『ザ・ショー・マスト・ゴー・オン』 ― コミュニティーは形成されたか ―

直江早苗氏>

 十月三十一日(月)さいたま芸術劇場の大練習室に男女各十四名、総勢二十八名が集合する。演出助手エド・ディク・ディナ、ネヴェス・エンリックの指導のもと練習が始まり、演出家ジェローム・ベルが仕上げにたずさわる。

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ヒトイネ―『動物化』する無機物たち

神岡磨奈氏>

 人間とその産物との関係性とはなんだろうか、などと考えたことは今まで1度もなかった。産物が産物たりうるのは人間がいるからである。モチロンだ。演劇は特に生の人間の存在が不可欠な「アート」である。そこに参戦してきた「カオス*イグザイル」。そこに関わる人間は無数でありながら、影を潜め、隠れ、また息絶えていた。そこに見えた「人間」とは。

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反スペクタクルに踊ろう/踊らなかったりしよう−『ザ・ショー・マスト・ゴー・オン』評

夏目深雪氏>

 『ザ・ショー・マスト・ゴー・オン』は、誰もが知っているポップスが流れるなか、その曲のテーマに関わるものを公募で集まったダンサーたちが、時にはダンス以外の方法を用いて表現する演目である。ベルに対する知識がない人がそれだけを聞くと、アメリカナイズされたミュージカルチックなダンス、ダンサーたちがノッて踊りまくり、最後は大円団の大喝采というものを想像してしまうかもしれない。或いはベル、コンテンポラリー・ダンスに対する知見が多少なりともある人なら、難解で抽象的なダンスを観客たちがじっと鑑賞する場を想像するのかもしれない。だが、演目を実際に見て私が連想したのは、他のダンサーや過去の演劇ではなく、やはりベル自身影響を隠さないロラン・バルトであった。
 ベルの過去の作品はバルトの理論のダンスによる実践のようなものがいくつかある。1995年の『ジェローム・ベル』はダンサーは裸、照明や音楽も極力排除という、バルトの「零度のエクリチュール」の実践版とでも言えるべきものであった。1997年の『シャートロジー』ではバルトの試論「衣服の歴史と社会学」から着想を得て、パフォーマーが幾重にも重ね着しているTシャツを脱いでいくなど、「衣服」をテーマにしている。(※1)ではこの『ザ・ショー・マスト・ゴー・オン』はどのように、バルトの理論を実践しているのだろうか。

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叙情性と論理性の狭間で

百田知弘氏>

全体的な構成の妙や、印象に残る情景描写などは楽しめた半面、さらに掘り下げられるはず(あるいは、掘り下げるべき)ところを詰め切れていないもどかしさを感じさせる公演だった。

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「移民」というニセのテーマ

高橋英之氏>

記憶に残る作品は、必ずしも観劇の最中に共感や感動を生んだりはしない。経験的な法則だ。客席で高揚感に包まれ、涙を流し、力いっぱい拍手をしてしまうような作品に限って、しばらくするとその内容をすっかり忘れてしまったりする。逆に、どうにも納得のできない、なんだか理解を超えたものを見せられたような気持ち悪さに支配されて、拍手をするのもためらわれるようなときに、まれに「あ、これ、記憶に残ってしまう」という予感だけがぼんやりと広がることがある。かなり時間がたってしまってから、期せずして思い出してしまっては、うっかりと反芻させられてしまうような作品。岡崎藝術座の『レッドと黒の膨張する半球体』は、まさしくそんな作品であった。

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望月綾乃の現実感

福田夏樹氏>

唐突だが、ロロの女優、望月綾乃は猫背だ。望月綾乃という人物像の本質はそこにあると考える。だから、誰がどう見たってなマンガ・アニメ的なヒロイン、タッチでいう朝倉南みたいな、どこをとっても完璧なヒロインにはなれない。もちろん、演劇は見立ての芸術であるから、望月綾乃をそのポジションに配すことは可能だ。しかしその際、望月綾乃をヒロインに違和感なく見立てるためには、その猫背が観客に及ぼすどうしようもない現実感、そのもたらすイメージを打ち消したり、昇華したりする作業が必要となる。その意味で、望月綾乃は(何の処理も不要に、そうであるという意味での)絶対的なヒロインではありえない。

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物語「復活」のための孤独な闘い

福田夏樹氏>

ピーチャム・カンパニー「復活」は、それだけで十分満足してしまいそうな程、東京タワーのふもとにある芝公園という圧倒的なロケーションで上演された。だからこそ、まずはあえてストーリーを詳細に追うことから始めてみたい。

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「モチベーション代行」の代行

渡辺淳氏>

 10月30日の日曜日の午後3時、捩子ぴじんことハタケヤマヒロユキは、ファミリーマート・トモニー清瀬店のシフトに入っているはずだった。
 同じ時間、私は池袋のシアターグリーンに捩子ぴじんの「モチベーション代行」を見にきたはずだった。しかし、VTRの中の捩子自身により最初に宣言されたのは、舞台上のダンサーの不在と、ダンサー・振付家の捩子ぴじんが、コンビニ店員のハタケヤマヒロユキである、ということだった。
もちろん、実際には捩子は舞台上に登場するわけだが、それは果たして「ダンサー・振付家」の「捩子ぴじん」だったのだろうか、それとも「コンビニ店員」の「ハタケヤマヒロユキ」だったのだろうか。

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気持ちいいだけじゃダメかしら――ゼロ年代の向こう側、ロロ『常夏』論

海老原豊氏>

ロロの芝居を形作っているのは、「ボーイ・ミーツ・ガール」というプロットと、舞台の上からあふれんばかりのこのプロットにまつわる多種多様なイメージだ。作・演出の三浦直之が率直すぎるぐらいに認めるように、ロロのほとんどの戯曲が「ボーイ・ミーツ・ガール」を描いているわけだが、ただロロの場合は、「ボーイ・ミーツ・ガール」といえどもプロットと呼ぶことがためらわれるぐらいに抽象度の高い概念であることに注意を要する。それはまるで、ひとつの哲学・ひとつの思考実験としての「ボーイ・ミーツ・ガール」とでも呼ぶのがふさわしい。過去の作品、そのものずばりである『ボーイ・ミーツ・ガール』(2010年8月、王子小劇場)にしろ、あるいは『旅、旅旅』(2010年5月、王子小劇場)にしろ、いずれも「ボーイ・ミーツ・ガール」の形式を用いつつえぐりだそうとしているのは、本来的に偶発的である出会いに宿る必然性だ。さらにいえば『ボーイ・ミーツ・ガール』では殺人鬼による「殺す相手は誰でもよかった」という偶発性を、『旅、旅旅』では固有名の贈与=命名という偶発性を横糸に織り込むことで、「ボーイ・ミーツ・ガール」の縦糸を補強し、芝居全体を立体化させることに見事なまでに成功している。この偶発性と必然性を繋ぐ回路となる抽象概念としての「ボーイ・ミーツ・ガール」に彩りを添えるのが、これもまた三浦が素直に認める「サブカルチャー」への種々の言及であり、引用だ。この二本の柱をしっかりと見据えることが、ロロの世界へ没入することを容易にする。

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劇評できない心のゴチソウ

金沢章子氏>

秋なのにうらあたたかい、昼さがり

首都圏の喧騒を離れた閑静な住宅地

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