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2020/04/10

シンギュラリティと交換 『To ツー 通』について

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(文:高橋宏幸)

 その作品の形式と内容は、現在の演劇、もしくはパフォーミング・アーツの前線の一つと言っていい。明確な定義はないにしろ、いわゆるポストドラマ演劇であり、ドキュメンタリー・シアターやレクチャー・パフォーマンスと呼ばれるものだろう。
 もちろん、カテゴライズすることに、さして意味はない。そのようにくくられる作品たちも、本来は多様ではば広い。それでも新たなジャンルとして語られることは、一つの指標となる。実際、リミニ・プロトコルや、ファイブ・アーツ・センターのマーク・テなど、彼らはたしかに既存のジャンルのイメージを超えた創作をしている。それは、今日の世界を演劇によって再現できるかもしれない、新たな方法のひとつだ。
 これらに共通するのは、テーマの扱い方、対象に対する接近の方法だ。現在の社会が抱える問題をあつかうことはもちろんだが、アプローチの身ぶりがある。
 たとえば、ある共同体の問題をあつかうとき。当事者と思わしき本人を舞台にあげたり、創作者が当事者になったり、もしくは興味を持つリサーチャーやインタビュアーとして参加する。その共同体の空間にゆるやかに入り込む。俳優が舞台で演じるのではなく、物語をもつ戯曲があるわけでもない。当事者へと近接する立場で、自身の学んだこと、経験したことを語る。たとえ語る内容が素朴な経験であったとしても、誠実なるものと信憑性、リアリティーは増す。いわば創り手は、その問題の伴走者となる。
 取りあげるイシューに対しても、大上段から振りかぶらない。最初は身近にあることから。しかし、そこにあることに気づかないようなものの断片を集積させて、いつしかそれが大きな問題へとつながっていく。むしろ、隠された政治性を気づかせるように、あえて小さな場所からはじめる。
 それは、個人のおかれた境遇を個人の問題に還元しない。あらゆるものが政治的なこととして、大きな歴史の渦に投げ込まれた、埋もれてしまうかもしれない市井の人々の顔を映す。かつてならばアナール学派であり、日本で言えば民俗学がその代補となった。庶民の個人史や社会の風俗や歴史を発掘する共通の構造、いわば事実をあつかう手つきに類似性がある。



Photo: Alloposidae



 『To ツー 通』という作品も、同じような色あいをもつ。舞台で取りあげるテーマも、この作品を創ったマレーシアと日本の二人のアーティストにとっては、ごく身近なものであったかもしれない。その二人が舞台にあがり、テクストを片手に進行する。声高に問題を叫ぶのではなく、あくまでやわらかいトーンで話される。そのはじまりは、かつて演劇でしばしば語られた、舞台と観客席とあいだの壁を壊すのではなく、そもそも最初からなかったかのように振るまう。この規模の劇場で上演する必要があるのかとも思うが、演者から観客に見せる/伝えるという一方向の関係を壊すかわりに、あいまいなものに転化する。
 そして、マス・メディアが見過ごすイシューとして、東京のある地域の移住共同体、エチオピア・コミュニティを通して、移民と移住、移動をめぐる様々な事がらが描かれる。
 エチオピアという日本から見れば不慣れな地理について、関係する歴史、コミュニティに住む人々へのインタビューなど、さまざまなエピソードを交えながら、台本はあったとしても、観客へと語りかけるようなトークがある。舞台に設えられたスクリーンに映される映像をはじめ、エチオピア人のラッパーが登場したり、言語の説明がなされたり、ローカルフードはもちろん、文化や風俗の紹介がなされる。
 ゆるいトークのなかでも、さらに観客を巻きこもうとラップを歌い、ローカルフードを客席にまわし、わずか1時間程度の上演時間にもかかわらず内容は豊富だ。それらがドラマトゥルギーの勘所として、どれだけ話の盛りあがりに寄与したかはさておき、情報量は多い。



Photo: Alloposidae




 日本の移民政策や歴史のレクチャーはもちろん、発展途上のエチオピアへ旅行に行った経験談も含まれる。さらには、日本のエチオピア・コミュニティとの関係がどこにあるのか見えづらいが、マレーシアをはじめ東南アジアの移民コミュニティ、多様な場所での異文化との接点や、インターカルチャーの現場にも触れられる。途上国内における、さらに経済的弱者である他国の移民から搾取する報告もある。
 これらはグローバリズムと資本主義が結合して補完しあう、世界史の通時性と共時性の交差する点の縮図として移民がある。その大いなる問題を、徐々に、だれもが知らず知らずのうちに、状況に対して接点をもっていることを気づかせようとする。いや、そのなかにすでに居ることを知らせる。
 むろん、移住をめぐる問題は、日本だけの話ではない。日本のエチオピア・コミュニティが主に取りあげられたとしても、そもそも移民の問題を単にドメスティックなものには還元できない。イミグラントとエミグラントという双方の位置があったとしても、二つの場所に限定することすら難しい。それこそ交通の場として、さまざまに行き交う交錯する線のように移動はあるからだ。強制から自発性、ときに移動を余儀なくされる下部構造など、亡命、難民、経済移民から旅行まで、あらゆる移動がある。歴史の転換において移動は必ず起こる。戦争も、侵略も、奴隷も、経済的従属構造における移動も、それは世界を形作った。



Photo: Alloposidae



 20世紀の移動もそうだ。一次大戦から二次大戦にかけてヨーロッパからアメリカへとヘゲモニーが移ったのは、戦争による荒廃や迫害と同時に、それを逃れるための移民たちがいたからだ。そして、21世紀のヨーロッパ難民危機は、ひるがえって日本の入管制度にも目を向けさせた。外国人技能実習制度など、移民たちの労働力は日本社会を下支するが、マイノリティである以上、不可視のものに陥りやすい。かつて1968年のニューレフト運動がマイノリティを「隣の“異邦人”」として発見して、その後の入管闘争へと続く時代をつくったが、いまはグローバリズムの時代における移動が、ふたたび新しい局面をつくり出している。
 この作品もまた、その一例を示している。移住者の共同体とそこにあった共同体のあいだで文化が混淆する、インターカルチャーの産物というよりも、そのパフォーマンス自体が文化の織りなす過程として、完成形を求めないようだ。「パフォーマンス文化の織り合い」については、内野儀の「「インターカルチャリズム」と「国際共同制作」」(『憑依のバンコク』所収)に詳しい。必ずしも敷衍するわけではないが、この一見すると完成されていない習作のような手習いの上演も、もしかしたら作品の対象である移民コミュニティのあいだで起こる文化の形態に、完遂された姿などないゆえに、描き切ることをそもそも求めていないのではないか。これは一つの方法として提示された作品かもしれない。



Photo: Alloposidae



 ただし、昨今の傾向と述べた、レクチャー・パフォーマンスやドキュメンタリー・シアターの形式と、内容であるドラマトゥルギーの親和性がつくる類似の構造には、同時に「この」作品であることとは何か、という含みをもたらす。たとえば、先に劇場で上演する必要があったのかと述べたが、そこに必然性はあまり感じられない。そもそも劇場が先に決まっていたのかもしれない。だからこそ、劇場という空間がもつメディウム・スペシフィックの要素は、作品のどこにあるのか問うてみたくなる。場所も空間も、ましてや対象たる移住コミュニティも、グローバリティが提供する均質な空間化を批判するはずの要素が、どこでも上演ができる形態では、交換できることを示唆するのではないか。
 もしくは、なぜエチオピア・コミュニティだったのか。身近なところにあった移住コミュニティという恣意的な理由だけでは、ほかのコミュニティに交換しても成立するのではないか。むろん、移住者のコミュニティがグローバリズムという共通の基盤の上にあるとすれば、なおさら構造として、どの移民や移住コミュニティを作品に代入しても成立してしまう。その交換可能性は、一般的な移住コミュニティであり、エチオピア・コミュニティという、「この」コミュニティで、「この」私たるべき移住者ではない。少なくとも、エチオピア・コミュニティの移住者のシンギュラリティとして、どこにも交換されない、回収されないものはないか。だからこそ、その小器用に設えられた構造からは、九鬼周造の『偶然性の問題』ではないが、偶然が同時に連れてくるはずの必然性を求めたくなる。



Photo: Alloposidae



 交換できるもの、交換されてしまうものがあるとき、いわば、構造に代入されるだけならば、いま、ここに取りあげられているものは、一般名詞となった移民に過ぎない。それは、作品としての強度や完成度を目指さないゆるさがあるからこそ、同時に劇場空間で描かれるはずの、「この」コミュニティの、「この」人が設える劇的な経験を観客に見せない。いや与えようとしない諦念も含めて、新たな傾向の作品といえるのかもしれない。



 

 

高橋宏幸(たかはし・ひろゆき)

1978年岐阜県生まれ。演劇批評家。桐朋学園芸術短期大学 演劇専攻 准教授。早稲田大学、日本女子大学、多摩美術大学などで非常勤講師。世田谷パブリックシアター「舞台芸術のクリティック」講師。座・高円寺劇場創造アカデミー講師。俳優座カウンシルメンバー。『テアトロ』、『図書新聞』などで舞台評を連載。評論に「アゴラからアゴーンへ 平田オリザの位置」、「マイノリティの歪な位置 つかこうへい」(『文藝別冊』河出書房新社)、「海のノマドロジー 『国性爺合戦』をめぐって」(『舞台芸術』vol.22)「プレ・ アンダーグラウンド演劇と60年安保 武井昭夫と福田善之」(『批評研究』)、「原爆演劇と原発演劇」(『述』)など。Asian Cultural Councilフェロー(2013年)、司馬遼太郎記念財団フェロー(第6回)。

『To ツー 通』

企画・演出 オクイ・ララ、滝 朝子
日程 11/2 (Sat),11/3 (Sun),11/4 (Mon)
会場 シアターグリーン BIG TREE THEATER
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