『ろじ式 〜とおくから、呼び声が、きこえる〜』(維新派)劇評 [百田知弘氏]

会場に行ってまず驚かされたのが、普段ならただのグラウンドであるはずの場所に建てられた「屋台村」だった。食べ物、飲み物を扱う屋台の間には、私はタイミングが合わず出し物を見られなかったが、一角に小さなステージまで設置されている。劇場を祝祭のための空間と捉えるならば、そこまでの橋渡しとして「屋台村」という非日常的空間までも一緒に設置してしまうという発想に、否が応でも興味をかき立てられる。

さて、参道を通って神社の拝殿に向かうような趣きで体育館(=実際の上演が行われる建物)に入ると、最初に対面するのが、骨格標本だ。客席の裏手に爬虫類、魚、鳥の骨だけが並んでいるのは、やはりしげしげと眺めてしまう。それから客席に向かうと、舞台上にも、ゴリラや海獣など、大型の骨格標本が置かれているわけだ。スペースの問題、つまり広い場所だからこそ大型の標本を置けばそれだけ見映えがするわけで、だとすれば客席裏手の小型の標本は「目慣らし」なのかもしれない。

舞台上には、格子状の枠の中に様々な物体を固定したオブジェが数多く配置されている。骨格標本以外にも動植物の化石あり、鍋やお玉、ラジオなどの生活用品もあるのだが、ある程度のグループ分けが可能なために「雑然」とまでは感じさせない。とりわけ数の多さで目立つのは「履き古した靴の片方だけ」だ。敢えて全体に共通する要素を見いだすならば、「既に死んでいるもの」、あるいは「使えなくなった/使われなくなったもの」で占められていると言えそうだ。

格子だから、隣や後ろに何が置かれているのかも見通せるのだが、それでも開演前は高く積まれたオブジェが碁盤目状に配置されているため、奥の方に何があるかまでは見えない。最初のシーンのタイトルが『標本迷路』となっているのもむべなるかな、である。

もっとも、進行に従ってオブジェは動かされていき、やがて舞台中央にあった物が全て撤去されて初めて、最後部には錆びたトタン板の切れ端や古びたチェーンなどが置かれていると判明する。中でも海獣の骨格標本は、最初はいくつかのパーツに分割されているが、途中で一度だけ本来あるべき姿に並べ直される場面がある。

また、最後列に置かれたオブジェには、「路地裏」を連想させる物が多かった。途中で『鍍金工』と題されたシーンもあるのだし、より正確には「小さな工場のある路地裏」と言うべきなのかもしれない。そもそも公演のタイトルが『ろじ式』でもあり、全体の世界観を支えるオブジェ群でもあるのだろう。

このようにして、「屋台」→「骨格標本」→「舞台」と非日常どうしが連結されているわけだが、屋台は「生きている人間のせめぎ合い」、標本は「既に死んだものたちの集積」であり、およそ対極に位置するはずの要素が舞台の上で並列されていることに強烈な印象を受ける。

登場人物はみな顔を白く塗っており、人数はまちまちだが同じ服装(場面ごとに異なる)の者たちが舞台上に登場し、集団としての統一感を感じさせる動作を繰り広げる。つまり個々の出演者は、個性を剥奪されると同時に付与された「役割」のみを負わされているといえる。台詞についても、単語や短く切ったフレーズを「掛け合い」調に言い交わす場面が多いので、やはり「集団ないし役割としての発語」ととらえるべきなのかもしれない。もちろん、例外的に特定の登場人物が周りとは区別できる動作や台詞を担う場面もあり、それがともすれば「個性」の芽生えとも受け取れるのは興味深いところだ。

最初のシーン『標本迷路』は、冒頭で「宇宙空間」の映像が背景のスクリーンに流れると、ジャケットと半ズボンにハンチング帽をかぶった者たちが、格子状のオブジェを運んでは置く動作を繰り返す。むしろ「作業」と呼ぶべきかもしれない。これと並行して、虫取り網を掲げた中腰の者たちが舞台の最前部と最後部を左右に行き来している。

そこから次のシーンへ進むが、私としては、ここで登場する複数の場面を引っくるめて『地図』と題した理由を考えさせられた。

例えば、舞台上手から下手へ向かって進もうとしながら時折短い台詞を発する一団の中で、足を挫く者とその手当てをする者が登場する、という場面がある。先頭の者が地図を手にしているわけではなく、また彼らの道行きは舞台の中央までも進まないまま、怪我人が出て不意に終わってしまうのだ。

三人の男が公衆電話でそれぞれ通話している、という場面も出てくる。それまで顔を向き合わせての会話がないところに見慣れたコミュニケーションのやり方が登場するため、また三人が一人ずつ順番に喋っていくため、何を話しているかに否応なく注目させられる。よく聞いていると「そちらに行きたい」「こちらに来てほしい」といった内容の通話であること、また通話の中に登場する単語や場所の説明が各人の間で微妙に重なり合っていることなどに気づかされる。

また、舞台上に整然と配された登場人物たちが、類人猿に見られる「ナックル・ウォーキング」を模したと思える動作を繰り広げる場面もある。舞台の上手・下手双方に向かい合う形で掲げられたゴリラの骨格標本との関連性が窺えて、つい見入ってしまった。

では、以上の各場面が一つのシーンをなすというなら、何が共通する要素なのか? 個々の移動の目的を捨象して、地図上には全てを平等にプロットできるから、という意味合いが込められているのだろうか。続く『可笑シテタマラン』が、シーンのタイトルにもなっているフレーズを何度もリフレインするために区切れは一目瞭然であることと好対照を成している。また『可笑シテタマラン』は、割烹着を模した衣装で頭上に各人で違う物を載せているという見た目もさることながら、舞台の上手側と下手側の二つのグループに分かれ、台詞と動作をリズミカルに連動させて野菜などの下ごしらえの情景を表現しつつ、二つのグループの間でも掛け合いを見せるという構成で、軽妙に見せていく。

次の『海図』が、私としては印象深かった。箱の上に乗ろうとする動作をじっくりと長回し風に見せながら台詞を呟いていくのだが、まず各人の動作や発語のタイミングがきちんと統率されていることに見入ってしまう。

ここで発される台詞は、最初のうちは無理問答や頭韻を踏んだ言葉遊びにも聞こえるのだが、中に朝鮮語の単語ではなくただ「ハングル」と口にしたり、単なる数字を読み上げるところがある。ここで、恐らく消波ブロックや防波堤の上から浜に打ち上げられた漂着物、もっといえば海外から流れ着いたゴミを見ているのだろう、と見当が付く。ラベルの文字には読めるものも読めないものも、また単なる数字の羅列もあるというわけだ。

そして、登場人物たちが各地の島の名前を羅列し始める。ここで連想されるのが、柳田国男の『海上の道』である。人は長い時を経て島伝いに生活圏を広げていき、各地で作り出された物の残骸が波に洗われつつはるばると運ばれてきたのだ。いまや漂着物が喚起するのはノスタルジーばかりではなく、単なる怒りもあるだろう。だがそこを掘り下げて、異文化とのささやかな繋がりに興味を抱いたり、かつて同じ地に住む同胞だったはずの者たちが道を別れた末、いつしか「国境」が設定され、異なる文化を築き上げていることを再認識しているのだろうか。このシーンの前に、いったん海獣の骨格標本をきちんと並べ直していることが、伏線となっているのかもしれない。

また、次を受けるシーンが『おかえり』と題されていることも興味深い。もちろん「出ていった者」を迎えるから「おかえり」なのだが、「お/か/え/り」と記された棒を掲げて中腰で行き来する人物たちの動作は、『標本迷路』で虫取り網を掲げていた人物たちの動きと同じものだ。

『鍍金工』から『金魚』へは、連続的に移行していく。

作業服姿の者たちが固まって座り、ということは小さな工場を模しているのだろうが、工程や材料に関係しているらしい単語を言い交わしていく。狭い範囲で展開されるミニマルな動きと台詞によって、各人は個々の作業に集中しているはずが、全体としては息が詰まりそうな閉鎖されたサイクルが描写されていく。

やがて工員たちを舞台に残したまま『金魚』に入っていくと、一転して開放的な印象に変わる。閉じた環が開いて伸びやかな直線になっていくような印象さえ受ける。ひときわ耳に残るのは関西弁の「てん」と「たん」を入れ替えていく掛け合いだ。例えば「取ったん?」「取ってん!」だけで、会話としては成立しているのである。

そして子供二人が路地の側溝で金魚を泳がせる場面となる。金魚を追って子供も移動するのに合わせ、周囲にも人物が加わっていくという展開は、移動に従って周囲の風景も変わっていく様子を限られたスペースで見せるうえで、興味深い演出だった。

次の『地球は回る、目も回る』は、短いシーンだが、ひときわ異彩を放っている。

数人の出演者が格子状のオブジェを抱えて舞台上手から下手へと歩いていくのだが、その一つはラジオで、雑音混じりながら音が聞こえてくる。この音声は中田ダイマル・ラケットの漫談のはずだが、なぜ彼らなのか? 冒頭で宇宙空間の映像を流したこと、漫談の内容との対比か。それとも、既に鬼籍に入っているコンビであって「実際に動いている姿は見られない」、つまり骨格標本や化石と同じ存在、ということか。あるいは、人類が電波に乗せた音声や画像が拡散し減衰しながら宇宙空間へ当て所なく飛び去っていくのを「ラジオの音声」ととらえるならば、登場人物たちの直線的な移動と対比させることも可能だろう。

そして最後二つのシーン、『木製機械』から『かか・とこ』にかけては、それまで登場してきた「役割」が改めて一堂に会していく。ミニマルに切り出されていたと見えた動作が、徐々に複雑に展開していく。特に『かか・とこ』を「母・所」と考えれば、家庭の風景を想起させる『可笑シテタマラン』や『おかえり』がそのあとに来ると仮定すれば、また違った見応えが出てきそうだ。

さておき、何度も繰り返される「路地を、歩く」というフレーズが耳に残る。短い台詞だけに解釈の余地は幅広いが、例えば金魚を追って出ていった子供たちが家に帰ってくるまでの過程と考えれば、オブジェに古靴が多く交じっていたのも腑に落ちる。また、冒頭に宇宙空間の映像が流されていたことを踏まえれば、果てしない遠くへの旅から戻ってくる過程とも理解できるだろう。いずれにせよ、「生」と「死」の連結が、多くは郷愁や鎮魂の色合いを伴って繰り返し提示され、最終的にホームグラウンド、つまり「路地」に収斂していく――それが全体を通じてのテーマなのかもしれない。また同時に、この展開が、屋台村から劇場へと誘われていくという物理的な配置とも対比させ得ることは、特筆すべきだろう。

ところで帰宅後、年の離れた友人からたまたま電話が来たので『ろじ式』を勧めてみると、何と先方は昔、「維新派」の公演を見たことがあるとのこと。結成が1970年で早くも40年近くになるそうだ、ということに触れると、しみじみした調子で「昔、劇団を作っていた連中も、年を取ると相手がいなくなってしまってね」と話してくれた。様々な事情で団員が去っていく中で、残り続けたベテランと釣り合う役者も徐々に減っていき、いまや外から若手を招くにしてもうまく噛み合わないのだ、と。そうして次第に消えていく劇団も実際にある中、これだけ長い活動機関を経てもなおスタッフの新陳代謝を続け、意欲的な公演に取り組めているということこそが、何よりも称賛に値するのかもしれない。