『太陽と下着の見える町』(庭劇団ペニノ)劇評 [今野裕一氏]

狂気、あるいは狂気に近いものは異常であるから舞台には向いている。舞台は日常のふりをした異常だからだ。そういうとちょっと失礼だが狂気を使っ て上手に演出すると、いろいろな社会の断片が見えてくる。ブルックは、『The Man Who』(原作『妻と帽子と間違えた男』)で、精神病院という制度と、医者と患者の関係を描きながら社会を描いて見せた。患者と医者と制度と社会...。言え ばミッシェル・フーコーの『狂気の歴史』だろう。

タニノクロウが『太陽と下着の見える町』で向かい合ったのは、精神病院そのものであり、少しおかしな行動をする患者どうしの関係である。狂気や 精神病院を描くときに、制度や社会性を見る前に、人と人の関係を見るところに、この演劇の現代性を強く感じる。そして演劇は大きく変化するのだと思う。ペ ニノ劇団だけでなく、カウンターではなく新たに演劇の方法を確立するやり方で、自分世代の演劇を作るという劇団がでてきている。
狂気というと思うのが、大戦後の演劇に大きな影響を与えたアントナン・アルトーの演劇論...そのなかにある狂気と肉体だ。演劇的なもの劇的なも の、そしてロマンティークなもの、詩的なものが演劇らしさを支えてきたが、それが演劇なのかという問いがつきつけられている、タニノクロウによって。だい たい『太陽と下着の見える町』にでてくる患者は、狂気なのか? だいたい 描かれているのは狂気なんだろうかとすら思う。今やこの程度の人は、自分の側に もいるのではないか。世の中に嫌な人は一杯いるけれど、この人たちは嫌な人じゃないぞ...。まぁ家族で家の中にいたらちょっと困るかもしれないけれど。精神 病が制度の中で作られたのが過去のことだとすると、今は人との関係で作られるものなのだ。私たちは演劇の中でそれを忘れていたのかもしれない。演劇という 制度の中で。
劇的に描くということは、狂気性を強く引っ張るということにも似ている。演劇は今そうした劇的なものを必要としていないのかもしれない。それは演技にも演出にも言える。タニノクロウは、患者と患者の関係を演劇の役者と役者の関係に重ねて描いているような気もする。
『太陽と下着の見える町』のタイトル通り、下着、パンティが必ずでてくるが、下着にこだわった続ける医者や、下着を見せて這っている患者とか...いろいろいる、いろいろする。そのパンティの存在が、今までの劇的な手法にとって変わるものなんだろうなとふと思う。
精神病院のいろいろを描いているとシリアスになっていく。観客もかたずを飲むようになる。客席は静まり返っていく。それでは今までのカッコにには いった演劇になってしまう。観客の見方や演劇の習慣でいつの間にか従来の演劇にからめ捕られてしまう。タニノは丁寧に観客にパンティで肩透かししながら、 ザーッという激しい雑音と暗転のカットアップ的手法で、どんどん次のシークエンスに移って行く。どこにでもあるかもしれませんよ、あなたもこんなじゃない ですか...と囁きながら、観客を演技する精神病者の直ぐ側にもっていくのだ。観客は深く考えることなく、演技されている普通の延長にある狂い様を、体験する ことになるのだ。見事な手法だ。精神病院には実は、今までの演劇が大好きなものはないですよ、ここには物語もポエジーも劇的なものも狂気の身体もないです よ、タニノの呟きが聞える。ないもの、見えないものをあるもので形にするのが演劇だった、これまでは。これからは違うんだろうな。そう思う。
アルトーからもリビング・シアターからもブルックからも遥か遠く...もちろん寺山修司たちのアンダーグラウンドからも。それで良いのだと心から思う。演劇の形式に撫でられて、それでりっぱな演劇でしょうと押し付けられるのはもうたくさんだ。