『神曲―地獄篇』(ソチエタス・ラファエロ・サンツィオ)劇評 [大松美加子氏]

12月11日は冬の雨が降り、しきりと皮膚から温度を攫った。


池袋西口を抜け折り畳み傘の弱さと濡れてインクの掠れた地図を持て余し辿り着いた会場で冷えた体を温める。私と、同行した友人は駅直通の出口があると知らな かった。時間よりも随分早く辿り着いてしまった無聊をこれから始まる演目への期待を語り慰め迎えた20時半7分前、私たちを迎える最初の演出として爆音か、さもなくばうんと聞き取り辛い音で流されれば良かったのにといった程度の微妙なボリュームで場内を満たすノイズ。客席に向いた"INFERNO"は要するに講演開始に先駆けおまえたちの居る場所が地獄だと通告する役なんだろう。開始直前文字は取り払われ残るは""のみとなり地獄の在りかの反転を示唆す る。


劇中随所に鏤められた「地獄はここだった」といった想念を喚起せしめんとす諸々。例えばクリアボックスに梱包された幼児や観客席に向うポラロイドカメラのフ ラッシュや抱擁やキスや些か辿々しい日本語で叫ばれる懇願や燃えるピアノや投身や白馬や白馬に後じさる人々や白馬の尻を汚すペンキの赤などといった代物。 それらは見る側の知りたいと思う範囲で啓発し、判りたいと思う程度の諒解を齎す役目を淡々とこなしていた。


舞台装置、ひいては場面の一コマ毎の完成度は高くそのままで一個の現代美術作品として鑑賞に耐えると感じた。というか、演劇といった形式で見せるよりも美術館に並んでいた方が善かったと痛切に思う。一つ一つの媒体に秘められたメッセージ性が明確であるばかりに均一な印象を受け、また、同じ主張を繰り返す種々 の有り様に慣れてしまうからである。もっと悪い事に、主張はロメオ・カステルッチ氏の体験/体感から生じた切実さを伴わず只管に氏の研究の成果を要領よく 開けっ広げに見せびらかすに留まっているときている。この作品が讃美される世間は地獄だろう、といった意図のもとに創られているとも残念ながら思われな い。


表現は真実に近づけば近づくほどその虚しさを増すと感じる。なぜならば説明の余地もないほど実情を剥き出しにしておりながら巧妙にフォルムを装飾された姿と して人々の眼に映り込み、真意を解読されぬまま世紀を渡る羽目になる場合が大半を占める為である。言うまでもなく形状を捏ね回すのは見る側の無意識、ある 種の本能とでも呼ぶべき作用だ。
しかし今回の『新曲-地獄篇』ではそのような齟齬を微塵も持ち合わせず、見事に本質とニーズとが合致した表現だと言う他無い。


現代にしか生きた事のない私は現代についてしか実情を体験し得ないが2009年度二十歳を迎える私たちの年代は一種の閉塞感と諦めを"お約束"として強いら れていると感じる。言葉にした時点で形骸化するたった今述べたような所感。あらゆる感動はひとところに回収されるシステム。作業工程があまりにも明白な様 子は恐らく今回のような講演で際立つ。


私は真白な馬の尻が汚された瞬間脊髄反射のように猛烈な怒りを感じた。なるほど「地獄」の概要とは無辜の白馬を汚す事に象徴されるだろう。だが私はおまえに この馬を汚す権利はないと思った。おまえはなぜしたり顔で罪悪を重ねるのかと思った。白馬の出現した瞬間後じさる人間どもといった構図は一角獣の(主に角の作用)に焦がれる人間に似ている。そして角の作用とはこの場合"芸術"だとか"美"だとかいった事柄に付随し、期待される作用と言い換える事が可能ではないか。


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ユニコーンは極めて獰猛で、力強く、勇敢で、相手がゾウであろうと恐れずに向かっていくという。足が速く、その速さはウマやシカにも勝る。角は長く鋭く尖っ ていて強靭であり、どんなものでも容易に突き通すことが出来たという。人の力で殺すことは出来ても、生け捕りにすることは出来ず、たとえ生きたまま捕らえ られたとしても絶対に飼い馴らされることなく、激しい逆上の中、自殺してしまうという。角は水を浄化し毒を中和するという。さらに痙攣や癲癇などのあらゆる病気を治す力を持っているという。この角を求めて人々は危険を覚悟で、ユニコーンを捕らえようとした。一角獣は乙女に思いを寄せているという。美しく 装った生粋の処女を森や巣穴に連れて行き、一人にさせると香りを嗅ぎつけた彼が処女の純潔さに魅せられ、自分の獰猛さを忘れて、近づいて来る。そして、そ の処女の膝の上に頭を置き眠り込んでしまう。このように麻痺したユニコーンは近くに隠れていた狩人達によって身を守る術もなく捕まるのである。しかし、も し自分と関わった処女が偽物であることがわかった場合は、激しく怒り狂い、自分を騙した女を八つ裂きにして殺すという。


処女を好むことから、彼はは「純潔」「貞潔」の象徴とされた。しかし一方で、「悪魔」などの象徴ともされ、七つの大罪の一つである「憤怒」の象徴にもなった。
いついかなるところでも人間に追い迫ってくる「死」の象徴と考えられる場合もあった。


ノアがあらゆる獣のつがいを方舟に入れた時、ユニコーンもまた受け入れた。ところがユニコーンは他の獣を見境もなく突いたので、ノアは躊躇なくユニコーンを水の中に投げ込んだ。だから今ではユニコーンはいない。
:『ポーランド民話』


ノ アが全ての獣を方舟に受け入れた時、獣達はノアに服従した。ユニコーンだけがそうしなかった。ユニコーンは自らの力を信じ、「私は泳いでみせる」と言っ た。四十の昼と夜の間、雨が降った。鍋の中のように水は煮え立ち、あらゆる高みが水に覆われた。そして方舟の舷側にしがみついていた鳥達は、方舟が傾くと 沈んでしまうのであった。しかし、かのユニコーンは泳ぎに泳いでいた。だが鳥達がユニコーンの角に止まったとき、ユニコーンは水中に没してしまった。だか らユニコーンは今日ではもう存在しないのだ。
:『小ロシア民話』


ユ ニコーンは処女によってのみ捕まえることが出来るというこの伝説の起源は『ギルガメシュ叙事詩』にあると考えられている。ギルガメシュ叙事詩において一角 獣とはエンキドゥだ。ギルガメシュはエンキドゥの死の際、彼の親友の顔を婚礼用のベールで覆い深い悲しみのうちに自分の死に顔を見たと感じる。
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ロメオ・カステルッチ氏のやってのけた仕事はまさに一角獣を誘き寄せ狩人に売り渡す乙女の仕事だと形容できるだろう。
ユニコーンは恋をした乙女に心臓を差し出すが心臓を猟るのは乙女でなく狩人だ。だからユニコーンは怒り"女"を殺す。そしてこんにちユニコーンはもういない。
一角獣は動物というよりも一種の現象の名前であるように私は感じる。


芸術作品を鑑賞する際人々の渇望のひとつに数えられる打ちのめされたい願望をなまぬるく刺激できるスキルを持ち合わせている事実を見せびらかす行為、それか ら判っていると見せびらかす行為がいったい芸術としてどの程度の意味を持っているだろう。こんな場所に居るくらいなら私は海を見ていたい。きれいな夜の海 を見ていたい。心臓を包む簡素な容器として肉体を具え潮騒を聞いていたい。天蓋のぐんと近くなる感覚を体感していたい。玉虫の背、シャボンの皮膜のような 血のかよった毛布を想起させる夜にくるまれて無銘の空白をぎっしりと隙間なく生きていたい。今回の講演はそのもの"地獄篇"だけれどイメージの美麗を呆気 なく凌駕するかみさまに赦された地平を知る気はもはや無いのではないか。12月11日、私が目撃したのは結局のところ肉桂色の歯茎を剥き出しに頬笑みかけ てくる種類の人間達だったというわけだ。