蜷川幸雄×イ・ユンテク 特別対談

戯曲をスタイルに合わせるのではなく、戯曲に合わせて演出のスタイルを変える

蜷川 お会いできてうれしいです。初対面の演劇人に会うというのは、僕はすごく緊張するんです。
ユンテク 会見でも申し上げたように、私は蜷川さんを心の師としてずっと尊敬しています。お会いできて本当に光栄です。
── 会見でユンテクさんは「私は“韓国の蜷川幸雄”と呼ばれています」と自己紹介されていて、それを聞いた蜷川さんが「それはいい意味なのでしょうか、否定的な意味なのでしょうか」とおっしゃっていましたが。
ユンテク 私はとても大衆的な演出家です。「大衆的」と言うのはつまり、演劇のスタイルが固定されていないという意味で、鈴木忠志さんや太田省吾さんのような独自のメソッドは持っていません。戯曲にはそれぞれに合う演出方法があって、言い換えれば、ぴったり来るスタイルはその作品に付きひとつだというのが私の考えです。100の戯曲を演出するなら、演出のスタイルは100あると思う。演劇全体に対する私の考え方は固定したものがあって、発声や呼吸など演技をしっかり身につけることは揺るがしがたい前提ですが、戯曲と演出の関係については柔軟に考えています。そういう意味で蜷川先生の演劇と近いのではないかと思っています。
蜷川 確かに似ていますね。僕は、戯曲の言葉と俳優の肉体に刺激されて演出する演出家なんです。戯曲の言葉に刺激されて演出の方法を探り、さらにまたそれが俳優の肉体を通過したときに、アイデアが浮かぶんです。そういう意味では、ちょっとルーズな演出家かもしれません(笑)。それは時として批判の的になり、「糸の切れた凧のようだ」と言われたりします。演劇から余計だと思われるものを排除してゆくよりも、これもまた演劇が演劇である理由だと思えるものを付け加えていきたいんですよ。それは演劇の可能性を増やすことになるんじゃないかと思っているんです。
もちろん、現在の社会の状況を捉えて「大きな物語はすでに消滅した」と語った批評家が、僕の『オイディプス王』を見て「中心がない今の時代に、なぜギリシャ悲劇のオイディプスは舞台のセンターに立っているんだ」と言った(笑)。時に僕は偏狭になったり寛大になり過ぎたりしながら、僕は今でも試行錯誤を繰り返してるんです(笑)。
ユンテク 私も『オイディプス王』は拝見しました。コロスの使い方などが刺激的で、いろいろ考えさせられた作品でした。……オイディプスを演じた方は歌舞伎俳優ですか?
蜷川 狂言役者(野村萬斎)ですね。
ユンテク その方がとても印象的でした。私から観てですが、一般的な演劇とは違う演技のスタイルに見えました。内在された動きが、とても強かったんです。演技のトーンも他の俳優たちの間で取れている統一性と違って、ちょっと異質に見えました。
蜷川 おっしゃる通りだと思います(笑)。他の出演者とのズレをユンテクさんが感じたのは、もしかしたら発声にあるかもしれませんね。能や狂言など、日本の伝統芸能の俳優さんがストレートプレイをやると、イントネーションが後半になると上がっていくんです。そのために少し文体がズレるんですよ。
今度は僕に質問させてください。ユンテクさんは日本の俳優と韓国の俳優を同じ作品で使っていますね。両者の大きな違いはどういうところにあるんでしょう?
ユンテク 稽古場での立場が全く違います。日本人俳優は本当に共同作業がしやすいです。演出家の言う通りに従ってくれるし、演出家が論理的に話をすると、自分で解釈して新しいアイデアを出してきてくれます。私が思うに、日本の俳優とやって演出家が失敗することはありません。一方、韓国の俳優は演出家の話をあまり聞きません。いくら論理的に話しても、です。(説得するために)戦わなくてはいけないので、すごく大変です(笑)。ですから韓国の演出家は、俳優を乗り越えるようなエネルギーがないといけない。ロゴスではなくパトスで完成させるような作業です。もちろん個人の気質によって違う場合もありますが、極端な話をすると、これが日本の俳優と韓国の俳優の大きな違いかと思います。
蜷川 僕には、韓国の俳優はエネルギーに満ちていて、シャーマンのようにテンションが高くて、強い演技をするという印象があります。あなたが演出した作品を見ていても、そういう箇所が随所に見受けられます。それは演出家がそのように導いているからでしょうか?

ユンテク 私は韓国の一般的な演出家ではないので(笑)、それが韓国の主流とは言えませんが。韓国の俳優がものすごいパワーのアンサンブルを見せることがありますね。
私の演出のやり方を申し上げますと、俳優と一緒に動くんです。自分で演技して見せることはありませんが、とにかく一緒に動きます。細かい演技についてはあまり干渉はしません。演技する時点で、その俳優がある程度自由(に演技できるよう)な空間を持っていないと、自分の持つリズムやエネルギーを発揮できないからです。それがあまり大胆にならないように、きちんと保つようにコントロールする。一緒に動くと、俳優たちの呼吸やエネルギーが、自分のそれと同調するんですね。それが私のやり方です。
私が先生の演劇に対して持っている印象は、とても民主主義的な演出家だということです。俳優をとても愛していらっしゃることは、どの作品を通じても感じます。
蜷川 本読みはやりますか?
ユンテク 座って台本を読むのは、本当に嫌いです(笑)。
蜷川 僕も稽古場でテキストを読むのが大嫌いなんです。
ユンテク ワハハハハ! 台本と言えば、私は毎回必ず自分で(パソコンで)打ち直します。シェイクスピアでもなんでも。内容を1行たりとも変えなくても。
蜷川 ほお。
ユンテク (その作業を通じて、せりふの)調子を計ったりするんですね。俳優にはその台本を配ります。稽古中はほとんど台本は見ず、俳優の言ったせりふがおかしいなと思ったら、またテキストを見ます。
蜷川 俳優とディスカッションはたくさんするんですか?
ユンテク はい、たくさんケンカします(笑)。コリペの俳優たちは、演劇科出身より人文学科出身が多いんですね。だから理屈っぽいのでしょうか(笑)、いまだによくケンカします。
蜷川 ご自分でも若い俳優のための場をつくってらっしゃいますよね。
ユンテク ウリ劇研究所ですね。話は変わりますが、○○○(※確認中)という市から土地を2千坪いただきました。とても景色のいい所で、ちょうど与野(蜷川が芸術監督を務める彩の国さいたま芸術劇場がある場所)のような場所です。毎年お祭りが開かれるのですが、この度、アジア芸術祭の許可を得ました。それに合わせ、キャパシティ500席の素晴らしい劇場がつくられました。来年、大会が開かれるのですが、蜷川先生の作品をぜひご招待したいのです。宿泊代ですとか劇場代はこちらで払えるのですが、交通費は残念ながら出せません。でももし実現したら、蜷川先生の作品の韓国初上演になるので、韓国のすべての演劇関係者が集まると思います。
蜷川 韓国で公演をしたいという思いはすごくあります。まだ一度も行ったことがないんですが、それは僕が、アジアの演出家として本当に困ったときに行く場所として取ってあるんです、勉強するためにね。
ユンテク 今度のフェスティバル/トーキョーには、韓国の演劇関係者が20人くらい参加作品を観に来ます。その人たちを紹介したいし、韓国で蜷川先生の作品を紹介したい。ぜひとも私は実現させたいです。

現実に近づくことが演劇のリアルではない

── ユンテクさんは、蜷川作品のどういった点に感銘や影響を受けられたのでしょうか。
ユンテク 私が蜷川先生の作品で最も感銘を受けたのは『パンドラの鐘』です。野田秀樹さんが戯曲を書いて、野田さんと蜷川先生が同時に演出を手がけられましたよね。韓国では絶対にあり得ないことです、演出家の先輩と後輩が同時に同じ作品を演出するなんて。だって蜷川先生は、(キャリアが長い分)素晴らしい演出が出来て当たり前だと受け取られるでしょう。一所懸命やって、得るのは「いい出来ですね」。野田秀樹さんは戯曲も書いたわけですし、得るのは「すごくいい出来ですね」ですよ。 蜷川 その通りでした(笑)。
ユンテク そんなふうに、後輩に道を拓くように、国へいらしてくだされば幸いです。
── 蜷川さんは、後輩に道を拓くという意識もあったのかもしれませんが、自分自身を奮起させるためにその企画に参加されたのですが……(笑)。
ユンテク それが普通の人には出来ません。 蜷川 ホントにね、多くのジャーナリストは「野田のほうが良い」と言ってました。
ユンテク ガハハハハ! ジャーナリストはそう言いたがるかもしれないですね。
蜷川 でも普通のお客さんは、僕の作品のほうがよくわかったと思います。僕は自分が(戯曲を)理解したいと思って演出してるわけですから。
ユンテク 私が考える蜷川先生の素晴らしい点は、自分のスタイルだけを押し通すのでなく、演劇自体が好きで、それを多くの人に伝えようとされている点です。本当に本当に、1度お目にかかりたいなと思っていました。
蜷川 僕の芝居はちょうど韓国の食卓みたいなものですね。いろんなおかずをたくさん並べる。僕はそれを全部食べたい演出家なんです。日本の懐石料理のようにストイックな、ある手法に限定された演劇は不自由なんです。
ユンテク 韓国のビビンパは30種類ものいろんなおかずから、好きなものを好きなだけ取って混ぜて食べます。僕もそのような芝居をつくりたいと考えています。
── さて、フェスティバル/トーキョー09春のテーマが「あたらしいリアルへ」なのですが、アーティストによって「リアルなもの」は違うと思います。アーティストそれぞれのリアル、それらと人間や社会との関係が今回のステージで提示されることが期待されますが、ユンテクさんと蜷川さんのリアルを教えてください。
ユンテク 私はすごいせっかちなので、先に言っていいですか? 私は現代演劇にとって、写実主義、自然主義、リアリズムは基本だと思います。ただ、それを支えるのは「セリフが明確に発声できる」といった演劇的な技術です。それはつまり、私たちが扱っているのは言葉の演劇ですから。でも最近の若い世代は、演劇的な技術におけるリアリスト(普通に喋るようにせりふを話す)が増えていますね。それは演劇をつくりやすい方法かもしれないけれど、それは演劇におけるリアルじゃないよ、と私は思います。リアルとは真っ直ぐに、人間や社会の内面にあるものを覚醒させることだと思う。観客が芝居を観て、感じて「ああ、これが人生だ」と感じる。そうさせるのが演劇だと思う。技術的なリアルを求める最近の流れは、ちょっと理解できませんね。
蜷川 僕は、世界や人間を新しく発見することが、自分がつくる演劇においてのリアルだと思っています。その手段になるなら、すべての象徴的なこと、様式的なこと、現実的なことを動員します。そして世界や人間の再生に使っていくんだと思います。
ユンテク 制度にコントロールされた人間はリアルではありません。そうした状況を破っていくのが人間だと思います。演劇が見せるべきリアルとは、それだと思います。

蜷川 たとえば、文学を(演劇で)再現することを否定する演出家たちもいますね。それは(演劇が)文学に従属しているんだ、と。僕はそうは思わない。再現できるということは、その技術を持っているということです。それを肯定的に使おうが否定的に使おうが、何かを再現、模倣できる能力を否定してはいけない。そういう楽しみ、あるいはそういう能力も、俳優にとっては大事な技術のひとつです。まっすぐな線を描ける能力を持っている人間が、まっすぐな線を描ける能力を否定できるんであって、できない人間が否定してもしょうがないわけですね。そういう意味では、僕は古典的な演出家だと思います。
ユンテク 僕も同じです。よくこういう俳優がいますね。考えはあっても、どうせりふを言えばいいのか、動けばいいのかわからない俳優。それと、多様なテクニックを持っているのに、自分をよくわかっていない俳優。ふたりは合体しなきゃいけないんです。技術と精神は一体にならないと、真のリアルは生まれないでしょう。
ユンテク ところで私は劇団員60人と一緒に生活しているんです。
蜷川 そのこともお聞きしたかったんです。最近、日本の若い俳優について痛感したのが、インターネットだとか携帯電話、メールに頼り過ぎて、他者とコミュニケーションすることがすごく下手になっている。そのために、せりふが相手に正しく到達しないで、手前で終わっちゃうんですね。あらゆる言葉がモノローグ化している、とも言えると思います。韓国の若い俳優には、そういう現象は現れていないんでしょうか。
ユンテク 日本と同じです。コミュニケーションがとても下手になっています。ですから演劇村をつくりました。現在、60人ぐらいの若者がいます。名門大学の学生もいれば高校生もいます。私は、来た人は全部入れるんです。オーディションも無し。そこでは最初の6ヵ月間、午前中は労働をさせます。午後は楽器の演奏をするなど演劇の技術を学び、夜は芝居の稽古をします。そこでわかってきたのは、我々は若者をもっと観察する必要がある、ということでした。というのは、私の世代は先輩と一緒に演劇をつくってきた。今の若者はそうではないんですね。こちらが「あなたたちと一緒に演劇をやりたい」とはっきり言わないと伝わらない。そして役割を渡して、「あなたはこの場面でこう動いてこうせりふを言わないと、この演目がダメになるよ」と説明すれば努力するんです。
日本の俳優に比べたら韓国の俳優は従順ではないかもしれませんが、それでも蜷川先生が韓国の俳優たちに教えてくださったら、とてもありがたいです。
ユンテク 私が演出した『ハムレット』をご覧になると、蜷川先生の作品から私がどれだけ強い影響を受けていることがわかると思います。
蜷川 今度は僕が、ユンテクさんや韓国の演劇から学ぶ番です。
ユンテク 本当に、はっきりわかりますよ、蜷川先生の影響が。
蜷川 そうですか。じゃあ今度、僕の『ハムレット』とユンテクさんの『ハムレット』を韓国で同時上演しましょうか(笑)。
ユンテク 私のをご覧になって、良ければぜひ!
蜷川 では楽しみにしてます。今日はありがとうございました。
ユンテク こちらこそ、ありがとうございました。

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