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「饒舌」が浮き彫りにする「沈黙」。語ることへの終わりなき挑戦

F/T12イェリネク三作連続上演
レヒニッツ (皆殺しの天使)

作:エルフリーデ・イェリネク [ オーストリア ]
演出:ヨッシ・ヴィーラー [ スイス ]
製作:ミュンヘン・カンマ―シュピーレ [ ドイツ ]
11月9日(金)~ 10日(土) 東京芸術劇場 プレイハウス

本プログラムについて

ノーベル賞受賞作家イェリネク作品の、類い稀なる演出が日本初上陸

   2008年にミュンヘン・カンマーシュピーレ劇場にて初演を迎え、絶賛とともに物議を巻き起こした問題作『レヒニッツ(皆殺しの天使)』は、ノーベル文学賞受賞作家、エルフリーデ・イェリネクによる戯曲だ。演出は、イェリネクのテクスト解釈のスペシャリストと称されるスイスの演出家ヨッシ・ヴィーラー。
 本作は、数々の欧州のフェスティバルに招聘され、オーストリアで最も重要なネストロイ演劇賞にて、「最優秀ドイツ演劇賞」を受賞したほか、ドイツの著名な演劇雑誌『テアター・ホイテ」誌では、「2009年度作品賞」を受賞している。今公演は欧州以外では初めての公演となる。ドイツ有数の老舗劇場の俳優陣による、軽妙さの中にも格調が感じられる演技もあわせて堪能したい。


沈黙するレヒニッツ村

 「レヒニッツ」は、ハンガリー国境近くに位置する、人口約3000人の小さなオーストリアの村である。1945年3月25日、ロシア赤軍がオーストリアに侵入する10日前、ナチスドイツ下の親衛隊や秘密警察の指導者、現地の対独協力者がレヒニッツ城でパーティを行った。そこで、パーティの客は、「娯楽」として約200人のユダヤ人の強制労働者を銃殺する。軍隊地方支部の指導者が、選ばれた客に銃を配り、ユダヤ人は裸にされ、暴力を振るわれ、銃殺されるか、叩き殺されるのだった。
 戦後にウィーン地方裁判所で行われた裁判のデータによると、この悲劇が起こった城の持ち主のバッチャーニ伯爵夫婦もパーティに参加していたという。のちに「地獄の主人役」と呼ばれた伯爵夫婦は、ロシア赤軍の侵入直前に外国に逃亡し、刑事訴追されなかった。  殺害されたユダヤ人の死体が葬られた墓の場所は現在でも不明なままであるが、事実を知る筈のレヒニッツの住民たちは沈黙する。戦後、この事件について捜査が行われる過程で証言者の何人かは暗殺され、現在に至るまで、一部の証言者によってこの「地獄の夜」が饒舌に語られることはありながらも、その詳細までは決して明らかにならない。「ユダヤ人には嘆きの壁があるが、レヒニッツでは沈黙の壁がある」と、ある住民が言ったという。


シュルレアリスムの名作映画 『皆殺しの天使』 から想を得て

 『皆殺しの天使』(メキシコ、1962年)は、イェリネクが本作を構想する際、参考にしたスペインの前衛映画監督ルイス・ブニュエルの代表作品である。舞台は、とあるブルジョワジーの屋敷での豪華な晩餐会。会が終わるも、なぜか客は誰一人帰ろうとせず、そのまま夜を明かすことになる。朝になるが、目に見えない壁があるがごとく、誰も部屋の外へ出ることができない。次第に水と食料が足りなくなり、客たちのあいだで生き残りをかけての戦いが始まる。極限状況で上流階級の人々の本性がむき出しになっていく。なぜ部屋から出られないのか、説明が与えられないまま...。これは、当時の上流階級の人々に対する、非常に鋭い風刺的作品と言えよう。


イェリネクが歴史と向かい合う時。沈黙する歴史の地層を言語が掘り進める

 舞台上には5人の使者が登場する。彼らはレヒニッツ村の事件に直接関わっておらず、「報告者」のスタンスをとっている。ただし、言葉では言い表すことのできない事柄を語ろうとする使者たちは、『皆殺しの天使』に登場する夜会の参加者と同じように、外への通ずる道を失っている者たちなのかもしれない。
 事件の相貌を口述で掴もうとする報告者たちは、言葉の繰り返しやバリエーション、矛盾、脱線の迷路に迷いながら話し続け、言語の罠に絡まり続ける。彼らの報告は、犯罪者、犠牲者、および観察者の立場を明確化せずに進み、区別が見えなくなっていく。事件関係者のスタンス、発言や言葉の意味合いが重層化していくほど、使者たちの語りは口数の多い沈黙になっていく。それはレヒニッツ村の住民に今日まで築かれる「沈黙の壁」のようでもあるのだ。
 この事件を隠蔽する「空気」に近づくために、イェリネクは出来事の地層を一つ一つ除去し、掘り進める作業を言語で行う。イェリネクは歴史上の虐殺を物語的に再現するのではなく、この事件の詳細についてのルーレットの玉を「思考のカジノ」に投げる。言語の構造などあらゆる観点から言語を利用し、言葉のイデオロギー的本質を露出させる。フーガのように作曲された言葉たちが重層化し、だまし絵が誕生していくように。  レヒニッツ城で起こった事件の恐ろしさは、言葉でいくら表現しようとも出来事の核心までは届かない。だがしかし不鮮明であり続けているからこそ、イェリネクのテキストからはレヒニッツの虐殺について頭に残って離れない疑問の数々を攻撃するほどの、重層的かつ複雑なイメージが浮かび上がってくる。その背景にあるイェリネクの問いは我々が歴史をどう扱うということだ。我々が過去についてどう語り得るのか?どう語るべきなのか?どう語りたいのか・・・?

歴史の上にあるこの路面が何度も引き裂くだろう。私たちはこの挑戦に本気で応ずるまで、この歴史にくたくたになるまで向き合わなければなりません。アウシュヴィッツの後に詩はあってはいけないと言うならば、アウシュヴィッツが内在しない詩もあってはいけないと私は言う。(アウシュヴィッツは)なくなっても、常に存在しなくてはいけない。それにも関わらず、克服することができない。

(エルフリーデ・イェリネク)

スイス生まれの国際的演出家 ヨッシ・ヴィーラー

 イェリネクによる、この複雑なテクストを扱うのは、スイス出身の演出家ヨッシ・ヴィーラー。古典作品を時代に適した解釈で読みとき、原作を深く掘り下げた演出に定評のある彼は、演劇のみならず、オペラ作品においても、常に観客に新鮮な目線を呈示し続けている。両者共に、歴史に対し真摯に対峙している、希有な同時代の才能の出会いに期待したい。



寄稿
エルフリーデ・イェリネク、言葉と政治、現代演劇

林立騎(翻訳者)

 かつてあるインタビューでみずからの芸術に対する姿勢を問われたイェリネクは、「政治的な内容にとどまりつつ、言語的な実験を続けたい」と述べた。たんなる政治的作家でも実験的作家でもなく、それらを両立させたいというのである。それはおそらく、現代において「政治的な内容」が「言語的な実験」を必要としているという確信に基づいている。
20世紀ドイツの法学者カール・シュミットは、政治とは「友」と「敵」を分けることだと定義した。その定義は今なお生き延びている。賛成か反対か、支持か不支持か、存続か撤廃か。「友か敵か」のバリエーションをわたしたちは日々目にしている。立場を鮮明にすることは、「わたし」や「わたしたち」にアイデンティティを与え、安定を生む。しかし他方で、一部だけ反対、条件付きで賛成、今は賛成とも反対とも言えない、等々の割り切れない、分け切れないものを排除しかねない。決めきれないまま居心地の悪い思いを抱え続けることは難しく、「今、ここ」での決断を迫るような「空気」が、あたりを満たしていないだろうか。
「政治的」で「挑発的」な作家として知られるイェリネクだが、彼女の政治性とはそうした党派性のことではない。むしろイェリネクが「政治的な内容」に対して持ち込むのは、決め切れない居心地の悪さ、安定を許さない絶えざる違和感である。だがそれはいかに実現されるのか。
 第一に、複数の意味やイメージを同時的にもつ言葉によって。東日本大震災と福島の原発事故をきっかけに執筆された『光のない。』において、そのタイトルは希望が失われた状況を示すと同時に、啓蒙の「光」が文明を進歩させた果ての光景として原発事故を捉える。つまり「光」はその肯定的な側面と否定的な側面を同時に明らかにする。そのときわたしたちは「光」を「友」とも「敵」とも言えない。「友か敵か」の思考が複雑な現実を単純化して提示するのだとすれば、イェリネクはむしろ現実の複雑性が極まるようなポイントを見つけ出す。イェリネクは、さまざまな党派性をすべて同時に包む言葉を見つけ出すことで、より根底的な問題(「光」とはなにか、これ以上の「光」は必要なのか、「光」のなさにも価値はないか、等々)を浮かび上がらせる。それは政治の現場では行われ難い実践である。だからこそ彼女は「政治的な内容」を「言語的な実験」に晒すのだ。
 そして第二に、「今、ここ」の問題を敢えてまったく別の時代や文化と結びつけることによって。東日本大震災から一年と一日が経った2012年3月12日、イェリネクは自身のHPで新作『エピローグ?』を発表した。これはやはり福島の原発事故や放射性物質の問題を扱う作品だが、同時に約2500年前に生まれた最も有名なギリシャ悲劇、ソフォクレスの『アンティゴネー』を引用している。両者はもちろん直接に関係しない。だが複数の異質な「今、ここ」を敢えて接続し、歴史を「客人」として招くことで、イェリネクは現代の捉え方を拡張しようと試みるのである。
 そもそもわたしたちが直面している現実は、「今、ここ」だけで考えても、「友か敵か」だけで分けても、もはや生産的に展開しないのではないか。演出家ヨッシ・ヴィーラーは、イェリネクのテクストでは「人物が語るのではなく、文明、文化、現代の総体が語っている」と述べている。それはシュミットとは別のかたちで現代の政治を問い直す言葉なのである。
 人物や時代、場所の指定がほとんどなく、無数の意味やイメージが襞のように織り込まれたイェリネクのテクストは、演出次第でさまざまに上演できる。ポストドラマ演劇と呼ばれる、もはや戯曲の再現を至上命題としない現代演劇にふさわしく、新作が書かれるたびにドイツ語圏の大劇場で話題になる。
 ほとんど散文詩に近いような作品を敢えて「演劇テクスト」として発表することには明確な意図があるだろう。すなわち、言葉が声になること、そして言葉が他者によって咀嚼され、上演という別のかたちへ変わることをイェリネクは求め、そうなるべきものを書いている。上演には、イェリネクが執筆の出発点とした政治的出来事をさらに挑発的に示すものもあれば、ヨッシ・ヴィーラーのように哲学的な側面を声として響かせるものもあるし、パフォーマンスに近いものもある。今回のF/T12は、三浦基氏による『光のない。』の舞台上演、高山明氏による『光のないⅡ』の野外ツアー上演、さらにドイツからヨッシ・ヴィーラー氏の『レヒニッツ』客演と、エルフリーデ・イェリネクのテクストに対する複数の「出会い」が一同に会する貴重な機会である。イェリネクのテクストのさまざまな上演は、現代演劇の政治性と実験性を、また現代演劇の言葉が、そして上演がいかに現代と対峙できるかを、わたしたちに明確に示すだろう。



劇評

ミュンヘン・カンマーシュピーレは、イェリネクの扱いにくい強大なテクストを、さりげなく、キャバレー風で気味の悪い部屋に現出させる。俳優たちはホラー映画の登場人物や、視野の狭いブルジョアへと変化する。不愉快ながら素晴らしい。

ドナウクリエール新聞(インゴルシュタット市)(Donaukurier Ingolstadt)

エルフリーデ・イェリネクが冗長な沈黙を与える一方、ヨッシ・ヴィーラーは目に見えないものを可視化する。彼女は5人の優れた俳優アンサンブルを、酒盛りで徐々に疲労していくパーティの客たちに見立て、殺人者の巣窟を千鳥足で歩かせる。その巣窟は人間の心である。

新チューリッヒ新聞(Neue Zürcher Zeitung)

100ページにわたる壮大なテクストで、140分もの間観客を魅了する。ミュンヘン・カンマーシュピーレのような劇場でしか成し得ないだろう。

シュベービッシュ新聞(Schwäbische Zeitung)

ヴィーラーは悪の陳腐さだけでなく、そのわいせつさも演出する。にやけた上機嫌の夜は、息詰まるような気持ちも湧きおこす。

南ドイツ新聞(Süddeutsche Zeitung)

about artist この作品のアーティストについて

ヨッシ・ヴィーラー
演出家

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エルフリーデ・イェリネク
詩人、小説家、劇作家

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