21世紀の地獄を描く、たったひとつの冴えたやり方/『神曲―地獄篇』 [山田寛氏]

 客入れのとき、劇場に入ってまず驚いたのは「音」だった。"INFERNO"というネ
オンが舞台上でシネマの暗黒街のように瞬いていて、スピーカーからネオンの爆ぜるバチビ
チという音が鳴り響いていたのだ。その音の暴力的なこと。「ネオンから漏電しているわけ
ではない」ことは当たり前に知れているのに、それでも感電のイメージが繰り返し想起され、
開演を待つあいだ身体が縮んでいた。

 開巻後も、「シェパードの吼える声」「骨が砕ける音」など、「音」が出色して容赦ない。
それがまずもって第一の感想だった。耳を通じて、絶え間なく生理的な反応を直接身体に促
してくるのだ。
 もうひとつ、感想がある。この作品は、「ビジュアル・シアター」と呼ばれており、確か
に他では見られないイメージが次々と現出する。が、なにか違うな、という「感じ」がして
いて、見ながら考えていて思いついた。これほど「明るくない」舞台は久々だったのだ。沈
鬱とかそういうことでなく、具体的に光量が少ないのだ。舞台上すべてが照らされているこ
となど殆どない。むしろ闇がベース。常に光は仄かであり、見るべきところだけが都度ぼん
やりと指し示されているだけ。まるで神の演出のように。時には間接照明のように光は隠さ
れたところから漏れ、時には光があるかなきかの薄明が続くのだった。
 *
 ダンテの『神曲』は、プトレマイオスの天動説宇宙観とキリスト教の世界観を融合して、
そこにそれまでの史実・伝説・人物をあらん限りぶち込んだ、ひとつの巨大な世界だ。人類
史有数の巨大な世界観であり、つまりある「世界の見方」だ。それはその当時までの歴史の
ひとつの到達点、総決算だった。世界に生きる者すべてをそのなかに飲み込もうとするひと
つの「物語」だった。
 それから700年、私たちはようやく「そういう世界の見方もあるが、そうではない見方
もある」とまっとうに言える世の中に生きている。でもそのお陰で、私たちは無数の物語が
日々ぶくぶく溢れ続けるなかに生きていて、しかもどれが絶対に正しいわけでなく、どれも
等しく正しくない、ということを知ってしまっている。ネットを見よう。賛成―反対、毀―誉、
褒―貶、有名―無名、すべてが平等に浮かんでおり、増殖し続けている。
 さらに言えば、ダンテは「それまでの種々の世界観」をひとつに統合した。根っこを束ね
て大樹としたのだった。翻っていまのネットの海は「誰が言ったか」もわからない、無名の
、歴史的文脈から切り離された、つまりはウォーホルのコカコーラアートのような、「根無
しの意味」で溢れている。
 ダンテの時代は、ひとつの(あるいは少数の)物語に人は縛られていた。今私たちの時代
は、無数の物語の中に人は漂っている。今日はこちら、明日はそちら。
 *
 ロメオ・カステルッチは、『神曲』を演劇にするにあたり、「この作品がいまだ語られて
いないかのように語る」ことをスタート地点にした。つまり、『神曲』に描かれている世界
を再現するのではなく、現代の「地獄」「煉獄」「天国」とは、と問うことをクリエーショ
ンのスタートにした、らしい。
 じゃあ。現代の「地獄」って、なんだろうか?
 それは、パンフレットにわりとあっさり書いてある。「リピテーション」。反復、繰り返
し。根無しの私たちは、「根無しの意味」のなかを、今日はこちら、明日はあちらと、脳を
つぶされたカエルのように脊髄反射してゆらゆらするだけ。それがずっと繰り返される。そ
れがいまの人生。人生の確かな意味を求めても、ダンテのように確信することはもうできな
い。でも、人生に、毎日に、自らの行動に、意味を求めずにはいられない。そうして今日も、
拠り所ない闇の中で意味を探して漂流する。安息は得られないのに。それが、現代の地獄。
 *
 実は、そう看破することはそんなに目新しいことではない(偉そうに)。いや、違うな。
そう看破したことが、このロメオの『地獄篇』のすごいところではない。うん、こうだな。
この作品がすごいのは、それをどのようにして描いたか、なのだ。
 ポストトークで、飴屋法水氏は、この舞台を、「人工的なもので構成されているのに、風
景を見ているような美しさを感じた」というようなことを話していた。確かに、風景のよう
に「眼に心地よい」舞台だった。ここがヒントになるんじゃないか。
 風景は、意味以前の場所だ。風景を美しいと思うのは、意味以前のことだ。そこに意味は
ない。ただ、そうなのだ。音に生理的に身体が縮むのも、闇に不安を覚え漏れ出る光を必死
に追うのも、意味を把握してから反応するのではない。すべて、意味以前のことだ。そう、
この舞台は「意味以前のもの」で構成されている! 凶暴な動物に戦くのも、地を這う骸骨
に静かに息を飲むのも、頭ではない。生理で、身体だ。
 音、闇、光、色、動物、死と生。音にしても、「調和的音楽世界観」を象徴するピアノは
舞台上で燃やされる。徹底的に意味は排除されていく。案内役のはずだったウォーホルも、
最後は車に轢かれ、「15分だけ有名に」なり、そして「根無し意味のひとつ」として退場
していく。
 *
 まとめる。ダンテは、ひとつの拠るべき巨大な意味世界を、「言葉」で描いた。それは、
その世界の創造主たる神の道具こそ言葉だったから、とも言ってみることもできるかもしれ
ない(光あれ、と神は言葉で言った)。言葉とは、「意味そのもの」である。
 ロメオはどのようにして描いたのか?
ロメオは、根無し意味を漂流する意味のない私たちを、「意味以前のもの」で描いたのだ。

なぜそんなふうに描いたのか。演出家ロメオは神だからだ。
 ダンテは、自身を作中に登場させ、「神」が創りたまいし世界を巡礼させた。ロメオも、
それに倣い最初に自身を自身として登場させた。ということは、この作品で描かれた世界を
創った、あるいは見つめている、この作品の神というべき外の存在がいる。それは「作中の
ロメオ」ではなく、「演出家ロメオ」である。ポストトークで、ロメオ・カステルッチは
「私たちの在り様は、一歩後にひくことで初めて見える」と言っていた。
 作中の群集たちは、各シーンの中の地獄を生きているが、神=演出家ロメオは、その在り
様を遠くから見つめているのだ。
だが、ただ地獄を想像できるだけでは、その筆は曇っている。
ダンテが『地獄篇』で人間の罪と地獄の罰を執拗に描けば描くほど、それを裏返すことが天
国だと知れるように。地獄の描写が明晰であるほどに、天国は明らかとなるはずだからだ。
この作品は地獄を描いているが、天国のありようを暗喩している。
ダンテの神が天国におわすように、地獄を描く神ロメオは、すべての上にある天国からこれ
を見ている。ロメオの見出した天国とは、つまり「意味以前の場所」なのだ。だからこそロ
メオは地獄を言葉でも意味でもなく、意味以前のものたちで立ち上げ描いたのではなかろう
か。ビジュアルシアターという手法は必然であり、「意味以前のものたちで描く」というこ
とこそ、この作品を明晰に卓抜にしている理由ではないか。
 *
 私は、確かにこの舞台を「美しい」と感じていた。この舞台は、音も光も色も形象も、潔
く美しい。そう感じてしまうこと自体が、私たちが意味にまみれた地獄にいることを証明し
ている。21世紀のダンテ(ロメオ)はそうのたまう。もちろん、言葉(意味)でない方法で。
 私たちはこの作品を通して、確かに自分達が地獄にいると、生理的に納得させられること
になる。「美しい」と感じてしまうことで。その意味以前の天国へ辿り着きたいと、私は思
った。それは、ロメオが差し伸べてくれた救済なんだろうか。