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2018/10/24

『演劇書簡 -文字による長い対話-』 応答:砂連尾理

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(文・砂連尾 理)

『演劇書簡 -文字による長い対話-』 応答:砂連尾 理

 書簡への応答のようなもの  

 松田さん、こんにちは。先ずは書簡による対話者に選んで頂きありがとうございます。松田さんとは京都で暮らしていた頃からの付き合いでしたので、京都芸術センター内のカフェや四条烏丸近辺の居酒屋で度々話す機会を持っておりましたし、またこの春からは、縁あって私も松田さんと同じ立教の教員になったことから、直接話す機会には恵まれておりましたが、改めてこのような書簡でのやり取りはそういえば初めてのことで何だか不思議な感じがいたします。
  書簡拝読しました。
“演劇で何かを表現することは、統合された主体としての個人に関わることではなく、それが切片化された話し声や身ぶりによる上演をへて初めて生まれる主体の複合体としての生成ではなかろうか。“
“統合された主体としての個人に関わることではなく、それが切片化された話し声や身ぶりによる上演をへて初めて生まれる主体の複合体としての生成”
“演技をすることよりも、態でいることのほうを選ぶこと。”
等々、身体論としての側面も多く、ダンスに携わっている身としては大変興味深く読ませていただきました。ただ、深い考察から紡がれた松田さんの問い掛けにはただただ感嘆するばかりで、それに応答する思考がなかなか追いつかない身としては少し途方に暮れております。はてさて、どうしたものでしょう。
 そこで、そういえば、この夏、マレビトの稽古場に何度かお邪魔させてもらった事を思い出し、私がマレビトの稽古場で感じたことを述べることで、それが今回の書簡に対する何かしらの応答になるのではと、少し開き直った気持ちも持ちながらこのまま筆を進めてみたいと思います。
 『福島を上演する』の稽古場に初めて入らせてもらったのは確か8月の末。そこではいつものマレビトの舞台で役者が見せる演技が展開されていました。淡々とした語り口に淡々とした動作は昨年拝見した舞台とほぼ同じ演技スタイルでした。でも稽古場に2回、3回と行かせてもらいながら、改めて彼らの演技をじっくり拝見させて貰っていると、あることが気になってきました。それは役者の発する声の方向性に不思議な感覚を覚え始めるようになってきたのです。それは、彼等の声の特徴である決して劇的な語りではなく淡々とした語りは、一体何処に向かって放たれているのかということでした。一見ダイアローグのように見えるシーンでも、果たしてその言葉は対話中の相手に向け発せられているのでしょうか?またダイアローグを交わしているその二人はほとんど目を合わせることもありません。対話しているように見えているのだけれど、実はモノローグを語っている人間が立っているだけで、その二人がたまたま横並びでいたことで、それを目撃している私たちがそこに勝手に物語を読み取っているだけではないのか?全くもって関係性が断絶されている存在の有り様、その点在が奇妙な時間、空間感覚を私に喚起させまます。そして、稽古の進行と共に、マレビトの役者から放たれている明確な他者に向けた訳でもなく、独り言のような呟きでもない言葉・身体はその場で目撃している私の身体を侵食し始め、私は何度も眩暈に襲われました。
 劇的にかたらない、ふるまわない、かと言って自然体でもない、またダイアローグでも目を合わさない、向き合わない、そしてそれはもしかするとダイアローグでもない、ましてやハーモニーやポリフォニーでもなく、安易にカオスにも陥らない。マレビトの舞台は、そんな“ない”を重ね、“ない”という関係が重層的に折り重なった奇妙な演劇が生み出されているかのようです。そんなマレビトの舞台からは、そこかしこに配置された“ない”が共鳴し、時にリズムを作り、けれどそれは決して役者というポジションからこちらに向かって放たれることによって生み出されるリズムではなく、役者同士、役者と観客間、さらに言うとその場に存在する全てのものが“ない”をきっかけに吸引し合うようかのように生まれてくるリズムに私の身体は決して乗せられるようにではなく、それはまるで引っ張られるようにしながら揺るがされます。なるほど、もしかしたらこの引っ張られたその先に、宇多田ヒカルのぜいあーぜいあーぜいあーぜいあーと松田さんのお母さんが笑いとともに振り返る場が交錯するのかもしれませんね。そして、そんな吸引が交差しあうステージでこの身も一緒になって振るわせることが出来たなら、それはさぞかし気持ち良いことでしょう。
 そこかしこで“ない”が共鳴し、吸引し合う奇妙な演劇。それは、舞台上の役者が演じるという行為をする上で、どうしても囚われてしまう主体的な意識を“ない”という装置を関係性の中から形成することで、演じ手がから出来るだけ作為を無くし、そして同時に何かを生み出すというアンビバレントな状態を作り出す。果たしてそんなことが本当に可能なのかと思いつつ、私は同時に合気道の師範から掛けられた次の言葉を何故だか急に思い出していました。
“技を自分からかけようとしたらあかんよ。技は自分で掛けるもんじゃなく、相手をしっかり感じて待ってたらそこで産まれるもんやで”
もはやマレビトの演劇を演劇と呼んで良いのかどうか私には全く分からなくなってきています。

 

「劇団ティクバ+循環プロジェクト」(2011) 写真:草本利枝

カバー写真「家から生まれたダンス」(2014)写真:草本利枝

(文・砂連尾 理)



 砂連尾 理(じゃれお・おさむ)

 振付家、ダンサー 91年、寺田みさことダンスユニットを結成。02年、「TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD 2002」にて、「次代を担う振付家賞」(グランプリ)、「オーディエンス賞」をW受賞。04年、京都市芸術文化特別奨励者。08年度文化庁・在外研修員として、ドイツ・ベルリンに1年滞在。 近年はソロ活動を中心に、ドイツの障がい者劇団ティクバとの「Thikwa+Junkan Project」、京都・舞鶴の高齢者との「とつとつダンス」、「とつとつダンス part.2—愛のレッスン」、宮城・閖上(ゆりあげ)の避難所生活者への取材が契機となった「猿とモルターレ」、音楽家・野村誠との「家から生まれたダンス」、濱口竜介監督映画「不気味なものの肌に触れる」への振付・出演等。著書に「老人ホームで生まれた〈とつとつダンス〉―ダンスのような、介護のような―」(晶文社)。 立教大学 現代心理学部・映像身体学科 特任教授 。

マレビトの会『福島を上演する』 作・演出:マレビトの会

公演名 マレビトの会 『福島を上演する』
日程 10/25(Thu)19:30・ 10/26(Fri)19:30・ 10/27(Sat)18:00★・ 10/28(Sun)14:00★
会場 東京芸術劇場 シアターイースト

国際舞台芸術祭フェスティバル/トーキョー18

名称 フェスティバル/トーキョー18 Festival/Tokyo 2018
会期 平成30年(2018年)10月13日(土)~11月18日(日)37日間
会場 東京芸術劇場、あうるすぽっと、南池袋公園ほか
 
 
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