生死・時間・移動をめぐる豊かな〈虚実〉 ―維新派『ろじ式 〜とおくから、呼び声が、きこえる〜』 (i)劇評 [森川泰彦氏]

 本稿が扱う『ろじ式』に特に当てはまることだが、多くの維新派の作品においては、表象の対象となる物語は重要な役割を果たしていない。維新派の舞台が持つ豊かさは、物語にではなく、それを表現するための物質的諸手段が生み出す表象作用それ自体の分厚い層にある。その特色は、舞台上で大々的に展開される諸事物の物質的運動が立ち上げる物語未満の独特の感覚的世界にあり、その凄さは、それが圧倒的な力で展開されることにあるのだ。
 従って維新派の作品を論じるためには、表象される物語とそれを表象する手段の間で働くかかる意味作用を明らかにしておく必要がある。この〈虚構〉と〈現実〉の間の意味の層を、〈虚実〉と呼ぶことにしよう (ii)。それは、「役の下に役者を隠す」こと(〈虚構〉と〈現実〉の一致)を理念とするリアリズム演劇にも存在し、当然、「役と共に役者を見せる」非リアリズム演劇においては極めて重要な役割を担う。そして、言わば「役よりも役者を見せる」維新派においては、それこそが主戦場となるのである。以下では、まずかかる維新派的〈虚実〉の特長を分析し、それを前提に『ろじ式』を検討することにしよう。

維新派の〈虚実〉

 維新派の舞台においてまず指摘すべきは、その独特な〈虚実の音声〉である。舞台上の人物が主述の結合した文をなす日常的台詞を話すのは例外であり、多くの場面において発話されるのは、関連はするが統語されない個々の単語なのだ。連辞機能に障害がある失語症(ヤーコブソン)のごとく、ひたすらにぶつ切りの言葉が羅列され、変拍子の音楽に同調することでその物質性は一層際立ってゆく。当然、本質的に連辞である物語は曖昧になって直線的に進行しえなくなるが、逆に言えば物語性が希薄だからこそ、それが可能になる。
 そして、その〈虚実の身体〉もまた重要である。それは、紛れもなく人間の生々しさを帯びた個性的存在であると同時に、白塗りの無表情で機械的集団的に動く匿名的存在でもある。こうした有機性=人間性と無機性=機械性、言わばエロスとタナトスの同居は、しばしば見られる「人形振り」的な動作によってさらなる高度化が図られる。人形振りでは、生命を持つ有機物たる人間が、自身に似せて作られた生命のない無機物を演じているわけで、両契機は、本物の人が人になりきった偽物を演じるというメタ演技の上で結合しているのだ。こうした生死の複合した身体を持つことから、しばしば維新派の人物は生者にも死者にも見える。そして、過去と現在(と未来)を同時に生きるかのようなこの身体は、具体的記憶を喚起しないが抽象的郷愁を誘う、未だ経験せぬ思い出を懐古させることになる。
 さらに維新派の舞台においては、そうした声や身体を配する〈虚実の空間〉を、圧倒的な質量の物の動員によって立ち上がらせておくことが、その桁外れの力で観客を貫く基盤となっている。範列的発声が並べる無数の名詞達は、一部が物質化して現実の舞台を埋め尽くすことでその存在感を高め、その連想を容易にする。そしてここにも、無機的有機性あるいは機械的人間性という人形振り的両義性が潜在し、また異時間が共存していて、その効果を相乗的に高めてゆく。というのもこの空間は、一方では、荒々しい巨大な鉄骨の枠組が構築する硬質な人工的世界であるが、他方でそれは、黒や灰色、セピア色を基調とすることで白黒映画や退色写真を想起させ、甘いノスタルジーを喚起して観る者を揺さぶる器ともなっているからである。

『ろじ式』の世界

  総説

 それでは今回の『ろじ式』はどうだったか。上演が行なわれたにしすがも創造舎は、これまで野外で大規模な舞台装置を組んできた維新派にとってはやはり狭すぎ、またその物量戦略を発揮できるような最新設備を備えているわけでもない。かくして今回の舞台は、維新派の醍醐味であるその〈虚実の時空〉の圧倒的なスペクタクル性には乏しかった。しかし、標本箱で統一した美術の奇抜な面白さや、統制された集団的演技の見事さに加え、前述した維新派的〈虚実〉と通じ合う主題群を細部に張り巡らせたその世界の完成度は高く、視覚的聴覚的な喜びと共に、その一貫した意味連関の機能ぶりを十分堪能できる舞台でもあったのである。以下ではそれを詳らかにしていこう。
 まずこの作品は『ろじ式』と題されているが、路地の主題としての広がりはさほどではない。表題となった理由は、そこには大小感や遠近感を狂わせる性質があり、異世界への入り口を見出しうるということにあるようだ (iii)。「ろじ」とは、維新派的異時空へ観客を誘う抽象的装置のことなのであり、つまりはその〈虚構〉と〈虚実〉の編成を指していると捉えうる。それでは何がその中心にあるのか。それは、本物と偽物が入り混じった無数の標本、殊に「骨」の標本群である。それらはまず、六百個に上るという褐色に縁取られた透明な箱に入れられて舞台美術を〈現実〉として構成する。そして同時に、物質的想像力が駆り立てるこの劇の主題論的意味連関の起点となることで、〈虚構〉に対しては物質的であり〈現実〉に対しては観念的な、その中間の〈虚実〉の厚みを豊かに創造し、表象代行される〈虚構〉の貧しいこの舞台の根幹となっているのだ。
 まず、長大な生命の歴史を封じた標本箱が圧倒的に現前しながらも、その中には、靴、時計、シャベル (iv)といった現代の人工物が紛れ込んでいる。ノイズとして現代を混入させつつ、過去が大規模に現在(そして未来)へと押し寄せるのであり、異時間の並存とその秩序の壊乱という維新派的〈虚実〉の本質をなす主題が、この作品の〈虚構〉と〈虚実〉の中核を形成しているのだ。そして、あまたの標本の中から特権的に選ばれた魚や四足動物の骨は、食事の跡を強く想起させる。食とは、自らが生きるために他の生き物を殺し取り入れるという生と死が強く結びついた行為であるわけで、それが数億年の過去というスケールで舞台上の現在に召喚されているのである。また、これら土中に葬られた過去の遺物群は、現在に見世物として生き返ったとも言える。かくして、もう一つの維新派的〈虚実〉である生と死の重合もが、この作品では壮大に主題化されているのだ。さらに、本来は不動である標本箱の頻繁な運搬は、主宰の松本雄吉氏が追求する〈虚構〉上の「移動」(・「漂流」)の主題 (v)と結びつき、それを発展させる〈虚実〉となっている。
 そしてこの標本をめぐる三つの主題は、収集や保存、往還といった派生主題と共に、土と水をめぐる物質的想像力に助けられて様々に変奏されてゆく (vi)。この舞台において土は、死者の眠る大地として過去と死を内に秘めつつ、そこから掘り出される金属へ、さらには生ける機械へと変貌してゆく。流れる水は、現在の生者の生命を満たしかつ脅かしながら、過去の死者を引き寄せる媒介ともなる。こうした想像力が働く主題論的連関が、この作品の具体的細部を豊かに織り上げているのである。


  各説

 この『ろじ式』は、配布物によればタイトルを付した10のシーンに分かれている。以下ではこれに沿って、その主題連関が、神話的世界にも及ぶ広大な時空において進展する様を辿ってゆくことにしよう。

     1 標本迷路
 収集の主題の下、標本箱を抱えた人々が狭い「路地」を機械的に「移動」しつつそれを積み上げ、少年達が捕虫網を突き出して駆け回る。そして、古生物時代の名称を唱え猿人の動きを真似る動作が遥かな過去を現在に招き寄せ、あるいはパキポキといった骨にまつわるオノマトペを唱えて骨の主題を物質的に強調する。まずは「ろじ」という表題と、「標本」を基点とするこの作品の主題連関の起動を、雄大な時間的スケールで印象付けるのである。

     2 地図
 得体の知れぬ三人の男が並んで電話をかけ、悪意を含んだ不気味な語りがしばしの間続く。そこでは、路地に加えて、瀕死のインコや寝たきり老人、殺され晒し物にされた犬、ハングルや戦没者遺族、入れ歯などが話題となり、死に近づく生や先の戦争による大量虐殺、食事や鍍金など、後に前景化される要素が予示されることになる。
 そして冬装束の一団が、帝国主義日本が版図を広げた東北アジアへの「旅」を思わせる台詞を、印象的な掛け声を挟み韻を踏むなど、詩的に朗誦しながらゆっくりと「歩む」シーンが続き、この劇の世界を地理的かつ歴史的に拡大してゆく。

     3 可笑シテタマラン
 続く場面は打って変わって、珍奇な被り物があどけなさを醸し出す童女達による、ユーモラスな連辞的失語の時空が展開する。ここでは、オナラやゲップといった食事が忌避する非礼や、股裂きや釜茹でといった残虐な処刑を意味する単語の連呼と、それに同調するリズミカルな仕草の下に、ムカデや毛虫までもがあっけからんと料理され提供されるのだ。そしてこうした風狂は、その白塗りの顔や幽霊のような仕草と相まって、幼くして死んだ少女達の「蘇り」を連想させることになる。ここに現れるのは、食にまつわる行為を介して、生と死、現在と過去、文化と野蛮といった対立物が乱交するカーニヴァルなのだ。これには、来年の豊作を願って「大地」の神への供物を捧げる祭りの儀式、さらには現実の農耕における施肥を重ねることもでき、そうなれば、過去の死を通じた未来の再生の象徴を読み取ることもまた可能となる。

     4 海図
 舞台は再びシリアスへ、アジアへ反転する。波音の中、遥か彼方を見つめる男達の口から漏れる地名は、海を越え、かつて大日本帝国が占領した南方の島々に至る。これらは、前の二場面の虐殺のイメージの残存によって、否応なく先の戦争で亡くなった膨大な人々を想起させる。また彼らは、浜に打ち寄せられる様々な「漂着」物の名も次々と口にし、それらは故国を遠く離れて散っていった死者達の帰還(への想い)に結びつく。ここでは広大な地理的往還の下、現在と過去、生と死、人と物が混交されているのである。

     5 おかえり
 明るいワンピース姿が目立つ女達は、四季と共に季節感溢れる花や木の名を語り、鳥のように鳴き羽ばたいて、その出会いと移り変わりを歓迎する。先の女達の場面に続き、またより明確に、生から死へ(春夏から秋冬へ)、死から再生へ(秋冬から春夏へ)という生命のリズムが示され、「魚」が例となる殺生を含めて、それが肯定されるのだ。過去・現在・未来の循環と共に、件の主題が変形されているのである。そして前の場面が想起させた戦争と「お・か・え・り」の旗は、彼女らを、過去の死者を迎え入れる現在の生者に重ねてゆく。

     6 鍍金工
 生が顕在化する女達の場面に続くのは、死が顕在化する男達の場面である。彼らが生命のない「金属」に無機的な作業を施すのは、ナイフやフォークに加えて弾丸なのだ。「生」産活動に従事しながらも、その対象が「食」具であり、死をもたらす「移動」物であるという形で、生は死に犯されている。ここで「水」は硫酸などの劇物として現れ、鍍金に使われる青酸カリは、生産の手段であると同時に毒薬の典型でもある。濃厚に漂う死臭の中で、彼らは次第に先の大戦の死者達と二重写しになり始める。

     7 金魚
 宝物の「収集」に励む子供達は、お馴染みの天を見上げる動作を交えながら、関西弁の語尾の撥音を用いた可愛らしい韻を踏む。不思議な既視感を湛えたそうした未知の光景は、密かに日常的時間を離脱してゆく。
 続いて主題化されるのは水が導く生死である。激しい雨のイメージは、命を育むと同時にそれを危険に曝す水の両義性を感じさせる。入れられたビニール袋に水がなければ生きられない「金」魚も、川に放たれた途端に「流されて」しまうのだ。そしてそれと対照的に、乾ききった標本箱に閉じ込められた死せる魚達は大事に「保存」されているわけで、ここにも生死の反転を見出すことができる。

     8 地球は回る、眼が回る
 標本箱の「行進」のしんがりを務めるのは、なんとラジカセである。機能しているという意味では生きているその生命を持たぬ「機械」から、おそらくもはやこの世にいない漫才師の、かつて「保存」された喋りが活き活きと流れてくる。そしてタイトルはその話の内容からきているが、一日という時の単位をなす地球の自転に関わる科学的知見の錯乱の感覚が、時間的秩序の混乱を錯覚させるのである。

     9 木製機械
 言葉の支配から身体の支配へ。台詞なき集団的身体技が一方向を「流れてゆく」この場面は、僅かに現代標本を残したほぼ舞台全面を使って、近時の維新派的身体運動の素晴らしさを満喫させてくれる。それが産む感動は、一方では、訓練された身体が揃える無機的動作のもたらす整合美やリズム感からくるのだが、他方では、温かみのある身体が見せる有機的仕草の心地良さにも起因している。表題も、そうした両義性を示すものと考えられる。

     10 かか・とこ
 最後は総題の路地が登場して全体を締める。「踵」と「所」を混ぜ合わせ片言=カタコトに掛けた各題が示すように、徒歩による路地の移動を主題に、役者達が片言を発しながら時にカタコトと様々に歩くのである。また、想像的装置としての路地はアジアに繋がる遠大な通路となり、吹き荒ぶ風の感覚が移動性を強調する。そして地理的移動の場面の台詞を再登場させるなど、その観点から全体が回顧され、この秀作の幕は下ろされる。


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(i) 2009年10月25日マチネ及び同28日観劇。同29日投稿。
(ii) 舞台上の事物は、それが表す〈虚構〉を剥ぎ取っても、それが舞台外にあるときの〈現実〉そのままではなく、舞台でしか感じられない質料的意味を纏っているわけで、それを言い表そうとしている。これは、渡邊守章氏(および渡辺保氏)が提唱した〈虚構の身体〉概念を、全ての舞台表象を視野に収めるべく、伝統的訓練と身体という限定を外して二重に拡張したものである。渡邊守章『仮面と身体』p242。
(iii) パンフレット記載のインタビューでの発言
(iv) 靴は過去の人の移動を象徴し、時計やシャベルは、過去の掘り起こしを自己言及している。
(v) 前掲発言
(vi) いわゆる四大元素の内、火はほとんどなく、大気は鳥や風が出てくるが広がりを欠く。他の舞台と同様、頻出するのは土と水なのだ。