【F/T09秋劇評コンペ 講評】劇評コンペそのものに意味があったと私は考える 鴻 英良氏

 今回の劇評コンペの審査に参加して、私がこのコンペには意味があると思ったのは、大筋において応募劇評の質が後半に行くにしたがって徐々に向上していっていると思えたからである。これは応募者がすでにUPされた原稿を読み、それを意識しながら書いたからではないかと私は想像した。あるいは、複数回応募した人は自分の前の原稿をも批評の対象にしたのではないかと私はしばしば思ったのであった。劇評は舞台芸術に対する批評であるが、それと同時に、その批評の質を上げるのは、イリヤ・カバコフが「作家は自分の作品を二度見る」の中で書いたように、自らの批評に対する自己批評性を獲得するかどうかにもあるのだと私は思う。

 とはいえ、全体として、応募原稿のほとんどは、私が考えている批評の水準には達していなかった。多くの原稿は、自分が見た舞台を記述するだけであったり、見ながら感じたことを舞台をなぞりながら書くばかりで、そのように記述された舞台が、あるいはそのように自分が感じたということが何を物語るのかにまで踏み込んでいないからである。それではうまく書かれていても感想文でしかない。批評が始まるのはその後からなのである。
 その意味で受賞作のひとつ、リミニ・プロトコルの『Cargo Tokyo-Yokohama』を論じた堀切克洋「『本物』はどこにあるのかーー『Cargo Tokyo-Yokohama』」は、批評的、批判的な分析をみごとにやってのけたと私は考える。
 ヨーロッパの文化におけるこの集団のきわめて重要な位置を考慮するならば、今回の上演は手抜きとでも言うべきであり、ありうべき使命を放棄したものといわざるをえないと、堀切は日本におけるこの上演を断罪している。それはこの上演が日本の輸送の現場で起きていることを見せるというプロジェクトであったはずなのに、「リサーチや構成が不十分であったため」、「運輸」にかかわる「不可視な」人々の「生活」が「浮かび上がってこなかった」と堀切は書くのである(ヨーロッパにおける上演においてはそうしたことがなされていたと堀切は言う)。しかし、こうした判断を下すにあたって、堀切は日本における輸送システムを詳細に調べなおしている。こうした態度にこそ批評と演劇を結ぶものがあるのであり、そのような結節点としての批評は、じつはギリシア演劇における観客と舞台との交渉の原型でもあったのであり、堀切の姿勢は批評と観客のあり方を改めてわれわれに示そうとしたものといえよう。
 他の受賞作、柴田隆子「美しい静寂の----地獄絵図-『神曲―地獄編』」と百田智宏「劇評」は、そこで何が起こったのかをうまく書いていたが、それに対する分析と判断が不十分であるとはいえ、大方の応募原稿がそうしたことに無自覚であったことをみれば、分析と判断をそれなりに試みており、その意味で批評のとば口に達しているのは確かであり、今後に期待したいと思う。もちろんそれらを受賞作にすることに私は賛同した。
 受賞作以外にも、巧みに文章を書くものもいたが、それらがなぜ受賞作にならなかったのかにかんして、ひとつだけ、内田俊樹「パンツは見えたか」に触れておきたい。この劇評は読ませるものだが、内田は現代の文化的争点にあまりにも無関心であると思う。性差やセクシュアリテーが問われるべきところで、自分の趣味判断だけで文章を書いていくのは問題だと思う。趣味判断は文化的文脈のなかで再検討されなければならない。そのためにはさまざまなジャンルの書物を読むことが必要なのだ。つまり、劇評を書くためには舞台を見るだけでは駄目なのである。
 とはいえ、今回、多くの人が劇評に挑戦したことは、劇評の力がまったくないに等しく、劇を批評的にみるための言葉がこれほどに貧弱な日本における演劇情況を考えると、劇評コンペは、それを打開していくためのひとつの一歩になったのではないかと私は思う。その意味で、劇評コンペに応募してくださった方々に感謝したいと思う。

(おおとり ひでなが 演劇批評)