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2020/04/07

谷口暁彦 やわらかなあそびーシミュレーション世界から予測不可能な世界を見つめ直す

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(文:畠中実)

やわらかなあそびーシミュレーション世界から予測不可能な世界を見つめ直す

客電が落ちて間も無くか、それとも落ちる前からだったろうか、気がつくといつの間にか作品は始まっていた(上演中の注意事項などのアナウンスはあったかもしれない)。スクリーンには、赤いトレーナーを着た坊主頭の男が、雑踏を歩いている様子が映し出されている。カメラはそれを背後からとらえ、男のあとをついていく。私は映像に映る、赤いトレーナーを着た坊主頭の男が、この作品の作者である谷口暁彦だということを知っている。おそらく劇場の客席を埋めた少なくない観客もそうだっただろう。谷口はこの作品の出演者でもある、はずだ。なぜなら、この作品は、谷口の演出・出演による初めての舞台作品であるから。そして、映像は歩き続ける谷口の後ろ姿を追い続ける。どうやら谷口は池袋駅東口から、まっすぐ会場である、私が今いる劇場に向かってきているらしい。それは、まさにいま現在のことなのか、あるいは、それは録画であり、何日か前の谷口の姿であるのか、などと考えているうちに谷口は劇場に到着した。そして、客席につくまでに私も通った会場への階段を上り、入口から客席の通路を通って舞台へと向かおうとする。すると、実際に客席後方から、今さっき映像に映っていた赤いトレーナーを着た坊主頭の男が、その映像とまったくおなじ姿で、実物の谷口として現われ、舞台へと歩いて行った。実物の谷口は舞台に上がると2台のラップトップを操作し、映像の中の谷口のアヴァターとして演じ始めた。



Photo: Alloposidae



この作品は、メディア・アーティスト谷口暁彦による初めての劇場での上演作品である。それは「演劇」か、それとも「パフォーマンス」か、あるいは別の何か、といったことは特には触れられていないようだ。しかし、谷口はこれまでにも、本人によって演じられる作品を、劇場ではない、ギャラリーなどのいろいろな場所で実演してきた。今回の上演作品とこれまでの谷口の実演との大きなちがいは、決定された台本があり、決められた上演時間の中で、計画されたとおりに作品が逸脱なく遂行される、ということがある。今回の劇場での上演作品に対して、それ以外の場所で行なわれたものを区別する意味で、これまでの谷口の作品を実演と位置付けてもよいだろう。近年(2016年以降)では、ゲーム的空間の中で、谷口自身が本人そっくりのアヴァターを操作する一連の作品がある。それは、ゲーム的空間という、現実に似せようとしても似せきれない、ゲームにおける表現を誇張するための表現など、普通に考えると不自然な世界を、現実と対比させながら考えさせる作品である。舞台になるのは、谷口にとっての日常的な空間(実家、自宅、近所の通りなど)を題材にしたものと、そこから逸脱する非現実的な空間へと接続された仮想空間である。実演作品でもインスタレーションでも同様に、本人による実演か、観客による操作か、あるいは操作不要であるかの違いはあれ、それは現実をシミュレーションしたものでありながら、現実とは異なる、シミュレーションであるからこそありえる、ゲーム的世界のリアリティを現前させるという点で共通している。



Photo: Alloposidae




舞台上での谷口は、台本にそって台詞を話しながらアヴァターを操作する。現実空間である劇場の舞台にただひとりいる主演としての谷口が、ゲームプレイヤーのように机に向かいアヴァターを演じさせる。観客が見るべき演者は舞台上にいる谷口であるはずだが、しかし、作品はゲーム的世界の中で展開する。冒頭、谷口がこう告げる。
「私は今コンピュータを操作している。これは、すべてこのコンピューターの中で起きる出来事だ」
これは、この作品がどういう性質のものであるかを宣言するものである。すなわち、舞台上の谷口が操作するコンピュータによって生成される空間がこの作品の舞台であり、観客はコンピュータの中で起きる出来事の投影を劇場のスクリーンで見ることになる。また、谷口の台詞はお世辞にもうまいとはいえない、むしろ素人と言うべきだ。やはりどこかぎこちない動きの谷口のアヴァターが、谷口の姿をしてはいるが、その挙動などは実際の谷口の身体とかかけ離れたものであるのと対照的に、その不器用な台詞はそのまま素の谷口を反映している。

作品の冒頭の実写映像は、現実世界をどこかゲーム世界のように映し出し、次に映像から地続きにやってきたかのように客席に現れた谷口が舞台に上がり、仮想空間の中のアヴァターと、それを操作する谷口となる。この導入は、この作品が、現実世界とコンピュータにおけるシミュレーション世界が相互に介入しあう(が、実際に関わり合えない)、現代のわたしたちの現実感についての考察であることを表している。そして、谷口は、そうした現実感について、いくつかのエピソードを例としてあげながら、この寓話としての作品を進行していく。



Photo: Alloposidae




最初に語られるのは、最初期のコンピューターの起源となった電子計算機ENIACとネズミの話だ。1946年にジョン・モークリーとジョン・プレスパー・エッカートによって開発されたENIACは、よく知られているように、第二次世界大戦中に砲弾やミサイルの弾道を計算する目的で開発が開始されたものだ。映像では、「17000本もの真空管によって構成され、総重量が27トンにもなる巨大な電子計算機」である巨大なENIACが突然森の中に現れ、劇場の片隅にいたネズミが、草むらの中を走り抜けて、それに向かっていく。ENIACの開発中には、空腹のネズミがケーブルをかじる事故が頻発したため、いくつかの異なるメーカーのケーブルと数日間食べ物を与えなかったネズミを箱の中に入れ、ネズミのおいしくない、食べられないケーブルを知る実験が行なわれた、と谷口は言う。すると、森の彼方で爆発音とともに巨大なキノコ雲が現れ、一瞬画面はホワイトアウトするが、前景の森はなにも変わらない。そして、なごともなかったように、ネズミとともに場面はアメリカンスタイルのピザ・バーに移動する。

ピザ・バーには、ピザを前にした、どこか物憂げな様子の谷口の他に客はいない。手付かずのハンバーガーが隣の席にあるが、人の気配はなく、ネズミと谷口だけがいる人工的な空間だ。そこで谷口は、ダグラス・エンゲルバートによって1967年に開発された入力デバイスである、マウスについての説明を始める。「コンピュータの世界の中を、手で直接掴むように操作できる画期的なデバイス」として、現在までコンピュータの付属品として使用されているマウスは、その名のとおりネズミに似た形状に由来する。それがENIAC開発とネズミのエピソードと直接何らかの関連があるのかはわからない。現実世界でコンピュータと直接的な関わりを持って共存していたネズミは、やがてコンピュータに接続された付属物となり、仮想空間にデータを伝え、操作するための媒介装置となって新たな関係を結ぶことになった。私たちはネズミ(マウス)を経由して、仮想空間と接することができるようになったのだ。しかし、スマートフォンやタブレットの登場によって、コンピュータの画面に指で直接触れることで操作することが可能になると、マウスはコンピュータの周辺から姿を消してしまう。


この二段階のネズミの転生、そして消失は、現実空間にコンピュータと共に存在していたネズミが、コンピュータの発展と共に現実空間と仮想空間を媒介し、操作するための装置となり、やがて画面を介して直接仮想空間に触れるようにコンピュータを操作できるようになると、現実空間と仮想空間が同位にとらえるようになっていった、ということを示している。誰もいないテーブルにハンバーガーと、それ自体で動いているマウス、空中に浮かぶタブレットと手首から先しかない手、といった象徴的な描写は、仮想空間からみた現実空間の反映のように見える。そして、その移行の中で起こったネズミの消失という出来事を、谷口は続けて「ハーメルンの笛吹き男」の物語をとりあげて、作品の後半へと引き継ぐ。その物語で、笛吹き男は市民の要請によってネズミを街から一匹残らず追い出すが、報酬を得られなかったために、おなじように子どもたちを街から連れ去ってしまう。谷口は、消えてしまったネズミの寓話をこの「ハーメルンの笛吹き男」と重ね合わせる。そして、たくさんのネズミと接続された谷口は、それをひきずって仮想空間の、川のように見せかけられた底のない空間に立ち尽くし、「このネズミたちはどこへ行ったのだろうか?」と、自問する。それは、ネズミを放逐したことによって、それとひきかえに連れ去られてしまったもの、同時に失われてしまったものは何なのか、という問いでもあるだろう。


F/T19谷口暁彦『やわらかなあそび』より



続く「2018年7月文太が生まれた」と始まるセクションは、作品の(明記されていないが)第二部である。広大な山あいの風景の中に巨大な谷口の妻(と思われる女性)が寝ている。そこから赤ん坊が浮かび上がり、また妻の体内に消えた。仮想空間における文太は現実空間からスキャンされたデータで作られている。
「これは3Dスキャンされた文太なので好きなだけ複製できるが、文太は1人だけ生まれた。たくさんあり得た可能性の中の一つが文太だし、まだ小さい文太にはたくさんの可能性がある」と谷口が言うように、文太はひとつの結果であり、かつ、未知の可能性に満ち溢れた存在だ。しかし、コンピュータがさまざまな可能性をデータによってシミレーションできるようには、文太の可能性を完全に予想することはできないだろう。シミュレーションによる仮想空間が、現実のようだが完全にはおなじようではないように、子どももまた完全に親の複製ではありえない。いくつかの瞬間は記録され、コンピュータのメモリーに記憶される、それぞれの瞬間が、その時々の異なる可能性を垣間見せていることだろう。それらは、いくつかの未来に分岐していく可能性を秘めた、それぞれ異なる可能性を持った瞬間だったはずだ。そして、それは親である自分にとってもまたそうなのである。子どもとともに生きるとはそういうことであり、私たちは互いにどこへ向かうのかを知ることができない、シミュレーションによる予測が不可能な現実の中で、おなじ時間という車に乗って、未来を探す旅に出ているのだ。



F/T19谷口暁彦『やわらかなあそび』より



いままでとスキャンデータが異なると思われる谷口が踊るシークエンスを幕間として、作品はいよいよタイトルである「やわらかいあそび」へと到達する。それは、「安全な子供の遊び場」であり、「すべてがやわらかい素材で出来ている」。ゆえに、「子供は自由に遊ぶことが出来」かつ「高いところから飛び降りたり、物を投げたりしても」絶対に誰も怪我をしない。現実空間においても、子どもの遊び場として知られるソフトプレイは、そうした柔らかい素材で囲まれた安全な空間で、転んだり、飛び降りたりしても怪我をしないように配慮した空間である。しかし、この仮想空間内では、実際のソフトプレイのモデルがありつつ、さらに3Dソフトの質感のシミュレーションが行なわれ、硬い物体、柔らかい物体、表面の反射、液体の粘度などの表現がデモンストレーションされている。さらにこの世界では、そもそも現実のシミュレーションでありながら、そこから反転して現実世界の文太が仮想世界に影響を与える機能が実装されているようだ。文太がおもちゃのバスで遊ぶ実写映像が現れると、仮想世界のバスの車内に映像が切り替わり、中にいる複数の谷口が首ももげんとばかりに転げ回る。現実世界のおもちゃ遊びの車内をシミュレーションして見せることによって、安全であるはずの仮想空間をカタストロフの光景に一変させる。

谷口は、「この世界では、様々なシミュレーションが標準機能として実装されて」いると言い、標準機能のひとつであるとされる「ラグドール」と呼ばれる、ゲームにおける物理シミュレーションを用いた表現手法を紹介する。エスカレーターから、大勢の複製された谷口が脱力したように崩れ落ちていくと、それは「ゲームのようにシミュレーションされた世界における死の表現」であると説明される。エスカレーターから死体のような谷口が次々と転がってきて山のようになると場面は、市街地で大勢の谷口に向けて銃を乱射する谷口のシークエンスに変わる。それは死のない世界における死の表現であり、大惨事や災害の表現である。ゆえに死者は何度でも生き返り、何度でも繰り返すことができる。


さらに「物理シミュレーションは現実を模倣するものだが、私たちが住む世界は物理シミュレーションと似ているだろうか」と谷口は自問する。ゲームに限らず、小説、映画などの物語は、多くの悲劇を生み出してきた。現実は空想に似てしまう、あるいは超えてしまうことがある。そうした悲劇が実際に起きてしまうことは、たしかに悲劇である。サイエンスフィクションとは、誇張した現実によって、現在を批評するものであるが、そうしたシミュレーションでは、ネガティヴな可能性を最大値に設定することで、最悪のケースを想定することができる。そして、その可能性としての世界が、批評、教訓となるように機能していた。しかし、谷口はこのゲーム的空間には「何かが過剰に空転しているような、悲しさがある」と言う。
それは、続くサイコロの考察において表される。谷口はサイコロについて、結果として6の異なる状態を提示するが、「静止するまでのサイコロ自体の転がり方のヴァリエーションは無限で、二度と同じ転がり方をすることはできない」とし、サイコロを「世界のほぼ無限の複雑さを、たった6つの有限な可能性に収束させる装置」と見る。たしかに、世界の複雑さを6つの様態に単純化することはできない。一方で、私たちは「現実に起きる出来事の無限の複雑さ」のそれぞれになにか明確な意味や意図があるわけでもないことも知っている。偶然は必然であり、また運命とはいたずらなものだからだ。私たちはその「現実に起きる出来事の無限の複雑さや、意味の希薄さ」に耐えられるだろうか。耐えられない、と谷口は言う。


続いて谷口は、2018年に起きたVRChatという、「ヘッドマウントディスプレイを用いてプレイするソーシャルVRサービス」での出来事をとりあげ、死のない世界における死のシミュレーションが反転した実例を提示する。プレイヤーの身体の動作がアヴァターの動作に反映され、仮想空間でのコミュニケーションを楽しむことができるというVRChatで、プレイの最中にてんかんの発作を起こしたプレイヤーがいた。しかし、その事実を知りながら、仮想空間ではそのプレイヤーを助けるどころか、プレイヤーに触れることさえできず、「その身体は互いにすりぬけるだけだった」という。場面は、音楽をバックに複数の異なるキャラクターのアヴァターがすり抜ける身体を重ねながら「私の身体は意思を纏わず意味を担う」(んoon 『Gum』)と歌う。仮想空間では、プレイヤーは記号としてのアヴァターであり、擬似的に誰かであることの記号として認識されるにすぎない。プレイヤーが集まる空間は、実際には存在していないし、プレイヤーも実際に集まっているわけではない。谷口による「同じ場所にいて、同じ時間を共有していたと思っていたものが、触れることすらできないくらいに本当はバラバラなんだ」という認識は、それを無条件に前提としているとされるポスト・インターネット的な世代感覚とはずれている。あるいは、そもそもそうした諦念のようなものから出発したのがポスト・インターネットだったのだろうか。それとも、ポスト・インターネット的な状況への懐疑であるのか。



Photo: Alloposidae



「文太は日曜日に妻と一緒に実家から帰ってくる」、それによって谷口もまた現実に帰り、家族とともに現実を過ごすだろう。それは、「現実とは全く関係のない」、しかし、現実とわかちがたく結びついてもいる、「部分的に現実に似ていて部分的に現実に似ていない」、現実世界と仮想世界が表裏の関係であるような世界でもあるだろう。それは自分の意思とは無関係に、どうしようもなく関わらざるを得ない現在の私たちの環境世界でもある。私たちは、「ただのあそび」としての、シミュレーション可能な、死のない世界を内包した現実世界に生きている。そこで、谷口は可能性としての存在である息子文太を通じて、より複雑な、シミュレーションでは予測できない現実をあらためて見つめ直す。そして、視点がズームバックする。劇場、ネズミ、文太、妻。

 

畠中実(はたなか・みのる)

NTTインターコミュニケーション・センター [ICC] 主任学芸員. 1968年生まれ.多摩美術大学美術学部芸術学科卒業。1996年の開館準備よりNTTインターコミュニケーション・センター [ICC]に携わり「サウンド・アート――音というメディア」(2000)や「サイレント・ダイアローグ――見えないコミュニケーション」(2007)、「[インターネット アート これから]――ポスト・インターネットのリアリティ」(2012)など、多数の企画展を担当。このほか、ダムタイプ、明和電機、ローリー・アンダーソン、八谷和彦、ライゾマティクス、磯崎新、大友良英、ジョン・ウッド&ポール・ハリソンといった作家の個展も手がける。

『やわらかなあそび』

演出・出演 谷口暁彦
日程 11/9 (sat) - 11/10 (Sun)
会場 シアターグリーン
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