「地獄篇」に注ぐ三つの眼差し  [柳生正名氏]

 「その旅は、『暗黒の森』すなわち、この芸術家の罪の意識から始まる。では、彼の罪、もしくは彼が落ちた穴とは一体何なのだろうか?彼の作品だろうか?」

 自ら演出し、かつ暗い森に迷う芸術家役で舞台に登場しさえした「地獄篇」について、かく語る張本人-イタリアの鬼才ロメオ・カステルッチの「神曲」三部作世界ツアーは、仏アビニョンでの初演から1年半を経て、ここ東京で幕を閉じた。そのスケールの壮大さゆえか、または「演劇は時間をかけて観客の記憶の中で反芻され、発展していく」との信念からか、再演は行わない意向という。

 であればこそ、その最初で最後の日本上演に立ち会えた幸いを噛み締めたい―これこそ、彼が穿った穴を覗き込んでの率直な思いだ。たとえそれが、の闇へと、彼もろとも落ち込むことを意味するとしても。

 1.地獄篇―穴としての

 まずは、冒頭に掲げた彼の言葉である。原作の地獄篇第一曲、人生の旅半ばにして正路を見失い、暗い森をさまよう詩人の姿に自らを重ねつつ、ダンテの、そして自己の作品も穴と言いなす大胆さに息を呑む。

 ここで思い返せば、ダンテが神曲で描いた地獄界は、地表から地球の中心まで穿たれた、擂鉢状の文字通り「穴」である。その側面は雛壇状の層をなし、ダンテは各層を時計回りに伝い下ることで地獄巡りを行うのだが、そもそもこの大穴を開けたのは誰か―言い換えれば、この大穴は誰の作品なのか。

 かつて神に造られし身でありながら、自らの力を恃み、反逆を試みた天使長ルシフェル。その天より墜落した際に生じた穴こそが地獄、とダンテは記す。眩いばかりの純白の翅を持った往時の姿は失われ、今は浅ましいなりでコキュートスに半身を氷漬けされる。その堕天のイメージは、本上演で、漆黒の巨大な上から、磔刑の姿勢を取った生身の役者が後ろざまに身を投げる、執拗な反復のシークエンスをもって印象付けられる。それは舞台が終盤に差し掛かり、地獄廻りがその最下層に至ろうか、という場面でのことだ。

 カステルッチが「ダンテに挑むにあたり、彼の本を閉じることから始めた」と自ら語るように、本作はダンテの紡いだストーリーをそのまま舞台化したものではない。にもかかわらず、この墜落の場面に代表されるように、ダンテの描いた地獄各層でのエピソードに対応する造型が頻繁に姿を現す。

 例えば、舞台前半に、男女数組が様々な人間模様を連想させる所作(接吻や扼殺も含まれる)を交えて絡むシーンは、地獄第三圏で、生前愛欲に浸った者たちが暴風雨に吹き流されるさまを髣髴とさせる。

 また、カステルッチ本人が、自らの名を名乗る冒頭のシーン。彼は多数のシェパードに吠えたてられ、防護服の上から食いつかれる。明らかに、暗い森の中でダンテが狼に行く手を塞がれ、地獄の入り口へと引き寄せられる場面に繋がる。

 ただ、これらの場面で言葉が語られることはまずない。舞台に上る彼の劇団ソチエタス・ラアフェロ・サンティオの役者11人と日本人エキストラ50人ほどのうち、台詞を持つのは数人。それも、原作のダンテとその導き手ウェルギリウスに当たる役の二人以外が発するのは、ほとんど意味をなさない片言のみだ。必然的に、ロメオ・カステルッチ、アンディー・ウォーホルと名乗る二人を除き、圧倒的多数の登場人物は無名かつ無声だ。

 例外的に名を持つ二人も、性格付けはいたって重層的である。ぼさぼさの銀髪の鬘がトレードマークだったウォーホルそのままの姿のウェルギリウスは、終盤には純白の堕天使ルシフェル的存在へと変貌する。コキュートスさながらの闇の中、ウォーホルの作品「カークラッシュ」シリーズから抜け出たかのような事故車に乗り込み、自閉していく中で舞台は暗転、この現代の地獄篇は終幕する。

 それにしても、本作で鮮烈な印象を振り撒くルシフェルの堕天のイメージは、どこか有史前のジャイアント・インパクト(原始の地球への他惑星の衝突)を想起させる。その際、飛び出した地球の断片が月となり、残った大穴が現在の太平洋とする学説なのだが。

 舞台上で、ある時は破壊的な音響を立てながら床に打ち付けられ、ある時は手から手へ受け渡されるバスケットボール。また終幕近く、ルシフェルさながらに純白な馬の周囲を浮遊する漆黒の球体―これらと、地球に衝突した未知の惑星、または地球から弾き出された原始の月と、イメージが重なるせいかもしれない。こうして、カステルッチが仕掛けた罠は、宇宙規模の破局、もしくは、人間の悪と罪の起源に関する記憶を観客の脳裏に呼び起こすに充分な衝撃力を持つ。

 本作をかくのごとく、表層的なイメージの連鎖で読み解くことには批判もあろう。ただカステルッチが本作で、重要な役割を担わせたウォーホルは生前「僕を知りたければ、作品の表面だけを見ろ。裏には何もない」と言い続けた事実は思い出されるべきだ。カステルッチ本人もインタビューで「地獄篇では、ウォーホルのように表層的なイメージを収集する形で作劇を進めていった」と述べている。

 さらに、忘れてはならないのは、それでもなお、カステルッチにとって作品は穴であることだ。世界が今、対応する本質や意味、隠喩を全く持ち合わせない、純然たる表層に過ぎず、何の厚みも裏さえない存在であっても―いやそうであるからこそ、そこに穴を穿ち、それに落ち込むことこそが創造的行為たりうると、彼は信じているに違いない。

2.地獄篇―眼差しとしての

 「観客であることは、今日再び政治的・宗教的意味を帯びた役割にあるということだ。それは機能障害に陥ったわれわれの日々の実存を端的に表す。日がな一日観客であること、既にそれ自体が地獄行きの裁きだ」

 本作では、開演前から舞台上に"INFERNO"(地獄)の各文字が、ポップアート風オブジェとして並べられる。客席から見ると、裏返しの鏡像状態ではあるが。これは先に紹介したウォーホル発言「作品に裏側はない」を受けたアイロニー、とも言える。ただ、それ以上に、舞台奥から客席を見詰め、そこに無名・無声の群像が並ぶ様子を"INFERNO"と受け止める眼差しが存在することを、観客に示している。

 その視線の存在は、開幕直後、舞台から客席に向けて巨大な鏡が差し向けられ、その表面に観客自らの姿が映し出されるのを目の当たりにする際に、ますますリアルに感じられることになる。この鏡には「すべての望みは捨てよ、汝らわれを潜るもの」(ダンテ神曲第3曲冒頭・地獄門)、もしくは「未来には誰もが15分間は有名になれる」(ウォーホル)と、見えざる銘が彫られていたのではないか、とさえ思わせるほどに。この章冒頭に引用した言葉に従うと、開幕早々、カステルッチは観客に地獄行きの裁きを下すのだ。

 舞台の流れに即して言えば、その後、観客の眼前には、高さ3メートルはあろうかというマジックミラー張りのが登場する。中では、大勢の幼児が人形や積み木遊びをしているのが見て取れよう。その無心さから察するに、子どもたちには箱の外はしかと見えず、合わせ鏡の間に置かれた状態のようだ。客席から見ても、内部は万華鏡さながら鏡像と実像が錯綜し、同じイメージを執拗に並べるウォーホル作品との連続性を思わせる。

 一方、観客は、自分が彼らの眼差しに曝されていないことに気付き、一種の覗き見感覚をおぼえるだろう。ちょうど、ウォーホルに続く現代美術のカリスマ、ダミアン・ハースト作の、鮫や縞馬を生きたままの姿でホルマリン漬けし、ガラス張りの直方体に封じ込めたオブジェを前にした時と同様に。

 こうした場面で顕わになるように、本作でカステルッチは、現代美術のインスタレーション作品そのままの空間を次々と舞台上に繰り出す。役者すらもその作品のパーツであるかのように。それによって、観客の眼差しと、観客に対して舞台から注がれる眼差しとの両方を、美術家的な手際の良さで交錯させていく。その根底には、実存主義で知られるサルトルの戯曲「出口なし」で語られる台詞「僕を食べつくすみんなの視線...地獄、それは他人だ」に通じる思いさえ感じられる。

 だからこそ、本作のクライマックスである反復的な墜落の場面のさなか、客席の上に巨大な白布が張り巡らされるのだ。そのせいで観客の眼差しは一時的に遮られ、意識はホワイトアウト化する。

 再び視界を回復した時、舞台上には炎上するピアノ=地獄の業火が登場している。このピアノを、そして舞台上の役者やエキストラたち、また血のように赤いペンキをぶちまけられる白馬をも、焼き尽くすのは、自分たちの視線であることを、観衆は知らざるを得ない。その自覚こそ、カステルッチの仕組んだ地獄行きの裁きであることを噛み締めつつ。

3.地獄篇―"間"としての

 「言葉は口にしたとたん他人のものになってしまうにもかかわらず、創作時には私個人の言語が必要になってきます」

 前述の通り、本作の開演前、席に着いた観客は"INFERNO"が裏返された文字列と、地獄の大穴を穿つときのような強烈な電子音に直面する。開幕と同時に、7つの文字は舞台上から運び去られるが、二重引用符("")は舞台の両端に残される。その後の1時間半近く、舞台上で繰り広げられる地獄絵図はすべて""の間に起こる出来事だ。

 その地獄絵図も、白日の下で見れば、多少手の込んだ機械仕掛けや、日常的な人間の仕草以上のものではない。それが本作では、ある宇宙的な広がりを持って舞台上に出現するのはなぜか。それは、常に言葉とともにあって、言葉ではない""の持つ力―虚空の内に言語化することによって世界を立ち上げる触媒的な作用、と言えるのではないか。

 ダンテは、いざ地獄巡りの旅を始めるにあたり、詩神ムーサにこう祈りを捧げる。「ああムーサよ、高き才よ、いざ我を助けよ、わがみしことを刻める記憶よ、汝の徳はここにあらはるべし」―彼にとって、地獄が存在することは疑いのない事実だ。ただ、それを言語化して詩形式の内に、いかに新たな世界を立ち上げるか、が最大の問題なのである。

 一方、本作ではほとんど言葉を抹殺したかに見えるカステルッチだが、こうも言う。「アントナン・アルトー、そしてサミュエル・ベケットにも敬意を抱いています。なぜなら、彼らは新しい言語を考案するために一度、既存の言語を殺した人たちだから。そうすることで彼らは別世界を考案した」

 既存言語としてのINFERNOを抹消した後に残る""。その間の、別世界が立ち上がる場としての「空」。そこに、現代の地獄という別世界を新たな言語によって立ち上げること―これが彼の意図なのだ。

 それは、一九一七年にマルセル・デュシャンが大量生産された小便器のひとつに"泉"と題名をつけ、横倒しして美術館に置いたとき、その場に、もしくは"と"の間に、ひとつの新しい世界が立ち上がったことと、軌を一にする試みだろう。カステルッチは本作で、既成の言葉と、それを全面否定する無言の、いずれにも頼らず、両者の間にある""の力によって、同じことを成し遂げようとする。

 そう考えたとき、本作は例えば、子供たちが閉じ込められた合わせ鏡の"間"、地獄門を思わせる暗黒の巨大な壁と床面との僅かな "間"、さらには、数十人の人々が二人一組となり、相手の喉笛を順に切り裂いていくシーンに見られた不思議な人と人の"間"合い―など、豊かな"間"に溢れている。こうした間の存在は、ある種、東洋的な発想への接近を感じさせもする。とすれば、カステルッチの神曲3部作が東京での上演をもって永遠に封印されることにも、ある種の必然さえ感じずにはいられない。(了)