普遍的なロマンスが人の心を打つ(「フォト・ロマンス」評) [平野恵美子氏]

2007年に観たラビア・ムルエの「これが全部エイプリル・フールだったなら、とナンシーは」は、優秀な作品が数多く上演されたTIFの中でも、チュニジアの「囚われの身体達」と共に、特別な輝きを放っていた。それは一つにはこの作品にレバノンから来たという付加価値がついていたからでもある。中東関係の仕事や研究をしているような人達を除いて、一般的な日本人にとってレバノンは馴染みの深い国とは言えない。また、レバノンについての正しい知識や現実に合ったレバノン像を持っている人は少ないと思われる。日本では「レバノン」という国に、「内戦」「危険」というイメージがあり、実際には1990年代以降しばらくの間、南部を除いて外国人もほぼ安全に旅行できたのだが、一部の物好きな人達(失礼、しかし筆者もその一人)以外は旅行者の数も決して多くはない。そして「エイプリル・フール」が東京で上演された前年の2006年には、首都ベイルートを始めレバノン全土が再びイスラエルに空爆されるという危機的状況に陥った(この想像し難い状態は、「エイプリル・フール」が上演されたにしすがも創造舎で同時に行われたビデオ・インスタレーションでも紹介された)。また当時は2002年の「911」事件に端を発する「中東=ムスリム諸国(レバノンはキリスト教徒の数と力がかなり強いのだが)」に対する米国の一種のネガティヴ・キャンペーンのようなものが今よりあった。そのような中、中東映画祭や中東講座を熱心に開催していた国際交流基金とレバノンやチュニジアの演劇を紹介したTIFの英断には今でも心からの喝采を送る。もっとも日本の知識人と国民は、米国などに比べると、はるかに冷静で中立的な視点で物事を見ていたのも事実である。

筆者は中東を旅行したことはあっても、レバノンの演劇について何も知らなかった。ただ中東文化に対する興味と珍し物好きの好奇心から「エイプリルフール」を観に行き、内心、とてもダサい物を見せられるのではないかという不安もあった。ところがフタを開けてみると、自分の無知に恥じ入る結果となった。期待を裏切らずレバノンの社会情勢を反映する(でも報道等ではあまり伝わらない)内容である。ムルエはこれをジョークにするのだが、「知らざれるレバノン」という付加価値を超えて、ムルエの洗練された手法とシニカルなユーモアのセンスは観る人の心を掴み、レバノンという国にこのような優れた現代演劇があったのだという衝撃を与えた。

「エイプリルフール」にすっかり感心してしまったので、「フォト・ロマンス」は大いに楽しみにして観に行った。一方、もしかしたら今回は失望させられるのではという危惧もあった。一人の作家がコンスタントに面白い作品を作り続けるとは限らず、良い作品もあれば悪い作品もあるのは普通だからである。だがムルエは観客をがっかりさせることは決してなく、再び夢中にさせたのだった。

プログラムにある通り、アーティストのリナが検閲官ラビアに、自分の新作映像作品をプレゼンテーションするという内容である。リナは作品のオリジナリティーについても問う。リナの言う「イタリアの昔の映画」がマルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンの「特別な一日」であることは、この映画を観たことのある人ならすぐに気がつくだろう。劇中の人物と共に観客は、リナの作品または「フォト・ロマンス」のオリジナリティーについても考えさせられるだろう。だがこのイタリア映画を観ていない人も、十分楽しめたであろうことは間違いない。

日本では知る機会の少ない現在のレバノンが置かれた状況は、「フォト・ロマンス」でもまた垣間みることができる。「特別な一日」でS・ローレン演じる主婦の家族は、国民の多くが出かけるファシスト党のパレードに行って留守である。レバノンでは、(多少誇張しているとはいえ)二大政党のデモの時、国の人口の半分が家を留守にするという。つまり戦前のイタリアの状況がレバノンでは今日でも現実なのである。もう一つのレバノンの現実は、検閲官ラビアの反応に見ることができる。政治的なこと、民族的なことに関する表現に、レバノンの検閲は敏感である。

演劇作品を通して今日のレバノンについて知るだけでも、この作品を観る価値がある。だが以上に述べたようなことは、「フォト・ロマンス」のむしろ付加価値的な部分である。芸術的な部分についても述べなければならない。芸術的な部分が無い演劇作品などありえない。そうでなければインターネットのニュースを見て情報を手に入れるのとさほど変わりがない。

リナは大きなスクリーンを使って、自分の作品を検閲官ラビアと観客にプレゼンテーションする。パワーポイントを用いて静止画の連続を見せるというやり方は気が利いている。次々と映し出される写真のシークエンスは、まるで映画を見ているかのようである。一枚一枚の写真のクオリティーが高く、映画よりももっと一瞬の表情を鋭く捉えているかもしれない。大きなスクリーンでは舞台上の役者よりも顔が良く見える。舞台上の2人と、スクリーンの2人が同じ人物だということにすぐに気がつかない人もいるかもしれない。スクリーンの中の2人はどこか寂しげな人物だ。写真は彼らのもの悲しい表情を実によく捉えている。2人のセリフは実際は舞台上のリナによって全て朗読されているのだが、観客の頭の中では彼ら自身の声になって聞こえて来る。リナの作品中のリナとラビアは、レバノンという社会の中で生きる人物である。レバノンという国の困難な状況は多かれ少なかれ、彼らの人生に影響を与える。それでも観客が2人に共感するのは何故か。どんな国に住んでいても、その国の社会やシステムはそこに住む人に影響する。リナやラビアの抱えている問題は、レバノンに住んでいることだけが原因ではない。リナはいわば平凡な主婦だ。夫、子供、家族に囲まれ、問題らしい問題はないかもしれない。彼女はそれなりに自分の人生と折り合いをつけて生きている。だが一方で不満も持っている。夫や教育を全うしなかった自分に対する不満である。だがラビアに会って、後悔をあきらめに変えていた自分に気づく。それで夫とは離婚したという嘘をつく。そうすることによって、あきらめて生きなかった人生をもう一度生きられるかもしれないと密かに期待している。一方、ラビアは自分のどっちつかずの信条のせいで裏切り者の烙印を押され、仕事を奪われ、自分の属していた社会から追い出されてしまった。一見幸せに見えるかもしれないが自分の人生を後悔している主婦、どっちつかずのために共同体から排除されてしまった男(どこの社会でも白黒つかない者はしばしば両方の側から憎まれるものだ)。もし自分の人生に何の疑問も持っていない人でなければ、そして生きられなかった自分をどこかで葬ったことのある人なら、何人だろうと、どこに住んでいようと、リナやラビアに共感するのではないだろうか。

リナとラビアはお互いに出会って人生が変わるかもしれないと微かに望みながら、実際には何も変わらないであろうこともよくわかっている。舞台上のリナは二つの結末を用意している。一つは階段で永遠に追いかけ続ける2人。この2人にはジ・エンド、つまり何の解決も行き着く先もない。チェーホフの『子犬を連れた奥さん』にも似た結末だ。不倫の2人にハッピーエンドはない。だからといって関係を捨てることもできない。もう一つの結末には少し冷静なラビアがいて、何かが変わることも2人の関係が続くこともないと知っており、2人で過ごしたこの一日を人生の特別な一日と思うとリナに告げる。せつない。2人の関係は、現在のレバノンでも、戦前のイタリアでも、今の日本でも、どこであっても不思議ではない。不倫でなくても苦くせつない恋をした経験のある人なら誰でもわかるだろう。

演劇はその国や社会の鏡としての役割を果たすべきという意見がある(*)。これは「芸術を社会のために役立てる」という古典的な思想の一つだ。国境を越えて伝えられる演劇をそのような目的に用いるのも一つの利用方法だろう。だが演劇も芸術である限り、どのような形であれ、人の心に訴えるものがなければならない。共感であれ、反感であれ、観客の心に何かを感じさせなければならない。「フォト・ロマンス」が、知らざれるレバノンを知るという付加価値だけだったら、功名な演劇的手腕だけだったら、ここまで人の心を打つことはないのだ。

(*)「囚われの身体達」演出のファーデル・ジャイビは、「まず演劇はチュニジア社会の鏡としての機能を果たさなければならない」と述べた。