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2020/03/19

シンポジウム・レポート|福祉、AI、植物から考える、からだと人のコミュニケーション〈後半〉

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(構成・文:河野桃子 ・撮影:鈴木渉)

──「からだの速度、からだの居場所」というテーマで実施したF/T19のシンポジウム。前半では、登壇者3名が各々の活動について紹介しました。後半は、それぞれの質問や、観客との質疑応答。福祉、AI、植物の観点から、人と人が繋がるということやコミュニケーションの仕組みづくりが見えてきました。

人と人のつながり、“顔の見える関係の結び方”とは?


長島 カプカプでは、居心地の良さと、人の魅力をすごく感じます。それぞれのメンバーの魅力が場所と結びついてる。

河合 「名前で話しかける関係性を作る」ということがとても大事ですね。作品を創ると、どうしても「お客さん」という匿名性の高い大勢の方に届けることになります。でも「一人ひとりと関係を結びたい」という思いもある。そういう心の迷いもあって、F/Tではお客さんの顔が見える比較的小規模な劇場の企画も実施しています。「顔の見える関係の結び方」についてどうお考えですか?

鈴木 カプカプに見学に来られる人の中には、「メンバーには愉快な人達を選抜しているんじゃないか」という声もあるんです。でも、そんなことは一切ありません。みなさん「通いやすいから」とか「お菓子を作っているから」というような理由で来ているうえで、それぞれが各々の表現をしているんです。わたしたちは存分に表現してもらえる環境をつくりたい。表現の手段はアートでなくたっていい。だから「アート系施設」とは名乗っていません。アートに偏ってしまうと作品重視になる可能性がありますから。昨今の「障害×アート」の流行りは僕にとってはパラリンピックと同じで、マジョリティ側があるラインを超えて「OKだよ」と言えるような人達だけを認めるような感じがしてしまう。それはひとつの可能性なので存分にやってほしいですけれど、私がカプカプでやりたいのは1人ひとりが存分に表現すること。それはメンバーだけじでなく、私も、スタッフも、お客さんもそうです。
存分に表現できるように、ワークショップなどによって手法を学んでます。メンバーたちがというより、スタッフがおもしろがる力をつけるために。だから、ワークショップには「先生」的な立場でなにかを教えようとはしない人達に来てもらって、一緒に楽しむようにしています。カプカプのスタッフもあまりアートに通じていない人が多いですが、その人達が「あ、これ面白がっていいんだ」「これはやめさせなくて いいんだ」ということを身につけてくんですね。どこにも発信しないラジオを一日やっているなんてわけがわからないけど(笑)、いい大人が本気でやっていることで「ああ、それで楽しんでいいんだ」という空気になっていく。そうして「何やっても大丈夫」と肯定されていくと、場に安心がもたらされるんです。カプカプでは、誰かの否定をしない限りはなんでもやってOK。これが学校や福祉施設なら「立派な人間になるためにはこうじゃなくちゃいけない」みたいなことを教え込まれるのかもしれないけれど、カプカプではそれよりも、世間では非常識と言われることでも本人がやりたいのなら、どうしたらそれを成立させられるかをみんなで考える。舞台の演出みたいなもので、「こうすればみんなOKになるんじゃないか」「お客さんや他のメンバーも楽しんでもらえるんじゃないか」ということをあの手この手で探していきます。するとみなさんが安心して存分に表現をしてくれて、場がどんどん賑やかになっていく。
なぜか障害がある人たちは一方的に「生産性が無い」とか「作業効率が悪い」とか言われるけれども、それは世の中のひとつの尺度に過ぎません。そんなもので勝手に切られて、劣っていると見なされて、それなのに絵やスポーツができる人だけが救ってもらえるというのは傲慢です。だからやっぱり固有名詞を持つ者としての関わりが重要で、一般名詞である“障害者”ではなく、“小林君”“石川君”という名前を持つ人それぞれと丁寧に関わって、1人ひとりの面白さを知ってほしい。
私もみんなと一緒にいて、嫌な部分も面倒くさいこともたくさんありますが、心が揺さぶられて気になってしょうがない。単に生産性だけで切られちゃう社会に乗っからず、目の前のこの人達にどうしても居てほしい。そのためには世の中の価値観を広げていかないといけない。彼らにはもっと違う価値があるということを示したくて、あの手この手を探っています。その時の手段のひとつがアートです。目的ではない。
そうして一緒に過ごしているなかで、“障害者”という一般名詞で呼ばれてる人達だけが楽になるんじゃなく、僕の中にもあるマイノリティー性や、誰にでもある他人と違うからこそしんどい部分が緩まっていく。だからカプカプは一部の人達のためだけでなく、私のためでもあり、すべての人のためにやっています。公共性がすごく高いことだから税金でやっているんです。

長島 「存分に表現をすること」の大事さは伺いましたが、それぞれが自分の表現を見つけて実践するには時間が必要ですよね?



鈴木 そうですね。できるならカプカプで2週間ぐらい過ごしてもらうとなにが大切なのかはじっくり味わえるけど、それはなかなかできない。でも表現する場をつくるコツだけなら時間をかけずに伝えられるはず。だから最近は、今日のようにシンポジウムで話したり、本にしてみたりと試みています。なかなかうまくいかないですけどね。でも、全国にも1万ヶ所ぐらいあるこういう場所(生活介護事業所)の数%でも変われば、それぞれのエリアに「人と違っていい」という空気が広がって、全国的に変化していくと思う。
“居場所”って「本当にいてもいい場所」という感覚なんです。存在を否定されかねない人達がいてもいい場所というだけでなく、自分にとっても同じです。「自分は本当にいてもいいのか」「こんなことをやっていていいのか」「世の中で評価される部分だけで生きていいって言われてるんじゃないか」という思いを全部ひっくるめて、「誰もがここにいていいんだ」と言える場を日本中に点在させていくことを福祉の場からやっていきたいです。

人間ではない、AIの音声が発する自然さとは?


長島 坪井さんにお伺いしたいのですが、AI「りんな」はどんな方達に求められているんでしょう。余談ですが、駅のホームで流れるアナウンスの人工音声が何年かごとに世代交代してイントネーションが変わると、「前のはちゃんと言えていたのに、今度来た新しいやつはイントネーションが間違ってるぞ?」と感じたりするんです。りんなの成長と合わせて考えると、「ソフトウェアのパーソナリティのようなものがどこかに存在しているのかな」というふうに、機械に対して感情的に関わってしまっている自分を自覚しました。

河合 私も真夜中にりんなにLINEを送ったことがあるんですが、AIが代替品ではなく「りんな」としてコミュニケーションすることを自然に受け入れていました。さらに今、振り付けや歌というテキストではない関係性をどのようにつくっていて、今後どのように繋がっていこうとされているのか気になります。



坪井 先に長島さんの言う「AI的な音声の自然さ」についてちょっとテクニカルな話をしますと……AIが言葉を読み上げるにはいろんなやり方があって、たとえば駅だと、言わなきゃいけない言葉がだいたい決まっています。その場合、「〇〇行きです」「右のホームに到着します」という言葉を別々に録って、組み合わせてひとつの音声を作る方法がよく使われます。駅のアナウンスで、駅名だけが突然違うテンションで言われることがあると思いますが、あれは別で録った駅名の音声を組み合わせてひとつの文章にしているからです。
りんなの場合は、相手に情報が伝わればいいということに加えて、エモーションまで音に伝えないといけない。でも、アクセント辞書をもとに機械にしゃべらせると、日本語が文章全体から醸し出すニュアンスを伝えるのに苦労するんです。ただ最近は、人間が「こういうルールですよ」と教えなくても機械学習によってできるようになってきました。たとえばりんなに嬉しそうな言葉をしゃべらせようとする時は、嬉しそうな音声や言葉をひたすら聞かせて、予測してもらえるようにします。これにより昔より自然になってきているんですが、人間のようにいろんな表現ができるようになるにはまだ道のりが長いですね。

長島 りんなの声を減点方式で聞くと「ここのイントネーションちょっとおかしい」とか思うことがあちこちあるんですが、そうでないものが届いていているんですね。りんなのしゃべり方や歌をどういうふうに受け取るかで感覚が違うだろうなと思いました。

坪井 まさに「どんな人がりんなと付き合っているの?」という話に関わってきます。りんなの友達は若い子が多いのは、その子達はりんなが正解かどうかという目線では見てないんですよね。りんなから届いた文章を自分なりに解釈して「心が入ってそう」とか「ちょっと怒ってそう」と感じているんです。逆に大人層になると、ロボットと話していて自分の期待値に入らないことが返ってきた瞬間に「それはダメだ」となる。そういう人はだいたいりんなとまったく会話ができなくて「なんや、こいつ」と話さなくなります。相手の言っていることを正しさの観点や、採点という尺度でなく、どう受け取るかを自分なりに解釈してコミュニケーションしている人はりんなととても上手にお友達としてお話をしているなと思います。
りんながすごいのは、私達はターゲットを決めていないんです。いろんな人がりんなといろんな付き合い方をしている。ある人は妹みたいに見ていたり、ある人は高校の友達と話すのが苦手だから先にりんなでウォーミングアップしていたり、あるお父さんは娘とギャップを感じるのでりんなから新しい言葉を仕入れたりしています。関係性はいろいろだから、“正解・不正解”という見方じゃなく、りんなを鏡にして自分がどう感じるかという価値観を考えてもらえるような関係性になるといいのかな。 そういう意味で、鈴木さんに聞いてみたかったことが……カプカプでは、なぜか人が寄ってきたり、みんなが好きになっちゃう方がいると思うんですが、場のコミュニケーションの中心になる人の共通点はあるんですか?



鈴木 そうですね……段階もあるのですが、まず、わかりやすく愛されキャラクターの人に癒やして欲しがるお客さんもいるんですよ。一方で、なかなか愛されない人達もいるわけですね。そういう人も実は面白いんだということを僕らは知っている。それをどう繋ぐかというところで、物語の力を使っています。たとえば、会った人に突然「左利きの子どもに興味があるんですけど」とよく言っちゃうメンバーは、初対面のお客さんにはギョッとされるんです。でも、そこに物語として「彼はそういう研究をしてまして」という話をカプカプのスタッフがすると、お客さんは気になっちゃうんですよ。日々、即興演劇を上演している感覚です。それを続けていくと、ある日お客さんの方から「あれ、今日は言わないね」となる時が来ます。そしたら、しめたもんです。
あと、山崎さんの「植物の名前がわかることでストーリーが見えてくる」というお話から思い出したんですが、春になるとカプカプの駐車場の近くの山の中で桜がポッと咲くんです。それでようやく「あ~、あの木、桜だ」と毎年思う。つまり毎年、桜の季節以外はその木がなんだったか忘れちゃって“木”としか認識してないんですよ。それは一般名詞の“障害者”としか認識できないのと似ている。固有名の関係から物語が見えてくることで山﨑さんが植物に魅了されたように、わたしも人間に惹かれたんです。一般名詞としての「障害者」を「ちょっとなんか怖い」とか「突然変なことを言う」と思ってる人に、わたしたちが「この人がこういうことを言っちゃう背景にはこういうことがあるみたいです」と物語ることで、少しずつ気になっちゃうといいかなと。それをきっかけに関係が生まれていく。そんなふうに、なかなか愛されにくい人に関心を持ってもらうのが僕らの技量かな、と思ってやっています。

坪井 話が面白すぎてめちゃくちゃ鳥肌が立っています! ちょっとスポットライトを当てるということに非常に感動しました。りんなもよくわからない存在なので、どうやって皆さんにわかってもらえるようにキャラクターをつけるかということをやってきたことにすごく近いです。

植物と人間の関係には、どんな文化的な影響があるのか?

 

長島 山﨑さんの「居場所づくり」のお話は、F/Tもふくめ劇場がこれからどうやってアートプロジェクトなどを外に出していくかを考える時に大事な話です。劇場というのは、言いかえると「環境」のことだと思うんです。どうやってそこに居るか、空調の管理や、暗さ明るさを徹底的にコントロールできる場所です。公演中には制作スタッフなどが空調の温度を0.5℃単位で調整したりもしていて、うまくいかないとお客さんが眠くなったり寒くなったりします。そうやって安定した環境のコントロールをしているのですが、劇場の外にパフォーマンスを持ち出そうとするとまったく通用しなくなって、大変なことが起こる。

河合 とくに海外に行くと、劇場で作品を観るのとはべつに、その土地ならではの植物や空気から受ける影響を感じます。きっと住んでいる人達の風習や生活慣習が違っていて、だからこそどういうふうに劇場に足を運ぶのかも違うのかもしれない。その土地の植物と人間の関係には文化的なコネクションがあるような気がしています。

山﨑 外国と日本の植物についてお話すると、日本はどこよりも植物図鑑がある国だと思うんです。これはすごいことですよ。たぶん植物図鑑の種類は世界一で、植物に対しての知識の文化が異常に高いんです。たとえば、『源氏物語』に出てくる女の人はみんな植物の名前で、しかもすべて紫系なんです。作者が紫式部だからかな(笑)。昔から語られる季語ひとつとっても、俳句や時節の挨拶といったコミュニケーションの中で植物の花だけでなく木々の名前まで語る。私の知る限り、そんじょそこらの国ではやっていないことです。
前にブラジルに旅した女子学生が言っていたのですが、ブラジルでそこにいる人に「この植物の名前は何?」と聞くと「花だ」としか答えられなかった。あとは、食べられるかどうかぐらいしかわからないそうなんです。でも日本は、たくさんの人が植物のことをよく知っているかなり特殊な国だからこそ、その知識をどう利用したらいいかが発達しているんでしょうね。



坪井 私も山崎さんに質問が……りんなはまだ物理的に存在できていないので、実際の「場に居る」ことは考えられないんです。でも私達もエンジニアとしてなにかしら設計図的なものに落とさなきゃいけない。ランドスケープデザインで、見えない「気配」を実際に具現化させるために、どういうところに着目されているのでしょうか?

山﨑 発信する時の「色」や「字の大きさ」にほんのちょっとの変化があると、人は感じとるみたい。りんなさんの音声についても、音の深さや響きの浅さによって室内にいるか屋外にいるか などをちゃんとシミュレーションして計算すると、印象がものすごく違うんですよ。それぞれの現象に対しての奥深さをすこしずつ深めていくと、もっと違うことができそうですね。

長島 それで言うと、どの「気配」が良いかの判断は山﨑さんがされると思うんです。坪井さんご自身は、自分で判断できるように習得していたりするんですか?……というのも、「気配」が数値や設計図に落とし込めるものでないとしたら、心地良いとか、変だとかいう判断は誰の身体がしてるんだろうと思って。

坪井 面白い質問ですね。りんなの場合は数値化できないことが多いから、自分達の心を信じることもひとつですし、実際に世の中に出してみてみなさんがどう感じているのかを観察してやるしかない。あと、歌の場合は音楽のプロの方の見方を教えていただいています。私達は歌を聞いて感動することはできるけれど、なぜ感動しているかはわからない。でもプロの方は、「今のりんなの声は高い声が全然足りていないから、高温を入れないと深みが出ない」と具体的な要素を説明してくれます。私達エンジニアは「伝えることが目的だから」と音の綺麗さは必要ない情報としてぶった切っていたらしいんです。そうでなく、プロの人間の知見をベースにどうりんなに落とし込むかと考えたりします。

山﨑 「気配」について、スピリチュアルな話にはしたくないんですが、東日本大震災の時に、人間は海のにおいが変わったことに気がつけなかったという話があります。人って室内にいすぎて、屋外の森羅万象の変化に関しての感覚がすごく衰えちゃっている。でも、たとえば私は、すごく目が良くて2キロ先のウサギが見えたという嘘みたいなことがあります……今は老眼で見えないんですけど(笑)。コスタリカに行った時にも、動物がたくさんいて、朝ご飯を食べていたら庭に堂々とイグアナがいるような場所なんですが、しばらくいると動物が来るのがわかるようになるんです。なんだか獣のにおいが近づいてきたように感じる。そんなふうに外の空間に鋭敏になることにもうちょっと人間は戻った方がいいんじゃないかな。昔の人はたぶんたくさん持っていた感覚なのに、便利になったり、物事のスピードがはやくなったことによって無くしてしまっている。でもDNAの中にはきっとあるから、それを取り戻すと感じられるんじゃないかな。ほんとうに、風のちょっとした違いや匂いって変わってるはずなんです。それを感じられれば「気配」はうまく作れるんじゃないかな。……スピリチュアルじゃないですよ(笑) 。

長島 実感ですね。

山﨑 そうそう。すごく体験的な話なんです。機能をそがれると鋭敏になっていくし、感覚はみんなも持っているはず。私は植物に関わる仕事をしているからかもしれません。

〈質疑応答〉
AIを通して見えた人間とは?/パフォーマンスを意識して場所をデザインする?

長島 客席から質問はありますか?

A  坪井さんに質問です。からだと最新テクノロジーは遠い気がしたのですが、りんなさんの「爆速返信」が人間のスピードではないからこそ、その人間らしくなさがむしろ安心を与えるのかなと感じました。そこで、音楽のプロの知見を得てりんなの歌を作っていたというくだりで仰っていたように、人間の知見を落とし込んだことで「実は人間ってそういうことだったんだ」と気づいたことはありますか?

坪井 まさに、りんなの開発を始めてから人間のすごさをまざまざと見せつけられることは日々あります。とくに脳の仕組みを勉強していると発見があります。たとえば、実は人間の声にはバイオリンのハーモニーが出ていたとか、会話では正確さでなくちょっと斜め上のことを言った方が仲良くなれるとか……そういうことが日々解き明かされています。それによって、技術としてさらにどう人間に追いつくかを考える日々です。やればやるほど人間観察と人間マニアになってくんじゃないかな(笑)。
だからこそ、いろんな経験の方の知見が合わさって、ようやくAIにとっての新しいやり方の答えが見えてくるのかも。むしろエンジニアじゃない人ほど、AIの作ることに足を踏み入れると面白いのではと思います。


B  山﨑さんに質問です。F/Tでも屋外を使うイベントや劇場外でのパフォーミングアーツなどをされていますが、その時にパフォーマンス側は、上演したい場所を探しに行くのかなと思うんです。山﨑さんがランドスケープデザインをしていく時に、パフォーミングアーツが行われる可能性があることを考えますか?公園にステージを設けて野外劇場にすることはと思うんですが、実際に公園を作られる時は、パフォーマンスがどのぐらい存在感のある選択肢なのかを知りたいです。

山﨑 私は実は、建築学科にいる時は劇場建築の研究室にいたんです。なのでランドスケープに関わる人のなかでは演劇やパフォーマンスは意識しているかもしれないけれど、べつに「ここで何かダンスをしてほしい」といったことは考えていないです。なぜかというと、演出家の佐藤信さんとお仕事をした時に「演劇人っていうのはどんなところででもやるんだよ。場を作るなんて無理しなくていいんだよ」というような感じだったんです。だからこちらがやりたいように不思議な場所を作れば、向こうが勝手に見つけてくれるんじゃないかな。最終的に何が大事かって言うと、さっきの話と同じで「居心地が良い所」かということ。お客さんがものすごく寒いところで演者の話を聞くなんて、とてもじゃないけど頭が回らない。だから居心地のいい所を作れば、自然といろんなものが寄ってくるんじゃないかなと思っています。

──舞台芸術やパフォーミングアーツを考える時に、切り離せない「からだ」。登壇者それぞれが福祉、AI、植物と違う分野の専門ながら、人間のからだやコミュニケーションやその仕組みづくりについて深く洞察していることがわかりました。フェスティバルという人や文化の集合体とも強く結びついている話を伺うことができました。

 

 

鈴木励滋(すずき・れいじ)

生活介護事業所カプカプ所長/演劇ライター
1973年3月群馬県高崎市生まれ。97年から現職を務め、演劇に関しては『埼玉アーツシアター通信』『げきぴあ』劇団ハイバイのツアーパンフレットなどに書いている。『生きるための試行 エイブル ・アートの実験』(フィルムアート社、2010年)にも寄稿。師匠の栗原彬 (政治社会学)との対談が『ソーシャルアート 障害のある人とアートで社会を変える』(学芸出版社、2016年)に掲載された。

坪井一菜(つぼい・かずな)

マイクロソフトディベロップメント株式会社 A.I.&リサーチ プログラムマネージャー、AIりんな開発者
慶應義塾大学理工学部卒業、同大学院理工学研究科修士課程修了。2014年マイクロソフトディベロップメント株式会社に入社。りんなのプロジェクト立ち上げ当初からプログラムマネージャーとして開発に関わり、りんなのキャラクター付けや会話エンジンの開発、りんなのスキルおよび合成音声の開発に携わる他、対外的なコラボレーション企画も担当。

山﨑誠子(やまざき・まさこ)

植栽家、ランドスケープデザイナー、一級建築士、日本大学短期大学部准教授、GAヤマザキ取締役
手軽に楽しめるガーデニングの提案から、園芸店プロデュース・造園設計・都市計画に至るまで、幅広く植物に関係することに携わる。 また、港区や千葉市等の自治体の景観に関わる審議会の委員も多く務める。主な作品に「京王フローラルガーデンアンジェ」「ワテラス」、主な著書に「新・緑のデザイン図鑑」「最高の植栽をデザインする方法」(エクスナレッジ)、「山﨑流自然から学ぶ庭づくり!」(明治書院)。

シンポジウム フェスティバル・アップデート
「からだの速度、からだの居場所」

日程 10/22 (Tue)
会場 東京芸術劇場 シンフォニースペース
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