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演劇が浮き彫りにする地域の危機、そのリアル

女司祭―危機三部作・第三部

クレタクール

作・演出: アールパード・シリング [ハンガリー]
10月27日(土)~ 10月30日(火) 東京芸術劇場 シアターイースト

本プログラムについて

1995年の結成以来、革新的な作品を発表し続け、ヨーロッパ演劇界がその動向を注目するハンガリーの演劇ユニット、クレタクール(Krétakör)。2008年、その成功の渦中に一時劇団活動を停止してから3年を経て発表された待望の新作『女司祭―危機三部作・第三部』(Crisis Trilogy Ⅲ: The Priestess)がフェスティバル/トーキョー12のオープニングを飾る。

『危機三部作』(Crisis Trilogy)は、クレタクールが演劇教育のプロ、社会学のエキスパートやメディアアーティストと協力しながら、映像、オペラ、演劇の異なるメディアを用いて、地域社会の歪みや矛盾を独自の演劇教育的手法を通して捉えようと試みたクロス・アートプロジェクトである。第三部となる本作がとりあげるのは、都会と地方の格差、学校教育、民族、宗教と政治など複雑な問題が絡み合う東欧の地域社会問題。その現実をどう掴み直すのか――その問いにクレタクールと地元に住む若者が演劇ワークショップを通して実直に取り組んだ。

トランシルバニアに住む若者とのコラボレーションから生まれる演劇の新しい可能性

「探求もせず、社会に影響を与えない芸術家は、もはや芸術家とは言えない」と言い切るクレタクールのハンガリー人演出家、アールパード・シリング。彼は2008年、数々の演劇賞を受賞後、数あるオファーを断り、従来の古典戯曲の演出を止め、より即時的な演劇の手法を求めて、新たなメンバーとともにハンガリーやルーマニアの地方に赴いた。

本作は、そうしたクレタクールの新たな試みの一つとして、ルーマニア、トランシルバニア地方に住むハンガリー系及びルーマニア系の15人の子供たちとの数週間に渡る演劇ワークショップを通して創作された。参加者の子供たちは、複雑な民族問題を背景にそれぞれに異なるバックグラウンドを持つ。クレタクールが目指したのは、それら異なる世界観を否定し合うのではなく、それぞれの声が共存しあえるポリフォニックなパフォーマンス作りである。ワークショップを通して気付く家庭や学校の日常に潜む偏見や暴力、その事実に向き合い、より大きなコミュニティの問題として議論する中で、若者に共同体の一員としての自覚が芽生える。そこに、クレタクールが取り組んできたコミュニティ活動における演劇の新しい可能性をみることができる。

観客とともに議論する、身近な日常に潜む偏見や暴力

物語の舞台は、ジプシーと呼ばれるロマ族が多く住み、貧困と差別が偏在するトランシルバニアの片田舎。そこに住む子供たちの前に、ハンガリーの首都ブタペストからやってきた元女優の新任演劇教師リラ・ガートが現れる。エネルギッシュでやる気に満ちた彼女は、演劇教育を通じて生徒と彼らを取り巻く家族やコミュニティの問題に真摯に向き合い始める。だが一方で、その新たな試みを嫌う同僚の教師、息子、反発する学生やキリスト教教育を担当する神父たちは、それぞれの視点から彼女を批判し始める――。

本作では、演劇教師に転じる元女優をめぐるフィクショナルな物語にクレタクールと子供たちが行った演劇ワークショップでのリアルな体験が織り込まれる。舞台上では、ワークショップを通して見出された彼らの住むコミュニティの日常にある偏見や暴力が再現される。さらに作品中に挿入された村の風景や村人のインタビュー映像が、複眼的に地域社会の問題を映し出す。作品に登場する個々人が自身の内にある葛藤を、その矛盾を抱えたままに観客に語り、観客とともに議論する。そこでは若者の存在自体が、彼ら、彼女たちが担うコミュニティの現実を忠実に表象している。


トランシルバニア地方(ルーマニア)

ハンガリー南部の国境とルーマニアが接する一帯。東西貿易における重要路として古代から様々な異なる民族や国によって統治されてきた。そのため多民族、多言語が共存する。近代以降、二度の世界大戦を経てルーマニア領となる。現在でもハンガリー系やルーマニア系及びその他少数民族が混在し、独特な文化の多様性を見ることができる一方、根強い人種差別がさまざまな社会問題を生んでいる。

クレタクール:『危機三部作』(2011)

ハンガリーの首都ブタペストで活躍し、演劇教師としてルーマニアの地方へ移り住む元女優、彼女の夫、その息子、それぞれの異なる三つの物語が、演劇、オペラ、映画の異なる芸術ジャンルで展開する。そこに描かれるのは現代ヨーロッパ社会の問題を映し出す縮図としてのフィクショナルな家族の物語。芸術という作られた断片的な世界に描かれた家族それぞれの要素を、観客とともにどのように再構成し議論できるのか。それが『危機三部作』を通してクレタクールが挑む新たな試みなのである。

第一部:映画『JP.CO.DE』/ 初演:2011年6月、プラハ・カドリエンナーレ
第二部:オペラ『喜ばれざる変人』/ 初演:2011年7月、ミュンヘン歌劇場
第三部:演劇 『女司祭』 / 初演:2011年10月、ブダペスト トラフォー現代芸術館


創作ノート(抜粋)

アールパード・シリング

『危機三部作』は、伝説的人気を誇ったクレタクール劇団の活動停止3年のち、クレタクールが新たなアプローチで新たなチームとともに、いくつかの製作やアート・メディアワークショップを通してたどり着いた最初の、最も重要な結果である。第二に、『危機三部作』はワークショップの仲間やプロジェクトクルーの意図に従ってさまざまな芸術的、経営的目的を繋ぎ合わせた構造モデルである。第三に『危機三部作』は異なる年齢の若者たちを集め、彼ら自身の創造的共同作業へと導く才能教育プログラムである。第四に『危機三部作』は芸術を通して次世代を揺さぶるさまざまな問いを提示するパブリックフォーラムである。最後に、といってもこれも重要なことだが、『危機三部作』は私たちの個人的な不安や経験、欲望や信念を吐露する自己告白である。

『危機三部作』の最初の作品は、映像作品『JP.CO.DE』であったが、実際最初に書いたのは『女司祭』である。演劇教師へと転身する元女優が首都ブタペストから田舎街へと移り住む。現代を映すたとえ話として、とても面白いテーマだと思った。私はハンガリーの問題であり、かつヨーロッパ全般の社会的緊張における問題とも考えられる二重性が、この主人公の運命を物語ることで捉え直され、関連付けることができるだろうと感じていた。私がここで言う緊張とは、結局何も生み出さないが明らかに人の良さげな放任と、非常に効率は良いが人間性という点で不備のある規制の狭間に生まれる。無垢が生む無条件の信頼と、無知が生む経験に基づく偏見の間にある緊張である。

まずこの女性を発想したときに、私たちチームは彼女に家族を与えるアイデアを思いついた。偏狭で熱心すぎる精神分析家の夫と、自分の居場所を求めて自身を中心としたコミュニティ作りを試みる息子。私たちはその家族を通じてある多面的な問題を表現したかった。家族に関する何もかもを、構成メンバーの欲望や意図さえも設定された人工的な集団として描きたかった。その家族の崩壊を見せることで、観客をもその人工的構成要素を再構成する作業へと誘い、彼らがどのようにこの極小コミュニティを見たのかという詳しい感想を聞きたかった。私たちの創造的共同作業において、家族は最小の、だが最も重要な社会的集団であると捉えられた。これが、このサンプル集団をスタディすることで、より大きな社会全体の機能不全を指し示すいくつかのディテールが現れるかもしれないと願った理由である。この中で、私たちを最も驚かせた発見の一つは、たとえその家族が人工的なものであったとしても、その共同体は純然に方法論的な表現を許さないことにあった。ここに、純然たる理性を避ける共同体それぞれの根源に関わる何かがある。私たちはそれをとてもシンプルに「魂」と呼ぶことにした。そして、それがより大きなレベルでも同様に、私たちの社会から失われつつあるものであると結論した。


劇評

アールパード・シリングは、3人のプロの俳優と子供たちと協同した。作品中彼らは自身について語る(それが自伝的である場合も、そうでない場合もある)。一方でまた舞台から進みでて観客に質問をする。この従来の演劇から離れて創造される"観客参加"は、観客をいささか戸惑う状況に置かせる。シンプルな演技に加えて、シリングはさまざまなイメージを舞台に映し出す。貧しいハンガリーの村のイメージは演技により正確な文脈を与える。彼らの正直さは、私たちに疑う余地を与えず、全編がなんとも言えず素朴な参加型の舞台である。ちょうど作品に出てくる理想的な元女優のように、とてもシンプルで、善良な意図に溢れた作品である。
Johan Thielemans, http://www.cobra.be

シリングにとって常に第一にあるのは、コミュニティにおける問題解決を目に見えるようにすることだ――それは現代社会が直接に学ぶことができるやり方である。アールパード・シリングは、そうした演劇に対する要求をこの数年で一貴して進めてきた。彼は自分の劇団を解散し、新たにユニットを結成し、戯曲を上演する形式から完全に離れた。その結果、今のクレタクールはコミュニティのロール・プレイングを通して問題の解決方法を探りながら、セミ・ドキュメンタリー的な演劇プロジェクトを創作し、教育活動に貢献している。それは、演劇ユニットとしてかなり珍しいスタンスである。その解決とは、例えば多様な社会階層の共存の問題に対するものである。そして、次のレベルでは、そのコミュニティの外部にいる観客にも向けられるのである。
Margarete Affenzeller, DER STANDARD