F/T マガジン

インタビュー ジゼル・ヴィエンヌ

----さらにあなたは振付家の肩書きを持ちながら「体」を特別扱いしません。体も光も音も、すべて舞台上では同じだけの価値しか持ちません。

GV  もし仮に私が、パフォーマーの体に演出や振付をつけることだけが大切で、光や音はそのあとに適当にのせればいいと考えているとしたら、それは根源的な意味で「シアター」の概念を裏切っていることになります。演出家は、ときに俳優だけでなく、光や音や空間にも語らせねばなりませんからね。これは空間芸術にたずさわる舞台作家としては、あたりまえのことです。ただときに忘れがちなことであり、また多くの俳優もこの事実を忘れがちです。だから私は、自分が前に出ることもできれば後ろに控えることもできる、優れた俳優とのみ作業をすることを好みます。

----本作では様々な対立項が浮きぼりになります。美しさと暴力、秩序と混沌、リアリティとバーチャリティ。なぜこのような背反要素を、舞台上に併置しようと思われたのでしょう。

GV  答は簡単です。私はいつでも両極端な要素を舞台上にのせることを好むからです。なぜならいっけん矛盾することを舞台にあげると、そこに緊張感が生じ、観客が考えはじめるからです。たとえば本作でいうなら、視覚的に極端な変化----完全なるリアリズムから完全なるイマジネーションへ----を実現しようと試みました。だから最初にすごくリアルな森を提示し、中盤に霧で観客の視覚を攪乱し、物理的な舞台道具はいっさい変えずに後半からは観客の風景に対する知覚を想像的なものに変えてみせました。また冒頭登場する体操コーチの存在にも、ひとつの対立項を担わせています。このコーチは彼が指導する女性選手に完全なる美と秩序を求めているのですが、同時に彼のなかには混沌とした感情が隠れていることが見えてきます。ですからここで彼は秩序を求めながら、混沌を創造しているのです。さらに森という存在自体、すでに両極の要素を抱えています。森は穏やかな美や自然をあらわすものでありながら、暗い無秩序や混乱を指し示すものでもありますからね。

----今までも『I Apologize』(05年)、『KINDERTOTENLIEDER』(07年)、『Jerk』(08年)などの作品であなたは人形を扱ってきました。そして本作でも使用されますが、ここでの使い方は今まで以上に印象的です。終盤にかけてたった一場面だけ、人形たちがまるでインスタレーションのように舞台上にひっそりと配置されます。

GV  本作をご覧になればおわかりのとおり、ここでは場面ごとに異なる"芸術ジャンル"が採用されています。冒頭はとても演劇的で、次にダンスのようになり、霧のインスタレーションがあって、再び演劇になり、最後にインスタレーションがくる。この変化はかなり意図的に行いました。また最後の人形インスタレーションの場面に関しては、あえて静止的に、それこそ額縁に入れられた絵画のように人形を見せようと思いました。一枚の絵を突きつけることで、観客の作品に対しての「認識」を覆そうと思ったのです。観客はここに至るまでの一時間で、ある結論に達しようとしています。「もしかするとこれは、ある事件を描く物語なのかもしれない」「もしかするとこれは体操コーチの男の内面世界を探る物語なのかもしれない」。そうして思考がまとまりそうになったとき、まったくその思考に沿わない絵が登場します。そして観客は再びゼロから、作品について考え直さねばならなくなるのです。
また私は作品の幕切れ間際で、同じように別の要素で観客の認識を覆します。つまり私は終盤にかけて二度、観客の思考に揺さぶりをかけ、作品を再構成することを求めるのです。私はいつでもそうして、観客の思考を刺激しつづけたいのです。