F/T マガジン

インタビュー ジゼル・ヴィエンヌ

----卒業後あなたは、生身のからだと人工物である人形、その双方を素材として振付家・演出家・ヴィジュアルアーティストとして創作を始められます。そして6年後の05年に『I Apologize』『Une belle enfant blonde』をたずさえアヴィニヨン演劇祭に登場されます。

GV  今年でアヴィニヨンは三度目になりますが、初めて招聘されたとき私はまだ29歳で、いまと同様かなり過激な作品をつくりつづけていたため、このような歴史あるフェスティバルに参加するのは無理だろうと思いこんでいました。けれど当時アソシエート・アーティストを務めていたヤン・ファーブルが私のことを強く押してくださり、芸術監督のヴァンサン・ボードリエールにも気に入ってもらい、私はアヴィニヨン・デビューを飾ることができたのです。この幸運にはとても感謝しています。

----確かにあなたの作品は、暴力、性、犯罪、死、妄想といった過激なテーマを題材にとることが多いです。観客をプロヴォケート(挑発 / 扇動)したいのでしょうか?

GV  いいえ、私は観客をプロヴォケートしたいとは思いません。なぜならもし観客が、ショックを受け、嫌悪感をもよおし、こんなもの見たくないと思ってしまったら、観客が作品から切り離されてしまうからです。そうではなく私はどんな人にも作品に入りこんで楽しんでもらいたい。それこそいっけん難解そうな作品でも「見てみたい」と思わせたい。仰るように、私の作品を挑発的だという人は大勢います。けれどもよく見れば舞台上にあることのすべてが、じつは無害だとわかるはずです。血も暴力も死も、すべては作りごと、フェイクです。ただし私は作品に、観客が自分で思考できる余白を残すようにしています。この余白が観客を刺激するのです。『I Apologize』の例で言うなら、私は冒頭で非常に強烈なイメージを見せて、あえてその前半と後半の絵がつながらないような作品を作りました。すると舞台を見終えたあとの観客はたいがい「なんて暴力的な話を作るんだ!」と私に言ってきます。だけどそこで私は彼らに説明するのです。「いいえ、それを作ったのは私ではありません。あなたの想像力です」と。前半と後半の余白を埋めたのは、あなた自身なのですと。そうすると彼らは、よりいっそう大きなショックを受けるようです。つまり暴力を生み出しているのが、私ではなく、彼ら自身だと自覚するからです。

----アートが観客の脳内で完成されるわけですね。

GV  そうです。なぜなら私はつねに、アート作品はアーティスト本人よりも大きな存在であるべきだと思うからです。もし仮に私が作品への100%のコントロールを望んだら、それはまったくつまらない代物になるでしょう。そうではなく私はアーティストとして、自分よりも大きな「現象」を生み出したい。つまりはじめに一粒のアイデアがあり、それを現実の舞台で形にし、全体を科学者のような目で注意深く観察する......、と、そこから自分ひとりの頭では考えつかなかったような現象が見えてくるはずなのです。そしてそれが見えたとき、私はアートが自分よりも大きな存在になったと思えて興奮する。だから私の定義では、アーティストはアートを具現化するための従者のような存在です。

----昨晩『こうしておまえは消え去る』を拝見しました。前もってDVD版の映像を見てから臨んだのですが、正直、映像版ではわからなかった発見が予想以上にたくさんありました。あなたの作品では、光、音、空間、そして本作では本物の森や霧も現れるわけですが、それらを「体感」することがとても大切なのですね。つまりあなたの舞台は哲学的な体験でありながら身体的な体験で、非常に頭にも体にも響く作品です。

GV  そう言ってもらえて嬉しいです。というのも西洋の哲学ではネイチャーとカルチャーは対立項だと考えられるのですが、私はむしろその双方をいっしょくたにした作品を見せたいと思うからです。これは大学で教わった哲学から生まれた思考法というより、完全に個人的な内省から培われた思考法です。つまり私はこう考えます。「私には頭と体がある。でもどう考えてもそのふたつが別々の存在だとは思えない。ふたつはあきらかに影響しあっている。だからどうやら私という存在は、文化を生みだす頭と自然物である体の両方があってひとつらしい」。そして私はこのような作品をつくるのです。