「劇評」は、なぜ書かれ、読まれるのか?

<森山直人氏>

私は劇評コンペの審査に携わるのは今回が初めてである。だから、他の二人の審査員のように、過去のコンペと比較して何か言うことはできないが、総じて、応募された劇評は、どれもそれぞれ力作が多かった。そのこと自体は喜ばしいと思う。ただ、今ひとつの舞台作品について劇評を書くという行為が、それぞれの投稿者の中でどこに向かい、何に繋がっているのか、という点も、実は一本の劇評の成否以上に重要である。いいかえれば、一本の劇評としての説得力だけでなく、なぜその人が、この作品について、このような劇評を書こうとしているのか、という次元における説得力があるかどうかである。この人は、どんな「視界」において、この作品をこのように評価しているのか。同じ審査員の福嶋亮大氏が、審査会の場で「書き手の演劇観」という言葉を使ってそのことに言及していたが、そういう部分まで迫力をもって読み手に伝わってくるような劇評が、残念ながら今回は少なかったように思う。昨年、一昨年が三本の優秀賞を生んだのに比べて、今回二本になっているのは、「これだけはどうしても推したい」と思わせる批評が見出しにくかったことに一因があるのかもしれない。

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劇評コンペから次の場へ

<高橋宏幸氏>

今回の劇評コンペの応募された作品を、第1回目の劇評コンペでも審査した経験から比較してみると、全体の劇評のレベルが格段に上がっていたことに驚いた。おそらく、1回目に受賞した劇評のいくつかでは、今回受賞できなかっただろう。劇評の審査は匿名で行われたので、全ての応募作を読み終えたときの私の印象はそこに集約された。

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大事なのは中身、あとは文章の技術力

<福嶋亮大氏>

劇評コンペの趣旨は、これからの演劇界に貢献してくれる書き手にデビューの場を与えることにある。そこで試されているのは、作品ごとの性格をきちんと理解し、広い視野からその意味を位置づけられるだけの能力である。したがって、個人史的体験にあまりにも深く依存して書かれた劇評には、コンペの性質上、高い得点を与えることはできない。逆に、きちんと目標を決め、それに向かって一つ一つ論証を積み上げていく実直な書き手には、おのずと評価が集まることになる。

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★劇評コンペ 優秀賞発表★

<審査結果氏>

11月29日(火) 劇評コンペ講評会を行いました。
優秀賞受賞者の皆さまを、ご報告いたします。

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  • 2011年12月01日

言葉なき雄弁、あるいは、ままならなさの可能性

百田知弘氏>

まず本編に先立つ「前説」として演出家自身が登場し、この公演には重度身体障害者の「フジイさん」と実際に身障者の介護を経験しているヘルパーが登場すること、フジイさんはまばたきでしかコミュニケーションが取れないことなどを説明していく。しかし、それに続く「フジイさんを演じる役者がいないので、観客の中の女性にお願いしたい」という発言には戸惑いを覚えさせられる。いきなりそんなことを頼んで、応じてくれる人はいるのか? いたとしても、スムーズに舞台は進行できるのか? 一抹の不安を漂わせつつもフジイさん役が決まると、さっそく演出家が指示を与える。最初の三つは「顔はなるべく上げるように」など、舞台上での動作に関するごく当たり前の内容だが、続く「何か願い事はありますか?」という唐突な問いかけに、またしても戸惑わされる。結局、その願い事をもとに決めた台詞を「劇中のどのタイミングでもいいから3回言って下さい」という指示が出るのだが、観客からすれば「これから舞台上で何が起こるのか」だけでなく、「フジイさん役はちゃんと指示をこなせるのか?」にも否応なく注意を向けさせられることになる。観客に狙いを悟らせないまま客席と舞台との間に奇妙な関係性を構築して本編に導入するという手法が、実に巧妙だ。

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異郷化をともなう身体――屁による異郷化――

渡辺健一郎氏>

この作品の「テクスト」が扱っている問題は、移民2世のアイデンティティについてである。欲望に忠実に生きる移民の父親と、純血思想を持った日本人の母親とのもとに生まれた子供、移民2世に焦点が当てられている。彼は日本の文化に親しんでおり、どうやら日本式の教育にも積極的に取り組んでいる様だ。しかし自らの両親のせいで、自分が何者であるかという問いに答えられない、いわゆるアイデンティティ・クライシスに苛まれている。つまり、父親は祖国の伝統を大事にし、子供にそれを押し付けようとしている。母親はその様な「異物」を忌み嫌っており、自分の息子に父との類似を見ると厳しく叱咤する。息子は父親の郷愁を日本においては異物であると認識ながらも、「歌いながら楽しく食事」など、父親の身体感覚を享受している。彼は単純に両親を愛し、父親の祖国を、日本を愛しているのである。しかし両親との距離を同定できず、二つの文化の間で揺れ動く彼は最後に叫ぶ。「いったいおれは誰なのか?という初歩的な問いにさえ躊躇してしまうおれはいったい誰なのか?日本人で外人、外人で日本人、日本の子供で移民の子供。割れた半分の固体、牛の子と呼ばれ移民の子、純血なのに異邦人のおれ!」

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こちらを見て笑っている二人の男がいる

奥村佳帆梨氏>

 こちらを見て笑っている二人の男がいる。彼らは親子であるらしい。あまりにも可笑しそうに笑う姿に、観客の目は釘付けになってしまう。一体何がそんなにも面白いのだろうか。しかし直後に、彼らは怒りと悲しみに満ちており、笑われているのは他ならぬ観客、つまり「わたしたち」であると知る。気が付いたときには遅かった。解決する方法を持たない未知の問題に対する恐れの気持ちを見透かされてしまったのだ。もう目を背けることはできない。
以下は「直視する体験」の記述である。演劇を通して語られる物語はフィクションであっても、それを提示するのは生身の身体である。そしてわたしたちもまた、それぞれの身体をもって客席に座る。テレビのようにチャンネルを変えてなかったことにすることはできない。双方の身体の対峙は紛れもない「現実」の出来事であるからだ。

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試されるアイデンティティ

中村直樹氏>

「わかるとおもいますけど、これは牛で~す」
四つん這いになった日本人の男に対し、移民と日本人の子である移民二世はそう言い切る。
「この牛は順調に行けば寿命を全うします。
 この牛は本来であれば売りに出されるはずです。
 この牛の寿命は、だから売りに出されるまでです。
 だけどこの牛はおそらく、寿命を全うできません」
現実にその雄牛は社交的な態度を示すも移民にいいように扱われ、闇の中に連れ出されてしまう。そして雄牛と共にいた雌牛は移民によって犯されてしまう。その上で移民はこう歌うのだ。
「うまいぞうまいぞ、牛丼だ!
 牛を殺して食べちゃいな!
 牛丼食べたら寝てしまえ!
 眠り起きたらまた殺せ!
 肉を切って、骨にする!
 血を流して、土地に住め!
 子供はほいほい産ませちゃえ!」

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イヴはなぜ楽園を追放されたのか ‐『ザ・ショー・マスト・ゴー・オン』評‐

山崎健太氏>

公演2日目の舞台上に、パフォーマーの一人である快快の篠田千明の姿はなかった(註1)。この出来事に『ザ・ショー・マスト・ゴー・オン』という作品の本質と、10年前に作られたこの作品の今日的な意味が集約されている。

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『ザ・ショー・マスト・ゴー・オン』における親しみやすさの効果

中山大輔氏>

F/T11のクロージング作品として上演された、ジェローム・ベルの日本版『ザ・ショー・マスト・ゴー・オン』(初演2001年)は、コンセプチュアルさで知られるこの振付家の他の作品同様、西洋の舞台芸術における約束事や個人と集団との関係、過去の芸術家へのオマージュなど、さまざまな知的な仕掛けが盛り込まれた作品である。だが一方で、この作品はベルにとっては珍しく大劇場向けの作品である。また世界50都市で上演された商業的に「成功」した作品でもあり、日本版も客席の反応から察するに、一定の「成功」を収めたと思われる。

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