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2018/10/22

『演劇書簡 -文字による長い対話-』 応答:カゲヤマ気象台

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(文・カゲヤマ気象台)

『演劇書簡 -文字による長い対話-』 応答:カゲヤマ気象台

 永島慎二の『フーテン』という漫画が好きです。これは、阿佐ヶ谷在住の漫画家「ダンさん」こと長暇貧治が、漫画が描けずにフーテンの若者たちとたむろし、新宿の街でチータカチータカする、そのエピソードについての漫画なのですが、つまり私的な表現だと言えます。この私的なありようが好きです。とは言っても、ここで展開されるエピソード、金持ちの社長を拾ってフーテンに引き込んだり、湘南の海から歩いて自宅に帰ったりということが、実際にあったかどうかは問題ではなく、随所にある固有名詞によって担保されている、あるバランス感のようなものに惹かれます。登場人物はデフォルメされているし、ストーリーもしっかりしている。基本的にはフィクションを読むような態度で読んでいる。しかし固有名詞によって、同時にこれは私的な表現であるなと思いながら読むことになる。ここにはフィクションとフィクションならざるものの間に浮いた領域というものがあります。
 先日、樋口恭介の小説『構造素子』を読みました。フィクションの重層構造を描いたSF小説であるものの、これも私的なるものの表現であると感じました。それは、物語の骨子が親子の関係性にあるということもありますが、やはり第一には、引用される様々なSF小説、文学、哲学書、また登場人物の名前(「ダニエル・ロパティン」「ラブレス」)や特有の名詞(「オートリックス・ポイント・システム」「Prefuse-73」)の中に、作者が実際に触れてきたであろうものの総体が感じられるということがあったのではないでしょうか。SFの固有名詞は作者が独自の発想で考え出すものというイメージは、やはりあると思いますが、その部分が引用によって成り立っているということ、その意外な差異から、私的なものが創作に解体していくある独特なありさまというのが生まれているように思います。
 こういった領域について、最初に興味を抱いたのは詩人吉増剛造が撮った一連の映像作品「gozo Ciné」だったのではないかと思います。学生のときに初めて観た「gozo Ciné」は、吉増剛造本人がカメラを構え、その目の前に洗濯物を干すようなピンチか何かで、透明なフィルムに印刷された泉鏡花の写真を吊るし、写真越しに向こうの風景を映しながら、喋るというか、語りかけるような言葉を発している。映像は残像が残る、少し不安になるようなエフェクト処理が施されている。あれは泉鏡花との対話だったのかもしれませんが、別の作品ではそれが島尾ミホの写真で、ゆかりのある奄美の風景が映されている。ここでも固有名詞が大きな役割を果たしていました。
 私はまず私的に演劇をやりたいと思っていますし、近作では引用する固有名詞の数が非常に増えています。私的な演劇と言ってもこれは自伝ではありません。また劇場に私は存在しますが、私の記憶を背負うのは私であってはいけないと感じます。例えば私が一人舞台に立って、私の記憶の固有名詞を展開しても、私的な表現にはなり得ません。永島慎二の場合は紙とペンであり、樋口恭介の場合は文字と物語であり、吉増剛造の場合はカメラであったように、私の記憶を背負うものは自分以外の何かであるべきであって、そうでなければ固有名詞は力をもたない。では演劇はどのようにそれができるのかといえば、どうも私は「演劇に背負わせる」というような言い方しかできなくなってしまいます。

sons wo: 『流刑地エウロパ』(2018)撮影:和久井幸一

 私的な演劇について考えたとき、ここには「作者の記憶(=固有名詞)」「作者のいる場所、空間(=劇場)」「俳優の記憶(=身体)」「さらに抽象的な領域(=観客も含めた関係性の上空に生まれるもの)」があるでしょう(私は演劇の作者は作品に立ち会うべきだと考えています。それによって、劇場はより劇場らしくなる。つまり、作品ができあがるための場所になると思います)。これらがどこにも偏ることなく、どこにも負うことなく、また強固に結びつくことなく、あえて反発することもなく、ある種ばらばらなまま存在していてほしいと思っています。演劇は、これらの要素が全く無関係とは言えないありようで展開しているような場所に、観客があくまで「自発的に」「個人的に」紛れ込んでしまうことだと思います。
 作者と俳優の関係について言えば、私は俳優は作者の意図のままに操られる駒ではないし、かといって同列に創作をする「作者たち」とも考えてはいません。優劣や上下関係があるとも考えていません。私は俳優は「例えば」の存在のように感じています。作者の考えた言葉があったとして、それは「例えば」こうである。人物像があったとして、それは「例えば」こうである、というように、完全な他者ではなく、完全な共同体でもないような何か。それは、作者がもっている記憶とは決して交わらない別の、ねじれの位置にあるような次元で記憶をもち、自律している。そういった存在が複数走っているのが演劇の場であるというように考えています。そのような「例えば」でなければ、私的な領域を背負うことはできないのではないか。つまりこれは、意味や方法は違えど「人生の実験室」としての演劇と言ってしまうことすらできるでしょう。実験は常に「例えば」です。そして演劇の創作現場に立ち会っている我々、作者や俳優が演劇の中に持ち込むことができるものは、なんというか「人生」と言うべきようなものでしかない。あるひとつの記憶が、同時に様々なあり得たかもしれない可能性をもちつつ存在する。それらはずれているために答えを示さないまま展開し、観客と上空で関係する。これらの存在が互いにずれていることが示されるためには、基準となる点が必要であって、それが作者であると考えています。だから作者と俳優は分業している。そして、こういった構造全体に固有名詞を背負わせるあり方こそが私的な演劇と思います。
 タデウシュ・カントールは『芸術家よ、くたばれ!』(作品社)に収められたインタビューで自分の作品についてこう語っています。


 私の作品の理念、根本原理は、コントラストにあります。集団と個人とのコントラストが問題なのです。(…)世界には莫大な数の人間がいますね。私は恐れているのですが、さらに毎年、莫大な数の人間が生まれている。そうするといったい人間はどうなるのでしょう。集団のイデオロギー、マス・イデオロギー、大戦争、大量殺人、巨大権力というものが次々と生みだされてくるのです。権力はつねに芸術の反対の極にあります。そして、マス・レベルの経験というものは、つねに、生に対立するかたちで存在します。(…)個人の生活というのはきわめて大切なものです。個人の生活なくして文化はありえません。芸術はありえません。
 そしてその上でこう続けます。


円盤に乗る派『正気を保つために』(2018)撮影:濱田晋

 

 個人の生活をより強固なものにするために、私は、私自身の個人的生活を犠牲として、舞台に呈示してきました。(…)私が、〈告白〉の形態に大きな意味を与えているのは、自伝とかエゴとか主観的な事例を示すためではありません。私の伝記は私自身を示しますが、本当はそのことによって、個人の生活が力強いものであることを示しているのです。他の誰かの生活を示すよりも、もっとはっきりとそのことを示してくれます。

 カントールといえばまさに「自分の作品に自分が立ち会う」作者です。多くの作品で自分自身が舞台上に上がり、時には音響や照明に指示を出したり、装置を動かしたりもします。しかしそれは「支配者」として振る舞っているというよりは、ある現象に巻き込まれているような印象もあります。実際に同じインタビューの中で「(『死の教室』について)舞台で実際に演出をして、俳優を動かしていたわけではありません」と語っています。私はここにカントール個人があくまでひとつの「起点」に過ぎない存在となっている様を感じます。それも絶対的ではなく、権力のような類の強さをもたない。ある種の弱さがここではむしろ強さになっていて、それが芸術としての強さとも言うことができます。

 ところがここで立ち止まりたいのは、「マス・レベルの経験というものは、つねに、生に対立するかたちで存在します。」という言葉についてです。「対立する」とは、まったく受け入れない、交わる余地がないということでしょうか? しかし個人の実感を顧みると、この「生」なるものの中に、ある種のイデオロギーや制度、大量消費される情報、集団性のようなものが、もうすでに入り込んでいるような気がしてなりません。それらの体験というものはどうしてもこの個人の生活の中に、コインの裏表のように重ね合わせれてしまっている。むしろそれらに晒されながら通過してきたこの時間そのものが「生」であって、そこを振り返ったときに浮かぶ固有名詞や記号の中にこそ、「生」の実感があるようにも思えます。確かにこれらは対立する事項かもしれませんが、しかしすでにどうしようもなく結びついてもしまっている。この状態はある種の危機ではあります。しかしこの危機の際に立つようなありようでなければ、まさにリアルな作品を発表することはできないのではないか、とも感じています。むしろここに自覚的でないと、ある大きな対立構造の物語に絡め取られてしまうような危惧すらある。我々を監視し操作しようとするような「権力」は国家権力のようなはっきりとした形をもつものだけでなく、もっと目に見えない憎悪や無意識のようなものもあって、それらに対抗するためには自らの領域を固めず、鵺のように膨張してしまう個人の「生」のありようを犠牲にしつつ呈示するような態度が必要なのではないか。そしてそれを起点としつつ、様々な「例えば」が展開するような演劇を私はやりたいと思っていますし、必要だと感じています。





(文・カゲヤマ気象台)



 カゲヤマ気象台 

 1988年静岡県浜松市生まれ。早稲田大学第一文学部卒。東京と浜松の二都市を拠点として活動する。 2008年に演劇プロジェクト「sons wo:」を設立。劇作・演出・音響デザインを手がける。2018年より「円盤に乗る派」に改名。2015年度よりセゾン文化財団ジュニア・フェローに選出。近作に『正気を保つために』(2018)、『流刑地エウロパ』(2018)、『シティⅢ』(2017、第17回AAF戯曲賞大賞受賞)など。

マレビトの会『福島を上演する』 作・演出:マレビトの会

公演名 マレビトの会 『福島を上演する』
日程 10/25(Thu)19:30・ 10/26(Fri)19:30・ 10/27(Sat)18:00★・ 10/28(Sun)14:00★
会場 東京芸術劇場 シアターイースト

国際舞台芸術祭フェスティバル/トーキョー18

名称 フェスティバル/トーキョー18 Festival/Tokyo 2018
会期 平成30年(2018年)10月13日(土)~11月18日(日)37日間
会場 東京芸術劇場、あうるすぽっと、南池袋公園ほか
 
 
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