は何ら特別なことではないが、「簡単に」という当然の要請ながら曖昧でもある付帯条件がある(計略めいた)作用をもたらす。「簡単に」はどの程度の長さを想定する言葉として「出演者」に受け止められるのか、あるいは、作品の上演のたびにこれが繰り返されるとすれば、「自己紹介」は日々異なる内容になるということなのか……。上演のなかで「演出家」が「出演者」にかける言葉は、いずれも通常の意味での「対話」を大幅に逸脱するものではないが、それが「始まり」と「終わり」を想定した「作品」でのやり取りである以上、何らかの「演出」、さらに強い言葉をあえて使えば、ある種の「強制」をも意味するだろうことが僕らのなかで予感されるのだ。

F/T20『ムーンライト』

 大学生の頃、やがて失明することになるだろう網膜色素変性症であると医者に診断を下されながら、自分はこれまで生きてきた、かつてはベートーヴェンでいえば交響曲第5番のような「勇ましい曲」が好きだったが、いまでは穏やかな曲をむしろ好んで聞くようになっている……。そんな出演者の「自己紹介」を受けて演出家は、彼の目に世界がどう映るのかを観客に共有させるべく、客席を振り返りながらこんな質問を投げかける。「いま、150名ほどのお客さまがいらっしゃるのですが、中島さんに客席はどのように見えますか?」。出演者の応答は以下のようなものだった。大雪が降った後や吹雪の後のような景色で、真っ白に見えます……。
 このやり取りが『ムーンライト』の始まりを告げるうえで意義深いのは、視覚的世界と聴覚的世界の往還の運動が早速そこで生じているからだ。演出家は「何が見えるのか?」と問い、出演者も彼の目に「見える/見えない」ものを真摯に答えているに違いない。しかし、彼の口から漏れるのは、観客が想定する「見える」を見事に覆す言葉の連なりである。それは視覚的世界の(「意味」の)意訳や解釈ではない。実際、彼にはそうした「景色」が見えるのだろうから……。こうして本作の主題は「声」ということになる。そこに「音楽」も加わるが、ここではそれも含めて「声」に固執したい。「何が見えるのか?」という問いへの中島の答えは、なるほど意表を突くものだが、そこで喚起される僕らの驚きや感動は、「何が見えるのか?」に対する答えの(視覚的/意味的な)異様さではなく、あくまでもそれが「声」に翻訳されることに由来するのだ。
 その後もそうしたことが何度も生じる。背後に投影される写真のイメージ(「何が見えるのか?」)を村川は繰り返し「声」に移し替える。たとえば、林間学校や臨海学校で撮影された少年時代の集団写真が投影されると、演出家はその内容を出演者に伝えねばならない。「小涌園と書かれた門があり、たくさんの坊主頭の少年が並んでいます」。あるいは、「皆さん水着姿なのに一人だけ普段着の男の子が人懐こい笑顔を浮かべています。この子が中島さんですよね」等々。別のパターンの「声」への翻訳も聞かれる。楽曲がかわるがわるピアノで演奏されるたびに、そこで受けた印象をほとんど律儀なまでに中島は「声」にする。たとえば、自分の娘にも習わせようとそれなりに高価なピアノを購入したが、彼女はあまり関心を示さなかった、といった序盤での語りを区切るために、最初の演奏者である少女が「発表会」に相応しいチャーミングな衣装で──思わず客席から感嘆のため息が漏れる──現われるのだが、彼女の演奏を聞き終えた中島は、「森のなかで鳥が飛び回っているようですね。元気に動き回っているものが感じられます」と「声」を発する。繰り返すが、こうした言葉は「解釈」や「批評」のそれでなく、あくまでも彼に「見えるもの」の「声」への翻訳にほかならず、それらの反復を通して『ムーンライト』は視覚的世界と聴覚的世界の往還の運動として構築され、この「声」の主題の系列は、終盤におけるテープレコーダーに録音された、ある女性の「声」で頂点に到達するだろう。


F/T20『ムーンライト』

 しかし、そろそろ本題に移らねばならない。本作における「声」の主題は、結局のところ、別の二つの世界──「過去」(潜在的なもの)と「現在」(現実的なもの)──の往還運動、つまりは、「記憶」(潜在的なものの現勢化)の主題へと見事に収斂されるのだ。
 当日、劇場で配布されたパンフレット内のインタビューで村川は、コンセプチュアルなものや抽象的なものと捉えられがちだった自作が、より「シンプルで分かりやすい作品」に移行しつつあり、そうした変化の成果として『ムーンライト』があると語っている。そんな意味で、本作を前に僕がつねに想起=反芻を迫られたアンリ・ベルクソン、あるいは、むしろベルクソンを介したジル・ドゥルーズの「記憶の理論」(以下、引用はドゥルーズ『ベルクソニズム』による)の援用は、それをまたあえて不必要に難解で複雑なものとする「計略」と受け止められる恐れもある。しかし、そもそもベルクソン=ドゥルーズの哲学において「単純(シンプル)なもの」、「純粋なもの」とは何か? それは、それ以上、分割不可能なものである。より正確にいえば、分割をすれば性質を変えてしまうものである。一方、「複雑(不純)なもの」は、いつでも(性質を変えることなく)分割可能なものであり、だから「等質性」によって特徴づけられる。さらに彼らは、「単純なもの(=異質性)」を(数えることのできない)「質的な多様体」(主観的なもの)、「複雑なもの(=等質性)」を(数えることのできる)「数的な多様体」(客観的なもの)に結びつけ、両者のあいだに「本性の差異」を設ける。「数的な多様体」は「空間」であり、「質的な多様体」は「時間=持続」である。そして「記憶」は、「潜在的なもの」である「持続(時間=過去)」(主観的なもの)の「現勢化」(客観化=具体化)に関わる。
 「持続」(=質的な多様体)としての「時間」、より具体的には、「潜在的なもの」(過去=主観的なもの)の「現勢化」(客観化)、すなわち「追憶」の力能をそのまま観客の前で上演してみせること……。それが『ムーンライト』に備わる最も重要で野心的な「計略」であるだろう。同じインタビューから村川の言葉を引用する。「今でも作品をつくる上で、感情と時間の流れを必ず考えています。出演者がどの様に舞台上の時間を過ごしていくか、そのことを考える頼りとなるのが出演者の感情です。ある行為をした後にどのような行為につなげるべきかを考える際、出演者の気持ちの変化を踏まえて作り上げていきます。でもこれは、主演者にとって本当の感情という場合だけではなくて、私が勝手に主演者の感情を想定して考えているところもあると思います。出演者の感情とギャップがあるという意味では、フィクションを作っていると言ってもいいかもしれません」。先の例では、自己紹介に伴う「簡単に」が、出演者の「本当の感情」と舞台上でのそれのあいだに「ギャップ」や「フィクション」を生み落とす計略であったということだろう。
 『ムーンライト』は、中島の「過去」の「追憶」(「声」)に寄り添うように展開され、村川の「声(問いかけ)」やピアノによる音楽、写真などがその「追憶」の作業を補完するのだった。そして僕ら観客は舞台上の「現在」にほぼ不動で座る「出演者」を見守り続けることになる。そこで何が起こっているのか? 確たる基点である「現在」から振り返られた「過去」を鑑賞したということなのか?
 ベルクソンの「記憶の理論」をパラフレーズしつつドゥルーズは、僕らの常識を覆すようなかたちで「過去」と「現在」のあいだの「本性の差異」を説明する。「過去」とはもはや「過ぎ去ったもの」であり、だから「存在しないもの」である、とわれわれは信じる。しかし、それはある根本的な混同によるものではないか。「われわれは存在と現在であることとを混同している。しかしながら現在は存在しない。それはむしろ、つねに自己の外で純粋に生成するものである」。言葉を換えると、「現在は存在しないが、しかし作用する」。だから、「現在に固有の構成要素とは存在することではなく、活動的であることあるいは有用であること」である。だとすれば、「逆に過去については、作用するのをやめたもの、もしくは有用であることをやめたもの」と見なし得るだろう。「現在」は「存在するもの」ではなく「作用するもの」であり、逆に「有用でなく、活動的ではなく、動きのないもの」である「過去」は、「完全な意味において存在する」。「過去」(=存在)を「あった」ものとすることにしばしば困難が伴うのは、僕らの記憶の曖昧さによるのではなく、「過去」がつねに「ある」ものだからだ。
 こうした「過去」と「現在」のあり方を念頭に、さらに以下の文章を読まれたい。「過去と現在は、継起する二つの瞬間ではなく、共存する二つの領域を指示するのであって、現在である方はたえず過ぎ去り、過去である方はたえず存在しつづけるのであるが、それによってあらゆる現在は過ぎ去るのである。……すなわち、過去は現在のあとにやってくるものではなく、反対に、現在によって純粋な条件として想定されるものであり、過去がなければ現在は過ぎ去ることがない。いいかえれば、それぞれの現在は過去としての自身へと送り返される」。

F/T20『ムーンライト』

 『ムーンライト』は、こうした「記憶のパラドックス」──現在が過ぎ去った後でそれが過去になる、といった前後関係(継起する二つの瞬間)で捉えることのできない、現在と過去の関係性──をまざまざと僕らに体感させるがゆえに、刺激的であり感動的であった。そこにおいて「現在」が「過去」に戻るのではないし、「過去」が「現在」において再現されるのでもない。僕らが舞台上で目撃するのは、「現在と過去の同時性」であり、「共存する二つの領域」としての「現在」と「過去」であって、そうしたことから、つねに「過去としての自身」へと送り返されるほかない「現在」、あるいは、それが成り立つための「条件」もそこに露呈されてしまう。
 「過去」とは、ただ「存在するもの」であり、「有用でなく、活動的ではなく、動きのないもの」である。そして少なくとも村川にとっての演劇とは、追憶の力能を介して、そうした有用でも活動的でもない「過去」(潜在的なもの=主観的なもの)を、再び(?)「現在」という活動的で有用な領域に現勢化(客観化=具体化)するための計略なのではないか。実際、こうした「有用性」の問題は、村川の仕事全体を考えるうえでも重要である。たとえば、初期作の『ツァイト・ゲーバー』(2011)や近作の『Pamilya(パミリヤ)』(2020)での、出演者が通常仕事として従事する「介護」の活動を舞台に載せる試みの射程はどこに置かれていたのか。もちろんそれは日常業務の単なる「再現」ではない。なるほど「介護」は有用な仕事であるだろうが、それがひとたび舞台上で演じられるとなれば、その「有用性」は剥奪される。だが、それで活動が「無用性」に沈むのでもない。村川にとっての演劇は、過ぎ去るほかない「現在」にただ従属するだけの「有用性」や「活動」を批判し、それに抵抗することで、別種の「有用性」や「活動」を立ち上げる企てであると思われる。
 僕らの「活動」の領域に現勢化されることで「過去」(=潜在的なもの)は「記憶」になる。「現在」を確かな足場とし、そこから余裕をもった態度で「過去」を回顧すること、つまりは、「現在」から(振り返られる)「過去」、「知覚」から(退行してしまった)「追憶」への道筋を、僕らの「常識」は想定する。その道筋において、「過去」は不確かな「現在」であり、「追憶」はおぼろげな「知覚」になる。ところが、『ムーンライト』での道筋は逆であり、「過去」がいかにして「現在」に浸透するか、「追憶」がいかに「知覚」の領域に影響を及ぼすかが問われる。客席を「吹雪の後のような景色」とする中島の「知覚」は、そうした道筋の逆流の土台であった。

F/T20『ムーンライト』

 作品の終盤で中島本人がついにピアノに向かい、たどたどしく演奏するベートーヴェンの『月光』は、その「終わりのなさ」、完結できるか否かのスリリングな未決定性によって、「現在」に縛られた「有用性」からの離脱や抵抗を担う。あるいは、決して堅固なものではなく、つねに過ぎ去りつつある「現在」が、それを通して「上演」される。「追憶は具体化されなければならないが、それはそれ自身の現在(すなわち、追憶と同時的なもの)とのかかわりにおいてではなく、それとの連関で追憶がいまや過去となるあらたな現在とのかかわりにおいてである」(『ベルクソニズム』)。『ムーンライト』における「追憶」は、過去をノスタルジックに回顧するためにではなく、つねに過ぎ去る「現在」、しかし、そのことによってつねに「新しさ」をもたらす「現在」の生成を、「過去」の介入によって浮き彫りにすべく導入される。そして、村川拓也による演劇は、出演者の「活動」や「知覚」のある種の失調を、「追憶」を介することで別種の「活動」=「有用性」に置き換えるための実験なのである。

引用文献 ジル・ドゥルーズ『ベルクソニズム』(檜垣立哉/小林卓也訳、法政大学出版局、2017年)


(文・北小路 隆志)

 

北小路 隆志

京都芸術大学 映画学科教授。映画批評家。新聞、雑誌、劇場用パンフレットなどで映画批評を中心に執筆。主な著書に「王家衛的恋愛」、共著に「エドワード・ヤン 再考/再見」「アピチャッポン・ウィーラセタクン 光と記憶のアーテイスト」などがある。
 

村川拓也

演出家、映像作家。映像、演劇、美術など複数の分野を横断しつつ、ドキュメンタリーやフィールドワークの手法を用いた作品を発表する。 介護する/される関係を舞台上で再現する『ツァイトゲーバー』(F/T11公募プログラム)は、HAU(ベルリン)の「Japan Syndrome Art and Politics after Fukushima」(14)を始め国内外で上演を重ねている。16年東アジア文化交流使(文化庁)として中国・上海/北京に滞在。18年ロームシアター京都「CIRCULATION KYOTO-劇場編」にて『ムーンライト』(助成:公益財団法人セゾン文化財団)初演。フェスティバル/トーキョーには『言葉』(12)以来の参加となる。 京都芸術大学舞台芸術学科・映画学科非常勤講師。。

この現実の中に、確かにあるものへ―。
“過去と現在を重ね"生"に触れるドキュメンタリー・ドラマ”
村川拓也『ムーンライト』

構成・演出 村川拓也
日程 10/31(Sat)・11/1(Sun)
会場 東京芸術劇場シアターイースト
  詳細はこちら

 

人と都市から始まる舞台芸術祭 フェスティバル/トーキョー20

名称 フェスティバル/トーキョー20 Festival/Tokyo 2020
会期 令和2年(2020年)10月16日(Fri)~11月15日(Sun)31日間
会場 東京芸術劇場、あうるすぽっと(豊島区立舞台芸術交流センター)、トランパル大塚、豊島区内商店街、オンライン会場 ほか
※内容は変更になる可能性がございます。


概要

フェスティバル/トーキョー(F/T)は、同時代の舞台芸術の魅力を多角的に紹介し、新たな可能性を追究する芸術祭です。
2009年の開始以来、国内外の先鋭的なアーティストによる演劇、ダンス、音楽、美術、映像等のプログラムを東京・池袋エリアを拠点に実施し、337作品、2349公演を上演、72万人を超える観客・参加者が集いました。
「人と都市から始まる舞台芸術祭」として、都市型フェスティバルの可能性とモデルを更新するべく、新たな挑戦を続けています。
本年は新型コロナウイルス感染拡大を受け、オンライン含め物理的距離の確保に配慮した形で開催いたします。



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