美しい静寂の地獄絵図 ―『神曲―地獄篇』  [柴田隆子氏]

 耳障りな電子音がロビーにまで響いている。舞台上には文字をかたどったライトがおかれ、白い光がちかちかとまたたいているのが見える。時折、ビィーンというひときわ大きな音が鳴り響く。薄暗い客席は、空気もどことなく白く煙り、開演前から異様な雰囲気に包まれている。ライトの文字は裏返しになっており「INFERNO」と読める。つまり客席側の空間が、舞台に対し「地獄」として展示されているのだ。開演時間になりライトが片付けられる。男が一人登場し、「私はロメオ・カステルッチ」と名乗る。そう、彼はこの作品の演出家だ。それゆえダンテと同じように、主人公として自らの作った地獄を巡礼するのだ。

 地獄の門の代わりにカステルッチ=ダンテの前に現れたのは、黒いボックスである。暗闇の中で目を凝らしていると、正面が鏡となり客席を映し出す。地獄の門の内側には、我々観客がいるというわけだ。舞台が明るくなり、ボックスの壁も透明になり、中が見えるようになる。そこには小さな子供たちがいて、こちらを見ている。スピーカーを通してあどけない彼らの声が聞こえる。明るい光とパステルカラーの色彩の中、おもちゃに囲まれている彼らは未来の象徴なのだろうか。周囲の闇から独立して光るボックスは、そこだけが祝福された場所のようだ。
 ボックスの中の子供たちを、すがりつくように壁越しに見つめる男がいる。子供たちには目の前にいる彼の姿は見えないようである。手が触れられそうな近さにありながら、ボックスはどうも異次元にあるようだ。向き直った彼は、闇に沈んだままの客席にポラロイドカメラを向ける。フラッシュがたかれると、舞台下手上空に漂う暗幕状の雲からも、閃光がまたたく。まるで大きなカメラで空間全体を写されたかのように。やはり闇に包まれたこの客席を含む劇場全体が「地獄」であり、巡礼者の観察の対象になっているのだ。地獄はセノグラフィーや俳優で描かれるだけではなく、観客の感覚の中に生じるものも含むのだ。
 彼がアンディ・ウォーホルだと一目でわかるのは、その特徴的な白髪の鬘と眼鏡に加え、その表情までがマスクで再現されているからだ。演出家カステルッチ=ダンテを導くウェルギリウスが、ポップ・アートの父ウォーホルというのは面白い。ウォーホルは、マスメディアに取り上げられる報道、商品、有名人などを題材に、大量生産できるシルクスクリーンを用いて作品化したことで有名である。彼の注目したメディアを通した現実、「実在する非現実」とは、まさにダンテの描いた地獄と同様、永遠に終わることのない反復行為の増殖であり、堆積なのだ。彼は過去のカステルッチ、ウォーホル=ダンテなのかもしれない。既に舞台にはカステルッチの姿はなく、薄暗がりの中、ウォーホルだけが吹きつける風に翻弄され、吹き飛ばされていく。
 その次にウォーホルのいた場所に立つのは、バスケットボールを持った少年である。彼が今度の巡礼者なのだろうか。少年が持ったボールを床にバウンドさせるたびに、空間全体が崩れるような大きな音を立てる。少年は驚いてボールをかかえるが、やおらまた地面に落とす。闇がどんどんと迫ってくる。
 大きなパネルに砕かれる髑髏、動く骸骨としてのキネティック・スカルプチュア、ぬるぬると滑る液体、白馬にかけられる血糊等、地獄のイメージは舞台上のインスタレーションで示される。ダンテが言葉で描いた荒涼とした砂漠や岩場、沼といった地獄の風景と同様に、言語を介さないそれらは日常と地続きでありながらも異様なものとして我々の現前に迫る。物語を語らず、すべて断片的であるがゆえに美しくも恐ろしい。そして上部から覆いかぶさる闇が、その全ての輪郭を奪っていく。

 原作の場面が想起されるのは人間の身体によってであろう。例えば、列を作って歩く人間がバタバタと後からくず折れる場面。これはミノスの前で審判を待つ罪人であり、また、狂風に向って行進する肉欲の罪を犯した者たちでもある。灼熱の砂漠を歩く同性愛者たちもまた集団を構成し、列から離れると厳しい罰則があった。舞台に提示されるのも、永遠に続く行進と力尽きて倒れる人間のイメージである。罪をもつ人間は行列を作って永遠に続く罰に耐えなければならない。ただし個人ではなく集団として。彼らは言葉を持たない。彼らには行列の目的はおろか、この刑罰の原因となった罪すら明らかにされない。彼らは我々なのだ。
 一般から募集されたエキストラで構成されるこの集団には、子供たちも含まれる。ジェノサイドの場面では、首に腕を回し親しげに寄り添った後、相手の首を掻き切る動きが繰り返される。殺される人間が子供で、それが声もなくゆっくりと倒れるとき、無情さをより強く感じるのはなぜだろう。殺された人間はしばらくするとまた起き上がり、親しげに寄り添った相手を殺害する。子供が無表情に殺人を犯す姿を見るとき、より戦慄を感じるのはなぜだろう。そして舞台は累々たる屍の原となる。ひとり残った人間が「わたしはここにいるよ」と声を発すると、舞台奥の暗がりから人が起き上がり、その首を掻き切り、代わってひとり、死体の海に立つ。今度はそれが繰り返される。罪を負った魂がそれに見合う責め苦にあうのがダンテの描いた「地獄」であるとすれば、ここに再現されているのは罪の判断がつかない人間たちが、愛と死を自らの手で生み出している地獄のような「現実」の似姿である。「地獄」にいる我々は、ただそれを見ているしかない。
 
 荒涼とした集団のパフォーマンスに対し、ソチエタス・ラファエロ・サンツィオの俳優たちの動きは、苦しむ表象でありながらも美しい。風にまう木の葉のように吹き飛ばされる身体。座った姿勢からまるで手足がつながっているかのように同じ速度で円を描きながら上下左右に回転する。その動きはどこまでも有機的でなめらかだ。あるいは、ウォーホルの作品名と制作年がプロジェクターで投影される中、磔にあったかのように両手を広げるポーズをとり次々に落下していく。彼の作品がまるで贖罪であるかのように。あるいは、墓標のように両手を広げ、胸をそらせては戻すを繰り返しながら、舞台にたたずむ。この身体能力の高さ、熟練度の高さが、舞台に神話的世界のイメージを与える。言葉はなく、静かな世界。そこには先に進む時間は流れない。
 観客の頭をなぜて白い紗幕が客席にかけられる。視界がさえぎられ、強い光を幕越しに感じる。天使が来たのだ。悪魔が入場を拒む地獄の門は天使によって開かれる。門の向こうに見えるのは炎を噴く墓ではなく、燃えさかるグランドピアノ。粟津潔と山下洋輔のパフォーマンスを思わせるそれは、弾く人もなく燃えながらも、熱で弾ける弦が最後の狂った音を響かせる。客席に背を向けた俳優たちに見守られながら、ただ静かな野辺送りである。例えこのピアノが張りぼてで、音はスピーカーから聞こえてくるとしても、そこに表象されているのはいわゆる芸術の死だろう。

 少なくともカステルッチは、これが今日の「人間の状態」とみているのだ。断片化された現在は、ウォーホルがもつポラロイドカメラで切り取られる写真のようだ。地獄の責め苦と同様に何度も繰り返される殺戮、それによる惨状、孤独。状況に流され、吹き飛ばされ、翻弄される身体は、いつも位置が定まらない。芸術はもはや人間を助けてはくれない。過去は文字とキャッチフレーズとなり、未来は鏡となる。それとも、それはやはり反復なのか。進まない時間としての「インフェルノ」が、空間に積み重なり層となる。
 最後の場面は、ウォーホルが自動車に衝突される図である。自らが作品化の対象にしていた事故に巻き込まれるウォーホル。一見すると、それは案内役の死であり、ウォーホルが体現していた文化を芸術でとらえる方法論の死であり、彼の好んだ大衆文化の死である。しかし、しばらくしてウォーホルは静かに起き上がり、ひしゃげた車に乗って待つ。我々観客は、彼と一緒に煉獄篇に赴かなければならないようだ。