【11/21更新】著名人・批評家・アーティストからのF/T12推薦コメントが届きました!

著名人・批評家・アーティストからの推薦コメントを頂きました!随時更新!

F/T12 イェリネク三作連続上演『光のないⅡ』

過去と現在。福島と新橋。被災地とそれ以外の土地。私と他者。聴覚と視覚。さまざまな引き裂かれつつ重なりあうはずのものの間に置かれる体験が、ほぼ2時間ずっと持続する。作者の指示にしたがって移動し続けることで、劇場がうみだす同時的で共同の感覚を欠いた、もっと醒めた感覚が生じる一方で、現実の都市と生活とは濃密な関わりが保たれる。今回の作品は、さらに視覚的な空間体験が奥行きを増している点でさらなる進化を遂げている気がした。

ー住友文彦(キュレーター)

『夢の城 - Castle of Dreams』 ほか
来年のヴェネツィア・ビエンナーレ美術展で、アーティストの田中功起さんと日本館の展示を担当しています。こちらもテーマが3.11なので、やはり3.11を主題とするいくつかの作品に、励まされたり刺激を受けたり。なんともぜいたくな時間を過ごしました。

「アンティゴネーへの旅の記録とその上演」(マレビトの会)や「光のない。」(作:エルフリーデ・イェリネク、演出:三浦基(地点)、音楽監督:三輪眞弘)が、共通してギリシャ悲劇『アンティゴネー』を踏まえているのがおもしろかったです。美術の世界で3.11を扱おうとすると、距離を置いた表現かアクティヴィズム(直接的表現)か、の対立みたいな話になってしまいがちなのですが、演劇の場合は、ギリシャから捉えなおす、といった距離の置き方が自然に選択肢にあるように見え、美術と演劇との思考方法の違いを感じました。

こんな目で見たからでしょうか、「夢の城」(ポツドール)にも、プラトンの『国家』に出てくる「洞窟の比喩」が重なって見えました。もちろん正確には異なるのでしょうが、舞台両袖の窓から時々に差し込む光が若者たちの「目覚め」を促す重要なカギになっていたあたり、ちょっと考えられそうかな、と。また、最前列に座ってしまったので、目線のやや上に舞台の床があり、おかげで若者たちが床に寝そべっているときには、その姿が半分ぐらいしか見えませんでした。しかしこれが思わぬ効果を持っていて、彼らが何かをしようとする意志を示して立ち上がると(たいがいすぐ床にくず折れてしまうのですが)、ようやくその姿が十全に見えるのです。寝そべる=獣、立つ=目覚め、みたいな身体の言語が、この席のおかげで明確に浮かび上がりました。

ー蔵屋美香(東京国立近代美術館美術課長 第55回ヴェネツィア・ビエンナーレ美術展日本館キュレーター)

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F/T12 イェリネク三作連続上演『光のない。』

建築は一度そこにつくられたら、ときには100年以上もその同じ場所に立ち続ける。その長い時間を通じて過去の人たちが何を考えてこの建築をつくったのか、その思想が伝達される。
あるいは今を生きる私たちは、未来の住民に何を手渡したいのか。今の私たちの建築であると同時にそれは未来の住民に手渡す建築である。建築はその長い時間と共にある空間である。
福島の飛散した核廃棄物が完全に除染されるためにこれから何年かかるのか。私たちが忘れ去ってしまうまでに何年かかるのか。日々生産される使用済み核燃料の半減期は2万年を超える。建築はもはや無力である。演劇はその長い時間をどう耐えるのか。

ー建築家 山本理顕


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『隣人ジミーの不在』岡崎藝術座

岡崎藝術座の『隣人ジミーの不在』を観た。観劇後、岡崎藝術座の作品に、なぜもっと早く触れなかったのだろう、と後悔した。素晴らしかった。言葉以前の叫び、物語化する直前の身ぶり、意味になる前の無意識・・・、世界のすべてに繋がる得体の知れないものが、そこにあるように感じられた。まだ観ていない方には、心からオススメしたいです。

ー写真家 石川直樹


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F/T12イェリネク三作連続上演『レヒニッツ (皆殺しの天使)』

ヨッシ・ヴィーラー演出の『レヒニッツ』は二度見ている。一度はベルリンで、もう一度はウィーンで。いずれも打ちのめされた。イェリネクの戯曲が繊細かつ大胆に解釈され、その世界を俳優たちの「報告」が表象する。しかしその「報告」は最近流行りのプレゼンテーションではなく、その逆を行く「演技」であり、徹底したリプレゼンテーションの演劇である。実はこれこそドイツ演劇の真骨頂で、巨大なアンサンブルを擁するメジャー劇場にのみ可能な力技であった。ヨッシは演出演劇の流れを正統に受け継いだトップ・ランナーだと思う。その演出は見事という他なく、好みや方向性の違いをこえて、静かだが圧倒的なクオリティで迫ってくる。

ー演出家 高山明/Port B

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『たった一人の中庭』ジャン・ミシェル・ブリュイエール / LFKs


6時間の演劇? 2週間のインスタレーション? 舞台と客席の境界がなくなって、演じ手も観客も西巣鴨の現れた「キャンプ」のような場所で、音も、気配も含めて同じ時間と体験を共有する。進行するのは「移民」の問題のアレゴリー。他者を排除しようとするこの世の中の力が見えてくる。ジャンルの境界を横断すると、こんなに伝え/伝わることの接点が広がるのか。

ーキュレーター/広島市現代美術館 神谷幸江



これは事件だ。ただちに「西巣鴨プリズン」へ!

東京に異様な収容施設が現れた。「にしすがも創造舎」を乗っ取ってつくられたこの施設は、しかし、かつての「巣鴨プリズン」のような政治犯収容所ではない。むしろ、一種の医療収容所――人間を主体としてではなく身体として監視・制御する時代(ディシプリン[フーコー]の先に現れたコントロール「ドゥルーズ]の時代)にふさわしい収容施設なのだ。

中学校の体育館だったところに、14台の医療用ベッドがずらりと並び、自動的に昇降を繰り返している。周囲では、レベッカ・ホルンの作品を乱暴にしたようなオブジェが血液と見紛う液体を振りまいていたり、得体のしれない言葉やノイズが響いていたり。窓から外をのぞくと、見えるのは墓地だ...。しかし、そこにあるのはゴミ処分場のような混沌ではない。体育館の一隅には軍用と思しきテントが張られ、中では防護服のようなものを着たスタッフが収容者の身体を検査して情報を蓄積している。いや、それも含めた体育館内部のすべての状況が、元の教室のひとつだった「政治オフィス」からリアルタイムで監視されているのだ......。

実を言うと、これは「FESTIVAL/TOKYO」のトップを切って始まったジャン・ミシェル・ブリュイエール/LFKs(フランス)の「たった一人の中庭」と題する展覧形式の演劇作品である。驚くべきことに、元の学校の全体がインスタレーションの舞台となり、毎日6時間にわたるパフォーマンスが展開される。観客はそこを横切るようにして作品を体験することになるのだ。

私が会場にいたのはたかだか一時間くらいなので、パフォーマンスのすべてを体験したとはとても言えない。私が「政治オフィス」にいたときは、施設の状況と並び、連合赤軍や日本赤軍の情報が映し出され、スタッフが巨大なバナーに文字を書き始めていた――そのバナーはやがて施設の外壁を飾ることになるらしい。
私の見た収容者は一人だけで、ドレッド・ヘアの黒人男性だった。彼が密航に使ったらしいボートや、フランスから国外退去処分になる様子も、教室のひとつに展示されている。だが、他に収容者がいないという保証はない。そもそも、観客のつもりの私たち自身、つねにさまざまな角度から監視されているのだ。考えてみれば、私たち自身、学校をはじめとするさまざまなディシプリンの装置によって鋳型にはめられ、パフォーマンス会場を後にして自由に行動しているときもさまざまな形で潜在的にコントロールされているのではなかったか。日本人の多くが移民や国外退去といった問題を意識していないとしても、それは偶然に過ぎず、グローバル化の中ですべてが流動化・不安定化しているいま、私たちもいつそういう問題に直面しないとはかぎらないのだ。そう、学校の中庭に立っていた彫像も、梱包されていつでも出荷できるようになっているではないか。

程度の差はあれ、フランスでも日本でも私たちの直面している状況状況を鋭く照らし出す、これはきわめてアクチュアルなパフォーマンスだ。といっても、なにか陰鬱な作品を想像すべきではない。教室のひとつではモンスター(?)たちが踊り狂っているし、テントの医療スタッフも「イミグレーション・マン(移民の男)」というポップな音楽に体を揺らしながら作業に当たっていた。何より、壮大なインスタレーションはそれだけで一見の価値がある。

というわけで、まずは「西巣鴨プリズン」へ! そこで観客は前代未聞の事件を目撃することになる。

ー批評家 浅田彰


『たった一人の中庭』。あらゆるものに包摂された「生」を、剥き出しにすることとはなんなのだろうか。遺伝子、クリーチャー、野戦病院、収容所など、白くクリーンな部屋たちに置かれているものから想起されるイメージの群れは、おそらくその現れからは最も遠い凄惨な光景にリンクしていく。その距離感ゆえにか、そこでは立ち止まることを要請されるのではなく、そこに佇み続けることを自らに課してしまう。それが、囚われの空間と「生」の現在というものではないか、と強く考えさせられた。

ー演劇批評家 高橋宏幸


どこぞ、の国でもよく聞く話だが、前フランス大統領ニコラ・サルコジは、仏国民の耳に入って欲しくない情報に関して積極的にメディア規制を強いていたという。そして彼の不都合な真実リストに挙げられていたのが、欧州全域に現在も約240カ所存在するという「移民キャンプ」問題。これらキャンプはつねに平均収容率187%を越え、ウジ虫まみれの劣悪な住環境、職員による理不尽な暴行、副次的に現れる心身の悪化により、自殺者が後を絶たないという。つまり収容者たちは、シャンプーを飲み、カミソリを飲み、マットレッスに放火することで、身を挺して基本的人権の保護を訴えているわけだが、それら弱者の叫びは権力によって黙殺される。私自身、アヴィニヨン演劇祭で『たった一人の中庭』を目撃するまでついぞ知らなかった、ノーベル平和賞受賞の欧州連合が閉ざす暗がりの真実。この隠蔽された真実を演劇的体験として暴く作品が、マスメディアが健全に機能しているとは言い難いどこぞの国で、このたび喜ばしくも公開される。私たちの日常から遠いようで近い社会問題に、マスコミを通さずに遭遇できるめったにないチャンスだ。

ー演劇ジャーナリスト 岩城京子



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『女司祭―危機三部作・第三部』クレタクール

演出家シリングと十代の若者たちの交流から生まれた、新鮮なセミ・ドキュメンタリー演劇が来日する! 2012年春のウィーン芸術週間で見た本作は、映像と身体と音響を組み合わせる手法でも観客を魅了した。複雑な歴史を背負った地域で、少年少女が傷つけ合う姿は痛ましい。若者を抑圧する大人たちの閉塞感も、息苦しいほど迫る。彼らが暮らすルーマニアの村に渦巻く暴力や偏見は、日本に住む私たちと決して無関係ではない。家庭や学校はじめ共同体が揺らぐ社会を蝕[むしば]むリスクは、どの国にも共通の問題だから。非情な現実を訴える「女司祭」は、寄る辺なく彷徨[さまよ]う現代人を救う灯火ともなりうるのだ。

ー舞踊・演劇評論家 桂真菜


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『1月8日、君はどこにいたのか?』メヘル・シアター・グループ

アミールの新作! 素晴らしい俳優たち! イランは決して不思議の国ではない。必見

ー劇作家・演出家 平田オリザ

錯綜する台詞と映像。
それは、事実なのか、事実ではあるが盗聴を免れるための隠喩なのか、検閲をくぐり抜けるための台詞なのか、そして、いずれにしても、そのすべての台詞が、ペルシャの古い詩のように美しいのは、いったいどういうことなのか。

ー劇作家・演出家 平田オリザ(観劇後コメント)


イランの芝居、ペルシャ語で上演された芝居を観たのはとても久しぶりでした。この『1月8日、君はどこにいたのか?』を観る機会を頂き、実際に観劇してみて、とても驚きました。芝居の言葉、その意味はとても知的で、考え尽くされたミザンセーヌは、的確でした。役者の演技は感動させる素晴らしいものでした。また、さらに重要なのは、この芝居のテーマです。イランのセンシティブな社会問題をとても賢いやり方でグローバルなものにした。現代のコミュニケーションのエレメントである携帯を使い、非常に上手くテーマを描いていく。携帯は人々を離れ離れにさせる道具になるということーこの芝居を観て私たちは考えるべきだ。今、イラン映画のミューズの話はたくさん耳にします。今後は別の芸術が強い魅力を放ちながらイランから走り出し、世界に広まっていく。その芸術とは、イランの現代演劇です。この作品の演出家アミール・レザ・コヘスタニはそのもっとも美しい道をいくと確信しています。演出家、脚本家であるアミール・レザ・コヘスタニと優れた役者の皆さんを心から祝福します。そして、フェスティバル/トーキョーがこの素晴らしい舞台を日本の観客に観せる機会を与えて頂いたことに感謝しています。この演劇を観るチャンスのある方はぜひ観て欲しいです。一度観れば一生忘れない舞台となるでしょう。

ーイラン映画監督 アミール・ナデリ

  • by F/Tスタッフ
  • F/T12
  • 2012年11月21日