『フォト・ロマンス』ラビア・ムルエ、リナ・サーネー 劇評  [百田知弘氏]

舞台の構成はごくシンプルだ。中央に吊り下げられたスクリーンとその操作卓があり、上手にはテーブルとソファが二脚。テーブルには一つだけ紙コップが置かれている。スクリーンの後ろは演奏者(主にシャルベル・ハーベルが担当)のためのスペースとなっている。
大きく分ければ、(1)テーブルとソファ=映画の監督(リナ・サーネー)と検閲官(ラビア・ムルエ)が、映画のコンセプトや内容に関して議論する場(2)スクリーン上=制作された映画のストーリー(3)操作卓とスクリーンの裏手=映画のために必要な演出を行う場所――と、三つの領域を行き来しながら公演は進行していく。

主軸を成すのは映画の監督と検閲官とのやり取りである。
まず自らの職務とその社会的な意義を説明する検閲官に対し、監督はいちいち同意してみせたうえで、自分が撮った作品のコンセプトを説明し始める。曰く、この作品は過去の名作『特別な一日』(=以下、原作)を再現している、元々はファシズム下のローマが舞台だが、これを現代のベイルートに置き換え、かつ映画の筋そのものはいじらない、というのだ。随所に難解な用語を織り交ぜつつ得意げに展開される饒舌といい、制作コンセプトの奇抜さといい、まるで検閲官を煙に巻こうとしているかのように聞こえる。

ところが、当の検閲対象である映画の上映が始まると、その異様さに戸惑わされることになる。
原作の冒頭、ヒトラーがローマを訪問した際のニュース映像を用いたシーンになぞらえて挿入されるのは、ベイルートでのデモの映像だ。それも、「原作の筋に合わせるには市民の大半が出払っていなければならないから」、対立する陣営の双方が同じ日にデモを挙行した、という設定に変えている。
具体的には、画面を二分割して双方のデモ隊を映している(ことになっている)のに(*1)、実際に流れている映像は左側も右側も同じカットが出てきたりする。「両陣営ともやっていることは同じじゃないか」という皮肉でもあろうし、終演後のトークでリナ・サーネー自ら語ったように「それぞれの陣営ともにファシズムに陥る危険性を孕んでいる」ゆえの演出でもあるだろう。ともあれ、そうした今日のレバノンの現実を忠実に取り込もうとすれば、原作の「忠実な」再現は不可能になる――そんなジレンマが、早くも冒頭で露呈するわけだ。

映画に対する期待は、次々に悪い方向へと裏切られていく。
そもそも、このフィルムはまだ完成していない。登場人物を画面に出さないというアイデアを披露しながら、実際には子供の描いた絵を映しっぱなしにして、監督自ら全員分の台詞をアフレコしてみせたり、「小動物は苦手」だからと猫の映像だけフォトショップで差し替えたり、検閲官の目の前で映画はどんどん改変されていく。そのくせ、映画の主人公が「スリランカ人が三人は必要だわ」などと嘆く場面には、「人種差別や職業差別の意図はない」と慌てて釈明してみせたりもする。監督としては、映画を完成させることよりも、検閲をやり過ごすことの方が重要だと思っているのではないか? だとしたら、そもそも映画を制作する目的が変わってしまってはいないか? とすら思わせる。
しかし、「ここまで変わっているのなら、もはやオリジナルの作品なのでは?」と至極もっともな指摘をする検閲官に、監督はあくまでもオリジナリティーを否定する。原作の忠実な再現など無理だと分かり切っているのにこのような態度を貫くのは、「現代のレバノンで起こっていることは、いつか起こった状況の繰り返しに他ならない」、あるいは「経過はどうあれ、落ち着く結末は似たようなものじゃないか」といった諦観の暗喩なのかもしれない。

こうした構成の錯綜ぶりに拍車を掛けるのが、舞台に出ている二人の組み合わせが、映画の中でも二人の主人公として動いていることだ。
映画の中のリナは離婚して出戻ってきた娘であり、同じくラビアは政治的に旗幟を鮮明にすることを忌避して無期限休職に追い込まれたジャーナリストである。リナは家庭から、ラビアは会社から排除された「余計者」であることに注目すべきだろう。
加えてラビアの場合、家庭からも排除されている(=離婚歴がある)うえ、社会的にも「爪弾き」されている立場だ。内戦の際にレバノン南部の収容所にいたことが何を暗示するのか、は終演後にも語られたが、「どこにも帰属しない/できない」立場の危うさは、「自分を平手打ちしなかったのは東側の人々だけだ」という台詞に凝縮されている(*2)。

そして、舞台上の二人が、映画の中の二人と重ね合わされていく。操作台で台詞を朗読する監督=リナに、検閲官=ラビアが紙コップで水を渡したところでリナが勘違いしかけるという演出は、さりげないが印象に残るシーンだ。だが一方で、冒頭に「私抜きで始めちゃったの?」というリナの台詞があることを考えると、監督=リナは確信的にこのような展開に持ち込んだのではないか、という見立ても可能だろう。
ここからラビアは検閲官としての役割を離れ始め、最後は音楽を演奏したりもするのだが、映画が人を食ったような展開なのは変わらない。原作では、男がやや強引にルンバを踊ろうと誘ったり、女の家を訪れ「コーヒーを飲ませてほしい」と頼んでロマンスが芽生えたりするわけだが、この映画では男が一人でベリーダンスを踊り、コーヒーを求める代わりに皿洗いを買って出る。色気も何もあったものではない。
極めつけは洗濯物を取り込みに出た屋上で激情をぶつけ合う場面だが、この映画では言い合いにはなるものの「いい場面」には至らず、その後ロマンスに発展することもない。階段を下りて部屋へ戻るシーンに至っては、カットを繋ぎ直して「果てしなく階段を下り続ける」ことにされてしまっている。これが今日のレバノンが陥っている「負のスパイラル」の暗示であることは終演後のトークでも触れられていた。

それにしても、ロマンスの芽生えをことごとく肩透かしするような展開にしておきながら、なぜわざわざタイトルを『フォト・ロマンス』としたのだろうか? これはあくまで私見だが、「ロマンス」は映画の中だけではなく舞台上でも、つまり監督と検閲官の間にも芽生えかけているのではないだろうか? 
検閲官は監督のペースに巻き込まれ、いわば「共犯関係」の一端として映画の制作に関係してしまう。そして終幕近く、「希望に満ちたラストがいいですね」と言う検閲官に、監督は「では台本の37ページを見て下さい」と応じる。ところが検閲官は、そのページを一瞥すると、丸めて投げ捨ててしまう。そしてスクリーンに映るのは、家に戻ったリナが、一人アメリカに旅立つラビア(付き添いはいない)の姿を見る、というものである。見方は分かれるにせよ、これを「希望に満ちたラスト」と感じる者は少ないだろうが、投げ捨てられたページを監督が拾い上げて確かめる(*3)シーンが後に続く。
では、自分で要求したはずの結末を現実に沿う形で提示された、すなわち仮初めの「ロマンス」の破綻を目の当たりにさせられた検閲官は、何を感じたのか。現実への無力感か、あるいは自らの職務の無意味さか。どちらにせよ、検閲とは「善意からのアドバイス」を装うものだが、その欺瞞性を鋭く抉り出しているとは言えないか。

かつて東京国際芸術祭で来日したジョージ・イブラヒムは、「我々の生きている社会では、表現がことごとく政治性を帯びてしまうのだ」という趣旨の話をしていた。今日のレバノンもそれと通ずる状況なのだろうが、メタドラマ的な構成を持ち込むことで直接的な描写にこそなっていないものの、政治性と表現者の関係に正面から取り組もうとする意欲的な公演だったと私は感じた。
また同時に、望むと望まざるとに関わらず再現される歴史が、無情なまでに悲劇的な状況を生み出し続けているという絶望が、今日のレバノンを覆っているのかもしれない。それに対置させる形で、「物語を再現しようとする試み」が無残なまでに齟齬を来していく有様を描いてシニカルな笑いを盛り込んでいることに、表現者としての強さをも感じた。

(*1)ここで本来なら検閲官が「国民を二分しているかのような表現はいかがなものか」といった苦言を呈してもおかしくないはずなのに「政治的には正しいですね」と評してしまうのは、秀逸なギャグだろう。

(*2)冷戦時代の東側諸国はレバノン内戦に介入していない。つまり映画の中の、共産主義者だったラビアのシンパはレバノンにはいなかった、ということになる。
終演後のQ&Aの際、レバノン内戦に何らかの形で当時のソ連が介入していたのか、あるいはラビア・ムルエの『Face A/Face B』では兄が当時のソ連に留学していたというエピソードも出てくるので、個人史をある程度反映させた言及なのか?と思って質問してみたのだが、勘繰り過ぎだったらしい。

(*3)台本のどこに何を書いたか、監督は当然ながら承知しているはずで、丸めた紙をわざわざ広げて見る行為は「確認」に他ならない。この前に、検閲官が「37ページ」をなかなか見つけられないという場面を挿入しているのも、「現実が見えていない」ことの暗喩なのかもしれない。