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2018/10/19

『演劇書簡 -文字による長い対話-』2

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(文:マレビトの会代表 松田正隆)

『演劇書簡 -文字による長い対話-』2

『演劇書簡 -文字による長い対話-』1はこちら


はなす演劇

 演劇は、物語るという言語行為である。何かを「かたる」ということは、その何かの形を象るように「かたる」ことでもある。その「かたる」は「はなす」ということとはいささか違う感じがする。何かを「はなす」ということには、その何かの形、象りがはっきりしないままで「はなし」ている感じがするのだ。普段、話の筋がないままに私たちは「はなし」ているはずである。つまり、物語や話の筋、形のことは気にしないで「はなす」ことをしないと、「はなし」にはならないのである。
 演劇において「かたる」ことよりも「はなす」ことのほうを重要な発話行為として捉えようとしてみること。「言う」とか「口にする」という「はなし」の流れからさえ、こぼれるような発話行為こそが演劇の大事な構成要素となるのかもしれない。そのとき、上演空間では、観客に聞こえない声がぶつぶつと口にされる、ということも起きるかもしれない。
 演技という行為においては、「ふるまい」よりも、それは「身ぶり」や「仕草」という動きに細分化される。「ふるまい」も発話行為の「かたり」と同様に、何かを目に見えてわかるような形にして、つまり動詞として成り立たせる。そのような「ふるまい」にもならないような「身ぶり」や「仕草」は、共有可能な伝達を目的とする約束事としてのアクションにはならないだろう。つまり、形をなさない単なる「動き」に近いようなマイムに演劇表現としての可能性はあるのだろうか。
  演劇で何かを表現することは、統合された主体としての個人に関わることではなく、それが切片化された話し声や身ぶりによる上演をへて初めて生まれる主体の複合体としての生成ではなかろうか。
 では、その生成はどのようにしてなされるのか。やはり、演技によってなされると、言えるのかもしれない。しかし、それは、「かたる」ことなく、「ふるまう」ことのない、形になる前の「身ぶり」「はなし」「言う」を総合した演技である。だが、それを演技と言えるのか。
 いったい、演技とはどういうものなのか。
  演技をすることよりも、態でいることのほうを選ぶこと。態でいる、というのは、雨は降ってないのに、雨が降っている態(てい)でいるというときの「態」のことである。「体」とも書くが、それは身体がとる態度にとどまらないのではないか。それゆえ、態という文字を当てる。
 演技は、それをすることによって、現状に異質な時空間をつくり出すという意味では態と同じだが、その状況には信憑性がありそこにつくり出される時空間は重く強固である。つまり、演技はうまくなされればなされるほどバレないのである。その演技が真に迫っているか、そうでないのかが問われる。それゆえ、演技は形をつくり、一本の筋の通った物語を上演するのにはふさわしいのだろう。それに対して、態による演劇は、軽く、ちょっとしたことでゆらぎ、小さなテリトリーを簡単につくることができる。形に拘泥せず、可塑性があり、立っているのに座っている態というような見え見えの嘘をつく。まるで寝袋にでも入るようにそこに棲み込み、立ち退きを迫られては移動するノマドのようだ。だが、実際に動くわけではなく、そこにとどまりながら旅をする。態は、現状でありながらもそうではない状況という不思議な二重の世界をこの現実につくりうるチャンスである。演技が物語だとすれば、態は寸劇(コント)にふさわしい。しかし、態の力で物語ることができないというわけではないだろう。
 このようにして、私たちの上演は、演技から遠ざかり、「態でいること」によって俳優の身体は戯曲上の場所へと導かれる。この「態」によって、分子状に発話される「はなし」、切片化された「身ぶり」や「仕草」による「疎かなマイム」はひとまずは総合される。「態」の働きはその都度その都度の状況に応じての主体の複合化とその解体という出来事を起こす。

F/T16『福島を上演する』撮影:西野正将

 

顔を上げること

 上演のなかにいる俳優はいったい何を見ているのだろうか。
 木下恵介の映画『野菊の如き君なりき』で、民子が花嫁になって家を出るとき、俯いていた顔をぐっと上げる場面がある。私はこの仕草を見る度に胸がしめつけられる思いがする。顔を上げて何を見たのか、いろいろと想像はできるが、実のところはよくわからない。祖母から、民子、お嫁さんは俯いていきなさい、と言われ、民子はあっさり俯く。 顔を上げ、また下ろすこと。それを、婚礼への抵抗の身ぶりと承諾の身ぶりというように、一連のふるまいを捉えることもできよう。しかし、この場面には心理的な感情のあらわれにはとどまらない何かがある。
 花嫁の顔が上がったままでは動き出さないない人力車は、民子の俯く仕草とともに車夫が柄を上げ走り出す。俯くこと。それは世界への合意である。それは花嫁が嫁いでゆくという合図であり、もう決して引き戻せない出発でもある。花嫁の車の列は、民子の顔が上がってブレーキとなり、下がって前へと進むのである。
  しかし、そのような仕掛けの花嫁の車の列とは別の流れがそこにはあったのではないか。そんなメカニカルな回路とは別の欲望の回路が。
  自身の運命に抗してブレーキをかけるように顔を上げたとはいえ、民子はどうして顔を上げ、何を見ようとしたのか。見ようとしたというのであれば、政夫の面影なのかもしれない。顔を上げることでブレーキがかかるのだから、政夫への想いを知らしめたかったのかもしれない。それなら、それは絶望的な身ぶりでもある。つまり、花嫁の支度をするほどまでにその結婚を承認しておきながら、本当はそれを受け入れてはいないという最後のあがきのあらわれ、なのかもしれない。
 ただ、そのように詮議すればするほど、追いつけないような気分になる。顔を上げ、何かを見ようとすることに、人間ののぞみを超えた何かを見ざるをえない、と言えばいいのだろうか。
 見ようにも何も見えないのに当たり前のように何かを見ようとすること。私はこういう民子のような眼差しをいくつか見たことがある。マルグリット・デュラスの映画『インディア・ソング』のたゆとう人々の視線やマネの絵に描かれたこっちを見るモデルたち、誰かの飛ばした風船を小津の映画の老夫婦が見上げること。そのとき、彼ら、彼女らは現在を生きているようには思えない。いま・こことは別の時間の流れに入っているのではないかと思えてならない。花嫁が嫁ぐという「ふるまい」が分解され、顔を上げ、何かを見入る(何も見てない)という「身ぶり」の複合体へと総合されたとき、そこでは何かが起こっている。
 いま・ここで二人の人物が何かをしているとき、たとえば、話をしているとき、その一方の人が、相手とは違うほうへ、そこには誰もいないにもかかわらず、中空目がけて何かをしようとしたら、おかしなことになる。そんな感じなのかもしれない。
 上演中の俳優の眼差しも、何かを見ているようで、何を見ているのかわからない眼差しではなかろうか。戯曲上には部屋の壁があり、そこにかけてある絵を見ているという演技をしている俳優は、実際の舞台上にある絵を見ているとは正確には言い難い。なので、私たちの演劇においては、それを、そういう態でいるということにした。
 絵を見ている態の俳優の眼差し。それは、戯曲上の絵は舞台上のうちにはないにもかかわらず、俳優は絵を見ているふうでいる、ということである。ならば、そのとき俳優はいったい何を見ているのか。このことは、「見ていること」と「見ている態」は何が違うのか、を問うているのではない。見ている態でいるとき、いったい、何を見ているのか。いや、何を、というより、見ている態の「眼差しの様態」とはどのようなものなのか、と問い直すほうがいい。
  何を見ているのかというようにその見ている対象を問うのなら、それは俳優に聞かなければわからない。そうではなく、「見ている態」でいるとする上演においては、「見ること」自体に奇妙な回路が働き出すということではないか。それは、何かを見ようとしている俳優の身体が、何を見ているのかわからないことと同時に成り立っている状況とも言える。つまり、何を見ているのかわからないままに何かを見ているのだ。そのことに尽きる。それ以上でもなくそれ以下でもないことを、いま・ここからの無限の隔たりとして知覚しているのだ。「何」の内容は不問に付されたままに「見る」という行為が成り立つこと。演技する、としたときには「何」の内容はよりはっきりしなければならないが、態でいる、の場合は「何」の内容よりも「見ること」のほうで力のトポスが湧き出している。そのようにして「見ること」で壁の絵を見る俳優は、戯曲のほうへ去っていく。俳優は「絵を見る人」になるというより、「絵を見ること」になるのである。演技することは人物になることであるが、態でいることは出来事になることである。
  無論、これは、俳優のことのみについて述べているのではない。何よりも、演劇を見るものたちのほうに生じている未知なる経験なのである。あのエジプト王プサンメニトスの眼差しへの私たちの態度がそうであったように。
 ここで最初の書簡を終えようと思う。6人からの応答を待ちたい。それから、その応答へ宛てて再度の演劇書簡を出すつもりである。




F/T17『福島を上演する』撮影:西野正将


(文:マレビトの会代表 松田正隆)



マレビトの会

2003年設立。被爆都市を扱う「ヒロシマ―ナガサキシリーズ」(2009-10)、3.11以後のメディアと社会の関係に焦点を当てた『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』(2012)、複数の戯曲を通じ都市を多面的に描く『長崎を上演する』(2013-16)などを上演。未曽有の出来事を経験した都市をテーマに、上演形式を変化させながらも、歴史に回収されえぬものを探り、描き続けている。

 マレビトの会代表 松田正隆

 1962年長崎県生まれ。2003年、演劇の可能性を模索する集団「マレビトの会」を結成。主な作品に『cryptograph』(2007)、『声紋都市ー父への手紙』(2009)、写真家笹岡啓子との共同作品『PARK CITY』(2009)、『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』(2010)、『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』(2012)、『長崎を上演する』(2013-16)などがある。立教大学現代心理学部映像身体学科教授。

http://www.marebito.org/

マレビトの会『福島を上演する』 作・演出:マレビトの会

公演名 マレビトの会 『福島を上演する』
日程 10/25(Thu)19:30・ 10/26(Fri)19:30・ 10/27(Sat)18:00★・ 10/28(Sun)14:00★
会場 東京芸術劇場 シアターイースト

国際舞台芸術祭フェスティバル/トーキョー18

名称 フェスティバル/トーキョー18 Festival/Tokyo 2018
会期 平成30年(2018年)10月13日(土)~11月18日(日)37日間
会場 東京芸術劇場、あうるすぽっと、南池袋公園ほか
 
 
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